第31話 人は決して倖せを避けて通る者ではない 花を見ないで道を通ることはできない*
「サークレット(通訳)は俺が手に持って使うから返して」
マヤは少し逡巡したが、何かを振り切るかのように頭からサークレットを外し俺に手渡す。受け取るときにマヤの指を離すタイミングが遅れたので、互いに引き合うようなかたちになった。
「店に着いたら、マヤは外国から日本に到着したときに着替えを入れておいたバッグを紛失し、今は俺の母の服を着ていると言っておくよ。最初に下着を買いに行くけれど、店員の女性はマヤが肌着の下に何もつけていないことに驚いた顔をするかもしれない。何か言いたそうにしていても、早く体のサイズを測ってくれと仕草で催促して誤魔化してね。店には沢山の下着が並べてあるが、店員に予算を伝えておくから案内された場所でマヤの好みの色やデザインの下着を2種類3着づつ選べばいい。胸と下に穿く2種類は同色同士のセット売りになっていると思う。でも、もしかしたら別々かもしれない。その辺の判断はまかせるから頑張ってね。女性の下着売り場に男性がいると店員が嫌がるから、最初に店員と話したら俺は店の外の通路にでるので、下着のサイズを測ってもらうのと選ぶときはマヤ1人で上手にやって欲しい。この後の服選びは一緒にいられるけれど、下着の購入に男はつきあえないからあきらめて」
不安を隠そうともせず、マヤはどこか渋々と頷いた。その表情を見ていると、初めての留守番を言い渡された子供を相手にしているような気分になる。
「あぁそれと。穿き替えたらこの紙袋に今穿いている下着を入れてね」
そう言うと折りたたんだ小さい紙袋を手渡す。下着屋の店員ってこういうのを捨ててくれと手渡しても受け取ってくれるのだろうか?
エレベーターやエスカレーターはマヤがどういう反応を示すのか予想できないので、階段で売り場に向かう。幸運にも階段では誰にもすれ違わなかった。
防火を兼ねた無機質な扉を手前に引くと、駅ビル通路で聞ける雑多な音が一斉に耳に飛び込んできた。左手でマヤの右手を握っていたが、音に驚いたのか経験のない雰囲気に怯えたのか、マヤは素早く俺の後ろに逃げ込み、俺の左手が背中の方に引っ張られる。
確か俺の護衛役じゃなかったか? この娘。
俺を盾代わりにして動こうとしないマヤに優しく話しかける。
「不安だったら下を向いて、後ろからついてきて」
マヤは俺の左手を握った右手を強く握りしめると、残った左手で俺のシャツも掴んできた。その小さな手に込められた力が、彼女の緊張を物語っている。
こうも必死に組みつかれては、傍から見たら、俺は連行される罪人に見えないか?
女性用下着売り場に着いたのでマヤを従えて女性店員に話しかける。案の定、店員は男が入ってきたので不愉快そうな表情をみせる。
「すいません。この娘なんですけれど、空港でバッグを紛失して着替えをなくしています。サイズをみてもらってから上下3着づつ購入したいのですが1万円で足りますか?」
剥き出しの敵意を向けてきた店員は、俺の言葉でようやく後ろにいる少女に気がついたようで表情を和らげる。
「はい。大丈夫です」
「彼女は国でも自分で買い物をした経験がないうえに、家族以外に身体を触られることもないので、多少の行き違いはあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「どこの国の人なんですか? とっても可愛らしいお嬢さんですね。それに足も長くて腰の位置が高い。羨ましいぐらいにスタイルがいいですね」
店員は不躾にマヤの全身をじろじろと値踏みする。
「ちょっと差しさわりがあるので国名は言えませんけれど、東欧寄りのアジアです。多分、日本の店ほどの品ぞろえはないと思いますよ。簡単な化粧をしたこともないようですし、日本の少女とは違う様です」
化粧をしていないという言葉に店員は食いついたのか、マヤに近づいて顔をまじまじと見はじめる。下着を買うのに、化粧の有無にそこまで食いつくなよと思ったが言葉にするのは避けてマヤに話しかける。サークレット(通訳)を握りながらマヤを強く意識すると、意識した側の言葉が口からでるらしい。
「それじゃあマヤ、俺は外の通路で待ってるから」
聞きなれない言葉に店員はびっくりしたのか俺の方を振り向いたが、俺は店員を無視して店を出る。それにしてもマヤの捨てられた仔犬のような目は可愛らしい。あれも状況に応じてプログラムされた表情なのかな?
サイズを測り終え、売り場に出てきたマヤは店員に下着を選ぶように促されているが、やはり決められないらしい。その顔には、どれを選んでいいかわからないという困惑がはっきりと浮かんでいる。店員が俺を見たので肯くとこちらの意図を察してくれたのか、次々と下着を3セット手に取るとマヤに手渡した。
こちらを見たマヤにも肯いてみせる。2人がレジに向かったので俺は再び店内に入ると会計を済ました。初めて見る紙幣をマヤは食い入るように見ている。紙幣や硬貨の説明もしておくべきだったと反省した。
もう1度階段に戻ると1つ上の階に移動する。商業ビルの雰囲気に慣れてきたのか、通路に再び出てもマヤは俺のシャツを掴まなかった。
ただ、手をつないだまま俺を盾にすることは止めてくれないので、やや歩き難い。
通路の先に目当ての店が見えてきた。季節ごとにかわるその店で展示される若い女性向けの服は俺の好みに合致するので、特に用がなくとも数ヶ月に1度はこの店の前を通りすぎている。
今日は初めてこの店の前で立ち止まった。
振り向いて後ろにいるマヤに確認する。
「服は俺が決めてもいい? 」
マヤが頷いたので、俺は店頭の1番目立つところにディスプレイされている服のサイズを確認する。偶然にも先程の店で聞いたのと同じサイズだったので、もう1度マヤに確認する。
「この服でいい? 」
少し間が空いたが再びマヤは頷く。その表情には、ほんの少しだけ期待の色が浮かんでいるように見えた。
店員を呼ぶ前に値段を確認しようと値札を探す。一瞬俺の表情筋が動きかけたが全力で阻止した。無表情を保てた俺は俺を褒めてあげたい。
この店で何かを買うなどという事態は想定外だったので、店の値段帯なんか一切気にしていなかったことが悔やまれる。
店員を呼んで試着の許可を貰い、マヤに着替えてもらう。
試着室から恐る恐る出てきたマヤをそれなりの言葉で褒め上げる。もちろん高い服なのだから似合って当たり前だなどと本当のことは言わない。
再度店員を呼ぶと、この服を着せたまま帰りたいのだが、1度脱がせた方が良いのかと尋ねたら、店員とマヤ2人が試着室に入り数分後に出てきた。
持ち合わせの現金では全く足りなかったので、ほとんど使わないクレジットカードを取り出す。マヤが不思議そうな顔をしていたが何も聞いてこないので説明はしない。店がくれた手提げ紙袋に母のジャージ等の一切合切を詰め込み店を出る。
ようやく俺の隣で歩いてくれるマヤを靴屋に連れて行き最後の買い物を済ます。店内には様々なデザインの靴が所狭しと並んでいた。見栄えと実用性のどちらを優先するのかと尋ねたら、「実用性」と即答されて逆に俺が焦った。着ている服と違和感のない実用的な靴というハイレベルな課題をなんとかこなす。
「最初に約束した施設に今から行くと、当初の目的の図書館は閉館時間を過ぎているから本を探せない。三圃制の本は次回でも問題ない?」
マヤは立ち止まり、俺の顔を見上げる。
外出の目的を今思い出したという、ハトが豆鉄砲を食らったような顔も可愛いな。
そう思った。
* 室生犀星『犀星王朝小品集』「津の国人」 岩波文庫 1984




