第24話 解決策がわからないのではない 問題がわかっていないのだ
<クーム侯爵領-ヨークバラ領庁-侯爵執務室>
廊下の中心に60センチ幅の黒い絨毯が1本敷き詰められている。爬虫類を連想する容貌の小男は、その絨毯を誤って踏まず、使用人のように壁伝いに歩いているようには見えないであろうと、当人だけが得心している自分専用の通り道を悠然と進む。寒々しい空気が支配している廊下の先。そこが小男の目的地だ。
「偉大なる御主人様。入室の御許可を賜りたく存じます」
ドアノック後、小男は定型句を述べる。無駄な感情や揺らぎは一切感じられなかった。声が聞こえたのか、ノックの音を受けてなのか、扉は部屋の主の意に応じて開いた。
部屋からの微かな温度差のある冷気が、廊下の空気とは異なる冷たさを小男に伝える。
20メートル四方はある無駄に広い執務室の最奥に、横幅が6メートル縦が2メートルというサイズの、使い勝手よりも部屋の主の虚栄心を満足させることが目的のような執務机が据えられ、机の後ろには長辺が3メートルの水彩画が飾られている。モチーフは優雅に思索しているブレーダルベイン=フィリップ=クーム侯爵。この部屋の主だ。暖炉に火は入っているが、部屋全体を暖めることを目的に設置されたものではない。
小男は部屋の中程まで進む。広大な机の先に座る侯爵は彫像のように動かず、ただその視線だけを小男に向けている。静寂が部屋の冷気をより一層際立たせた頃、ようやくその静寂を切り裂くように侯爵が不機嫌そうに問いを発した。
「なんだ?」
「只今、オールバラ家の者と日本人が球冠鏡にて接触してきました」
「オールバラ家は何と言ってきたのだ?」
侯爵は机に手を置きながら、胡乱気に家令を見た。その顔には興味を示す様子は見えず、どちらかというと冷ややかな表情が浮かんでいる。
「オールバラ家の者は何も話しておりません」
「ん? 日本人が代弁者か?」
「日本人は『球冠鏡について調べている』とのみ言ってきました」
「お前の話はわからん。あれは王家からの連絡を受ける物だ。今回のように稀に日本人が接触してくる事もあるが、我が領への訪問か、交易を望むぐらいなものだろ? 調べる? 何を? それにお前の話が全てであるのならば、何故お前はオールバラ家の者を見知っておるのだ?」
「日本人の不明な言動は深く考えなくともよろしいのではないかと。オールバラ家の者についてでございましたら、先年マリルボーン伯爵家のパーティーにて、ラウザー男爵家の従僕が庭園で殺害されたことがありました。覚えておいででしょうか?」
「ふむ、そのようなこともあったやも知れぬな」
侯爵は記憶を辿るように頷き、その後、軽く眉をひそめた。
「その際に、彼の家令テイラーに付き従っておるところを見かけたのでございます。『テイラーの秘蔵っ子』と言われておったのが、最近では『オールバラ家の長い手』と巷間で言われるようになった娘です」
侯爵は目を細めて小男を見た。
「彼の家はそのような娘を付けたのか。その『長い手』というのは、お前が今名付けたのではあるまいな? そのような話初耳ぞ。で、お前はその従僕を闇討ちしたのはその娘だと?」
小男はその質問に対してすぐに答えず、少し沈黙があった。すぐには答えず、何かを測るような沈黙を保った。
「そこまでは言っておりません。ただオールバラ家は20年前には没落必至と言われておりました」
その言葉に、侯爵は軽く眉を上げ、興味を示す。
「わしも選べるのなら、あのような優秀な家令を雇いたいものだ」
部屋の主は家令の全身を上から下まで一見する。
「菲才の身にては恐懼の極みにございます。20年前。彼の地に日本人が訪れた。そういう噂も当時はございました」
侯爵の目がさらに鋭くなり、言葉を促した。
「続けろ!」
「はい。その頃の彼の者は領内の見回り時にも見知らぬ文字で書かれた小本を常に携帯していた。そのような噂を小耳にはさんでいたことをふと思い出したのでございます」
「なるほどな。用件はわかった。それで? お前は我が家から誰を遣わすのが適当だと考えておる?」
「オールバラ家の者に見劣りしない能力と容姿の持ち主は、当家でも限られているのではないかと」
「回りくどい話はもうよい。ロミナを呼べ!」
「はっ!」
家令は室内の伝声管にて家政婦長に主人の命令を伝達する。
しばらくした後に執務室の扉からノックの音がした。
部屋の主が左手を扉の方に向けて、その腕を横に動かすと扉が独りでに開いていく。
扉が完全に開くと、最敬礼のお辞儀をしている短い赤髪の少女が顔をあげた。
少女は一言も言わず、姿勢良く背筋を伸ばし滑らかに、しずしずと歩きながら真っ直ぐに執務机の直前まで来ると静止する。
部屋の主は人差し指のみを立てた右腕を机上に向けると、ゆっくり時計回りに一度だけ円を空中に描く。
それを見た少女は、主の指と同じく時計回りにその場でゆっくりと身体を回す。
「お前の変わらない美しさは今日も眼福だ。服の上からでもわかる流麗な肢体はどこから眺めても素晴らしい」
「纏った衣服を脱ぎさり、直接御確認なさいますか?」
入室した少女は低いがよく通る声で訊ねながら、ブラウスのボタンに手をかける。
「我が劣情を誘い、子種を強請るか。平民とは浅ましいものよ」
スペンサーはこの数年、この不毛な儀式を幾度となく見せられていた。
「子細はスペンサーから聞け。お前には高い金をかけておる。今次のような男に媚びる所業、決して軽々に行うな。わしの満足を得られれば今度の日本人にお前をくれてやる。だが日本人というのは純潔信仰が強いと聞く。結果をださぬうちから間違いは犯すなよ。今度の日本人がお前の夫に相応しいか、それを決めるのは最短でも数年先の話だ。何年も経てば別の有用な日本人が現れるかも知れぬ。お前の使い道はまだまだあるのだからな」
侯爵はロミナに視線を向けたまま、一拍置いて言葉を継いだ。
「スペンサー。日本人には何と言って接触を切ったのか?」
「はっ。『明日の同じ時間。午後1時にもう1度、球冠鏡を使え』と伝えておきました」
「ロミナ。お前は先にスペンサーの執務室へ行け!」
少女は机の前と部屋を出る際に2度、最敬礼のお辞儀をした後、何も声を出さずに退出した。その背筋は最後まで真っ直ぐだった。
「スペンサー。可能であればお前の言う小本をオールバラ家から奪取するように日本人に命じよ」
「かしこまりました。それはロミナを出に使うということでよろしいのですか?」
家令は探るように尋ねる。侯爵は皮肉な笑みを浮かべた。
「お前の言う『長い手』が常に側にいるようでは、それも難しかろうがな」
「首尾よく本を奪ってくれば、本当にロミナを下げ渡すのですか?」
「お前は何を言っておるのだ? 耄碌したのか? 何かの役に立つわけでもない。盗みが上手いというだけの犯罪者なんぞ用が済めば殺せ! お前はいつから、ゴミの再利用について私に意見するようになった?」
家令は額が足につくのではないのかという程の深いお辞儀をした。もう10年若ければ本当に足と額をくっつけていたかもしれない。




