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第29話 怒髪衝天

 駐車場に到着するとず助手席側のドアを開ける。

 目線でマヤに腰かけてもらうよう(ウナガ)し、助手席側に加重がかかったのを確認すると、車内に響かないよう静かにドアを閉め、運転席の方に回り込んで乗車する。


「声をだしたら[不可視]の効果がなくなるんだったよね。もう声をだしてもいいよ」

 そう言いながらエンジンを始動させる。ラジオからシベリウス* の交響曲が流れてきた。冬のドライブではシベリウスを流しっぱなしにするのだが、陽光が差し込む春に聴くシベリウスは何か違うと思うのは、俺の変な思い込みなのだろうか。そんなことを考えながらラジオを切る。

「左右が逆だからわかりニクいかもしれないけれど、マヤの左肩の方にあるシートベルトのこの部分を引っ張って」

 そう言うと俺は右肩後ろにあるタングプレートを引っ張る。続いてマヤの腰をドア側に寄せてもらい、バックルとマヤが左上から引き出してきたシートベルトに繋げる。


「慣れないと違和感があるとは思うが、この乗り物を動かしているあいだはこういう状態にしておかないと官憲に止められるから我慢して。これからこの乗り物を動かすから驚かないでね」


 ゆっくりとアクセルを踏み込む。動かすときと止めるときに、ペダルの踏み込みを微妙に変えると頭がカクンと動くことがなく同乗者が喜んでくれるのだが、最近のタクシードライバーはそういうことをしなくなったのは何故なのだろう。


「先程のは音楽ですか?」

 車が動きはじめるとマヤが不思議そうに尋ねてきたので、もう一度ラジオを入れる。再びシベリウスの交響曲が流れはじめる。


「これもテレビなのですか?」


「映像と音が同時に流れるのがテレビで、こういう音声だけのはラジオだよ。まぁ細かい話をはじめると色々例外もあるけれど、大雑把なククりとしてはそういう風に区別しておけば当面は困らないと思う」


「そうですか。随分と寂しい、え~と、厳荘ゲンソウな曲ですが、日本では何人位で歌われるのが一般的なのでしょうか? 」


「ん? マヤの国では声楽セイガクが主流なの?」


「はい。そうです」


「こっちの世界でミサ曲と言われているのが、多分マヤの国で言う音楽だと思う。それとオペラと言われている様式も声楽セイガクが主だよ。これは声楽セイガクがなくて楽器だけ」


「まぁそうなのですか。私の知っている楽器とは少し違う音のようなのですが、使われている楽器もやはり私たちとは違うものなのですか?」


「いや。そっちで使っている楽器を俺は知らないから何とも言えない。気になるのなら家に帰ってからテレビで見せてあげる」


「あのぉ。テレビというものを見るときには、前回頂いた果物を一緒に食べることになっているのでしょうか?」


 この、だいぶ遠慮がなくなってきたな。というか、何の心情の変化だろうか、グイグイと詰め寄ってきている気がする。

「嫌なら食べなくても」 

 冗談めかしてそう言うと、マヤはムッとした表情になった。


「違います! わざと言ってますよね?」


「あぁごめん。間違えた。前回のと同じのがいいの? それとも他の果物も試してみたい?」


「他にもあるのですか! 色々試したいです」


 その声は弾んでいて、シートベルト着用時に見せた不機嫌さが雲散ウンサンしたようだ。

 帰宅したらテレビでクラシックか、現代風のライトなカメラワークと、70年代頃のカラヤンやバーンスタイン全盛時の荘厳ソウゴンなカメラワーク。

 見せるとしたらどちらが正解なのだろうか。


 俺が考え込んでいると車窓から外を眺めていたマヤがこちらを向く。

「この乗り物を車と言うのですよね。先程から見ていると、この車と同じようなのが見当たらないのですが、こういう背の低い車は特殊なものなのでしょうか?」


「ん~特殊と言えば特殊なのかな? 人が通れない道路もあって、こういう動力車しか走れない専用の道路があるのだけれど、俺がその専用道路を走っているときに声を掛けてくる官憲は必ず『こういう車に乗る人間は最初から速度制限を守る気がないのだ』って言ってくるね。合法的に販売されている無改造車なのに、その車に乗る人間は法を守る気が全くないのだと決めつけられると思うところの1つもある。それを特殊というのなら、これは特殊な車なのかもしれない」

 俺がそう言うと、マヤは少し首をかしげた。


オッシャっていることがわからないのですが?」


「こういう車高の低い車は一般的でないことは確かだね。今は、室内空間の広いゆったりとした車が好まれているから。この車は特殊と言えるのかもしれない。そういう室内の広い車に試乗すれば、マヤもこんな狭苦セマクルしい車は嫌だと多分言うよ」


「どうして但馬さんはこういう車をわざわざ選んだのですか?」


嗜好シコウかな。見た目で駄目と思ったものは使いたくないから、人がどう言おうと俺は俺が良いと思ったものしか使わない」

 俺はハンドルを握ったまま淡々と答える。すると、マヤの声が少し緊張を帯びた。

「私は合格ですか?」

 正面を見て運転中の俺の横顔をマヤが強い視線でじっと見ているのがわかる。


「今は変な服を着ているから保留」


「これを着ろと言ったのは但馬さんではないですか!!」

 怒髪天ドハツテンくとはこのことかというぐらいにマヤが怒り、飛び掛かってきそうな動きをしようとしたが、シートベルトに阻まれて小さく体が揺れるだけだった。


 ……シートベルトって、こういうときに便利だな。


「ごめん。ごめん。今のは言い方が悪かった。君の可愛らしさを引き立てるのに俺の母親の服では駄目だと言いたかったんだよ。これから買う服に着替えたマヤは、すれ違う老若男女ロウニャクナンニョの誰しもが見惚れることになることは確実だし、最高の女性に相応しい最高の服を身に着けて欲しいと願っているから、今の服には不満があるということを言いたかったんだけれど、言葉を端折りすぎたよ。ごめん」


 マヤは顔を背け、窓の外に目をやったまま、そっけなく答える。

「お口のお上手な但馬さんは、いつもそのようにお揶揄カラカいになっていらっしゃるのでしょうが、何事にも限度はあるということをご承知おきください」


 マヤが俺の顔を見ないで話しているのはこれが初めてかな。横顔は強張っていて、完全に不機嫌になっているのがわかった。ちょっとやりすぎたようだ。




 60年代や70年代のSFのように、円周率の計算をさせても無駄だろうし、カルネアデスの板** のような倫理を問うても対策ぐらいはしているか……

 Kobayashi Maru シナリオ*** を何か考えないと、マヤが人間なのか、人間に似せた何かなのか、未だわからない。

* フィンランドを代表する作曲家


** 船が沈み、大人1人のみが掴める板を挟んで2人の男が海上に浮いている。自分が助かるためであれば相手を殺しても許されるのかという思考実験。


*** 『スタートレック 2』米映画 1982 「訓練生の指揮する連邦宇宙艦で、適正を見極めるために作成された絶対にクリアできない訓練プログラム」

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