第54話 ─国境の城塞─ あな あはれ きのふゆゑ 夕暮悲し あな あはれ あすゆゑに 夕暮苦し あな あはれ 身のゆゑに 夕暮重し*
< 城塞『シュガローフ』 - 近傍地 - サナタ教現地司令部 >
「従軍氏、貴方は何を言っているのですか?」
「ですから、シーミー川を越えることなくゴブリン共は前進を止めました。司教参事会長」
分厚いテントの布越しに雨天の弱い薄日は届かない。正午だというのにテントの中ではランタンが使用されている。
「わかりませんね。そろそろ南中になるというのに、彼らは何が不満なのですか?」
「不満と申しますか、先頭に立って集団を率いるゴブリンが残っていないのです。前線に残っているゴブリンは戦意が低く、私どもの言う事を聞きません」
「報告にあった弓矢による不意打ち攻撃ですか。名誉を重んじる軍のとるべき戦術ではありませんね」
司教参事会長と呼ばれた中年男性はやれやれと大仰に肩を竦める。
「意見を申し上げてもよろしいでしょうか?」
従軍氏は恐る恐るという体ながら、声とは裏腹に目には力がある。その瞳の奥には、自分であれば現状を変えられるという強い信念が宿っていた。
「お若い方の向上心を摘むことはいたしません」
司教参事会長は全身を耳と化して聞くという姿勢を見せるために、座っていた椅子の上で重心を動かした。その動作1つにも、人を試すような威圧感があった。
「ありがとうございます。今次の作戦指導は先見洞察が足りず、場当たり的な対処が繰り返されております。苟も軍事作戦とは遠く状況の推移を洞察達観し、あらゆる不測の事態に対応せねばなりません」
突然演説をはじめた従軍氏を司教参事会長は手のひらを見せて制止する。その静かな仕草が、テント内に張り詰めた空気をつくる。司教参事会長の目と首が僅かに動き、口から出てくる言葉にそれまでの柔和さは消えた。
「聖典の解釈会での講習を大変お勉強されていますね。真に喜ばしいことです。ですが貴方は『先見洞察』という言葉を正しく理解しておりません。わたくしどもは5年前より貴方の言う『先見洞察』を持って作戦準備を進めてきました。問題は戦闘行動開始後の軽挙妄動にあります。おわかりですか? 貴方の話もしておりますよ。軍には統帥というものがあります。今、統帥という言葉を用いましたが、貴方の発言は初歩の戦闘指揮すら弁えていないことも指摘しておきます。貴方が成すべきことは、聖典の解釈会で使用された個々の字句を覚えているか否かではありません。この状況を如何に好転させ得るのか、その一点についてのお話しをお願いいたします」
演説冒頭で話の腰を折られた従軍氏は俯いたまま顔を上げようとしない。子供の頃から大人たちや周囲の子供から優秀さを称賛されてきた従軍氏。その従軍氏がこれまでの人生で何度も見てきた脱落者たち。今態度をかえた司教参事会長に切り捨てられたのは従軍氏本人であること。功名をあげる機会を逃がさないとの出世欲が先に立ち、司教参事会長の地雷を踏んだことに踏んだ後に気がついた自身の間抜けさを従軍氏は“後悔”という言葉の意味を人生で初めて理解した
「ではこうしましょうか。攻城兵器を運搬している者たちの中で、戦意の旺盛なゴブリンを何十人か前線にお連れなさい。何れも力自慢の方々です。きっとお役に立つでしょう。組み立て前の攻城兵器の部材で移動盾を作ることを許可いたします。なるべく壊さないでくださいね。あれらは貴方の言う不測の事態に対応するために持ってきたものですから、城塞到達以前に使えなくしてはそれこそ本末転倒です。貴方にはそのまま最前線での戦闘指揮を命じます。ご自身の洞察力を十全に発揮して現在の膠着状態を終わらせてください。優秀な貴方には期待しておりますよ。質問がなければ直ちに始めてください」
従軍氏は顔を上げることなくとぼとぼと大型テントから出て行った。司教参事会長は静かに一つ息を吐き、机上の書類に視線を向ける前、ゆっくりと顔を左右に一度振った。
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< 城塞『シュガローフ』 - 近傍地 - 傭兵隊A分隊 >
シーミー川は川幅こそ10mもないが河底がV字型に切れ込んでおり、中央辺りはゴブリンの身長より深くなっている。
真夏の昼間でもなければ誰も冷たい川の水に潜りたいとは考えない。
A・B分隊に誘導されたゴブリンの群れは、冷たい水が流れる川に架かった唯一の橋へと殺到したが、橋に近づく度に左右から弓の斉射を受け、戦意旺盛な先頭集団が倒れると残りは逃げ帰るという行動を繰り返していた。
「おいおい! 何だありゃ」
「装甲馬車じゃないですか。隊長」
「んなこたぁ知っている。奴等どこから調達してきやがったんだ? あんな物」
古墳墓の上に寝そべっていた傭兵隊隊長と部下はそろそろと後ろに下がっていく。
朝霧は陽が昇ると何時しか霧雨へと変わっていた。
衣服を払っても泥は落ちず、身に纏いついたままだ。
下で待機していたA分隊の隊員から馬の手綱を受け取った隊長は古参の隊員を呼び寄せる。
「奴等装甲馬車を繰り出してきやがった。馬はいねぃが馬車が橋に乗っかれば確実に橋は落ちるか?」
「ちょっと見てきます」
隊長に問われた古参隊員は古墳墓の上に登って、しばらく様子を窺ってから戻ってきた。
「ありゃ駄目です。後ろからついてくるゴブリンと車高があまり変わりません。あんなゴブリンサイズで落ちるなら、我々が騎乗で通過した際に落ちてまさぁ」
「やはり駄目か……」
「隊長!」
「何だキクチューイ?」
「俺が行ってきます」
「バカ野郎! あんな物まで持ち込んでいるんだ。橋が落ちても、明日の朝までには架橋して通れるだけの資材も用意してあるのは確実だ。てめぇ無駄死にしてぃのか!」
「明日の朝までゴブリン共にシーミー川を渡らせなければ、あの女神を具現化した様な女性たちは確実にファグス・クレナへ逃げ込めます!」
キクチューイの声は興奮で少し上ずっている。
「……惚れたのか」
「違います! いえ、そうなのかも知れません。よくわかりません。ですが、あれ程までに神々しい女性の腸がゴブリン共に食い荒らされる姿を自分は見たくありません。それは確かです!」
キクチューイは15歳で入隊し、入隊時から数年間はニック・ザ・グラブの従者だった。手先の器用な男で部隊内では何かと重宝されている。隊長は共に居た10年間を回想する。
「それに、あの男。お高くとまったいけ好かない奴に見えたけれど、地下坑道を発見できたのは奴の手柄だそうですね。シュガローフの住民全員、奴に借りがあります」
「いや、それは…… 総司令官殿は内壁内への侵入を危惧されたので調査を指示したのだ。連中は外と内、両方に向けて坑道を掘っていたが、内壁内の貯水槽に穴を開けたら全員水死していただろう」
何か言い聞かせる口実はないかとニック・ザ・グラブは考え込む。
「隊長。命令はいりません。自分はあの橋で死んできます」
晴れやかな笑顔を見せキクチューイは橋に向けて駆け出していく。
大声で制止の声をあげかけるも隊長は自制した。今は戦時であり、ここは最前線の戦場であることを歴戦の隊長は他の誰よりもよくわかっていた。
後年の話だが、引退したニック・ザ・グラブは毎年私財からキクチューイの給与を捻出し、キクチューイの老いた両親に届け続けることになる。色香に迷った若い部下の勢いに押されて、無駄死にさせた自身への罰として。
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< 城塞『シュガローフ』 - 近傍地 - サナタ教最前線 >
「対岸へ押し入ろうとしたら橋が落ちただと! 葡萄棚型掩蔽壕の部材は回収したのか!」
新たに前線指揮を命じられた従軍氏は、引き連れてきた屈強なゴブリンと共に持ち込んだ資材で、忽ちのうちに葡萄棚型掩蔽壕を作り上げた有能な新任指揮官であり、信仰者たちを驚かせた。
信仰者は当初抱いた新任の従軍氏への印象を完全に書き換えることを強いられる。
今、目の前にいる男は頼りになる指揮官ではなく、青筋を立て、横溢した感情を押しとどめようとすらしない感情的な動物に成り下がっている。
従軍氏のあまりの変貌ぶりに言葉を失い、信仰者は生唾を飲み込んだ。
「川は普段より流量も多く勢いも強い時期ですから、部材の大半は川下に流れて行きました」
従軍氏は目を閉じて、両の拳を固く握りしめる。これ以上の感情を爆発させて目の前の男を怯えさせないように無理やり気を落ち着けさせる。
「俺はこれから架橋資材を掻き集めねばならん。他に報告することがなければ下がっていい」
「事後報告となりましたが、ゴブリン共は橋の落ちる前、盛んに水面に石を投げこんでおりました。上流から人が流れてきたようです」
「石など投げこまんでも、此の時期の冷たい水であれば流された時点で死ぬのは確実だろう。余程近くで川に落ちていない限りはな」
「そう思います。退室のご許可をいただけますか?」
「待て! 俺の持ってきた道具を使って渡河点まで塹壕を掘らせよ。ある程度掘り下げたら掘り出した土を対岸側に盛っていけ。匍匐前進が可能な高さであればよい。隠れながらの作業であれば士気の落ちこんだゴブリン共であっても従うであろう。弓矢には触らせるなよ。こんなところで矢を浪費させるわけにはいかないからな。手隙のゴブリン共には投石用の石を更に集めておくように言っておけ。明日には古墳墓までの地下坑道も開通するのだ。再架橋した後は損害を顧みずに数で一気に突破するぞ」
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< 城塞『シュガローフ』 - 近傍地 - 傭兵隊A分隊 >
「隊長! D分隊が到着しました」
中央部が崩落した橋を古墳墓上から眺めていた隊長は日夕点呼の為に下りてきた。
B分隊が7人、A・D分隊の8人が3列で、泥に汚れたまま整列している。
夜の帳が下りるのもまもなくだ。
D分隊長が一歩前に出る。
「城内警備任務をC分隊と交代! 10班・11班只今到着いたしました! 12班は兵舎にて待機中。欠員無し!」
「D分隊は直ちに左陣地へ! A分隊は後方に下がり戦術予備を命ず! 但し3班は帰舎してよし! B分隊6班も帰舎してよし! 帰舎後、待機中の1班・4班に前線への出動と段列(補給)任務を伝達せよ! 食料・水・厚手外套・乾いた衣服、必要だと思う物を洗いざらい持ってこさせろ!」
「了解いたしました!」
傭兵たちが一斉に、泥の地面を踏みしめて動き出す。
「隊長はお休みにならないのですか?」
1音1音を明瞭に発音するよく通る声で話しかけてきたB分隊長兼傭兵隊副隊長。
「ゴブリン共が一気呵成に攻め寄せてこようとしているのにか? 冗談はよせ、ヴィング」
ニック・ザ・グラブは、冷え始めた夕風を受けて、薄暗くなった川向こうを見据えた。
雨に濡れた衣服に冷風を受け、兵たちの消耗を考慮しはじめる。
古墳墓にて、全員の食事と衣服の交換が一巡した数時間後の深更。
グラブはB・D分隊長を呼び寄せる。
「撤退する。あの数は防ぎきれそうにない」
B・D分隊長は黙って肯いた。
* 上田敏訳詩集『海潮音』アンリ・ドゥ・レニエ「銘文」新潮文庫 1952




