第12話 飢えて黍稷を求め 渇して井を穿つ 闘いて錘を鋳るがごとし
バックパックを背負い、左手に龕灯、回収した槍込みで束ねなおした槍束を右手で持ち上げると先に進む。
続き部屋は今戦闘のあった部屋の2倍くらいの広さがあったが目ぼしいものは何もなく、俺は何となくここがゴブリンのリポップ部屋なのかなぁと思いつつ、地図に印をいれ、右側に見えている通路に向かう。
……長い通路。身を隠せるところがなく、悪意のある何かに遠距離から攻撃されたら、それが罠であれ、他の何かであれ、背中を見せて逃げるしかない死地。
龕灯内の蝋燭の減りを確認し、半分以上残っているのを確認すると、遠距離から灯りを察知されないようにヘッドライトを切った。
龕灯の角度を調整し足元のみを照らす。頭部を狙撃されるより、膝下を狙わせた方がいい。
「[危険感知*]」
罠と待ち伏せを警戒しながら慎重に進む。この呪文は有用だが1時間しか保たない。
2・3メートル毎に天井に不審がないか確認し、通路奥にも少しだけ灯りを向ける。
できるだけ足音をたてないように、ゆっくりと歩く。20メートル程進んだところから通路の幅が広がってゆく。龕灯を後方が僅かに明るくなるような角度で足元に置き、並べて槍束も置いていく。
目の前は闇に包まれているが、左側の壁を時折触りながら右手に長い方の投槍を持って、広がった通路の先を慎重に覗き込む。
完全な闇だった。
ふと学生時代の事を思い出した。
夏、肝試しと称して鞍馬山まで赴いたとき。車を降りて懐中電灯を手に木立ちの中を友人と2人で歩いた。月の夜だったので夜空は明るかったが、道を覆うように木々が茂っている箇所がこんな感じの、真っすぐ前に伸ばした手の指先が見えない暗闇だった。抑えきれない悪戯心で懐中電灯を切って友人を驚かした時の事。
…………俺は生涯で唯一、男の悲鳴というものを聞かされるはめになった。
今日悲鳴を上げるのは俺かもしれない。
ソロというのは、思ったより精神が疲弊する。既に[光球]と日に1度しか使えない[危険感知*]を使っている。
この場所に何もなければ、今日は帰ろうと「[邪悪感知**]」を唱える。
10メートル程先に単体を探知した。[危険感知*]の知覚範囲外という場都合の悪さに溜息がでる。
ヘッドライトを点けると、元は二足歩行生物と思しき骸骨がこちらに近づいてきている。
先手必勝とばかりに攻撃しようとしたが、隙間だらけの骸骨に投槍は悪手だろうと思い直し、どのみち帰るつもりだったので[魔法の矢]2本でかたずけた。
見回すと、かなり広い部屋であることはわかったが大岩は見当たらない。
スケルトンの消えたところに落ちている固体をしばらく眺めたが、検証は第2層に入ったところのゴブリンで明日確認できるし、スケルトンの上位種とは遣り合いたくはない。何しろ、こちらのメインウエポンは槍なのだから洒落にもならない。と自嘲しつつ固体を拾う。
慎重に対応しているつもりだ。灯りの点灯・消灯。足音をなるべく立てないように気を擦り減らす慣れない歩き方。有利な距離を保つための投槍とスキル取得。
だが、闇から現れた骸骨の生理的な恐怖を誘う無機質な動きを前に、そんな「安全第一」にどれ程の効果があるのだろう。
結局、唯一使える攻撃魔法が無ければ一歩も前に進めない。
技術も、経験も、体力もない……
さて帰ろうか。
ダンジョン最初の部屋。銀白色の霧の前に立つと俺は念の為に自身を鑑定する。
{老化} まぁわかる。何時の頃からか朝目覚めた時、手足をどういう順番で動かしていくか、1度脳内でシミュレートしてから起きる習慣がついてしまった。これを怠ると手足の関節が曲がっては駄目な方に曲がりそうで、ちょっと怖い。
{健康状態不良}……うん。わかってる。痛風とは高校生の頃から長いお付き合いをさせていただいているので尿酸値が高いのは教えてくれなくても知っている。
老眼と加齢黄斑変性症もそれに含んでいるのだろうか? 鑑定(赤)ではこんなものか。
で、だ。ダンジョン公社ご自慢の“健康保持増進の赤ポーション”。
ダンジョン内ウイルス・細菌・菌類・アメーバー等の原生動物・寄生虫根絶に最適化していると謳われている。
ダンジョンが出現した当初、国は警察・自衛隊と、様々な名目で押し入ろうとする各省庁の公務員にしか入場を認めなかった。
日本発のパンデミックは絶対に起こさないという御題目。
そんな事態になれば(アジアの某大国も含めて)各国から膨大な金銭補償を請求されることは自明だ。世界最大の債権国である日本*** といえども対外純資産を吐き出して対応せざるを得ない。それは海外からの配当金や利子収入の減少に直結し経常収支の悪化要因となる。
しかしながらこの国のマスメディアは、円安になれば経済危機を叫び、円高になっても経済危機だと国民の不安を煽る。株価の高騰は見せかけであり実体経済を反映していないと何年も言い続けていても、一度株価が暴落すると、昨日まで何を言っていたのかきれいに忘れ、国民の不安を助長することに専心する。
大半の日本マスメディアの指向は、社会不安の増進で政権打倒を狙う左翼テロリストと本質はかわらない。
対露戦争や対米戦争では開戦へと国民を扇動し、負けた対米戦争では全ての責任を自分達マスメディアではないあらゆるものを標的と設定しレッテルを貼り攻撃する。喜々として死者に鞭打ち自分たちの正義を叫ぶ。
ダンジョン出現から1年。死者が1人も出ていないことを口実にマスメディアは政権与党にダンジョン開放を要求するようになった。
政権与党が譲歩して、入場した民間人には追跡装置の一定期間保持義務を条件に入場許可を提案したが、全てのマスメディアを激高させることとなり、慌てた与党は直ちにその案を撤回した。
そんな中、新たに設立されたダンジョン公社は、“健康保持増進の赤ポーション”なるものの開発に成功したと宣言する。
まともに考えれば、存在しないウイルスへの対抗薬などありえない話ではあるが、厚労省が驚異的な短期間で効能を認めた。
この頃からネットでは日本のダンジョンに関するサイトへの攻撃が激しくなる。
米映画『インフェルノ****』で、恐らく感染力は高いだろう、恐らく致死率は高いだろう、という2つの推測からのワクチン開発を捩り、公社の“健康保持増進の赤ポーション”を「インフェルノ薬」と呼ぶようになった。
何時しか日本人も陰では「インフェルノ薬」と呼ぶようになったが、国のお墨付きが付いたことで、日本の高齢者は定期的に赤ポーションを飲むことを目的にダンジョンに通うという奇妙な現象がみられることとなった。
この事態に驚いたダンジョン公社と厚労省は“健康保持増進の赤ポーション”は既存のインフルエンザや流行性疾患等には全く効果がないことをテレビ・ラジオCMや雑誌広告の大量発信と官公庁敷地内への立て看板設置によって国民へ周知することに追われるはめに陥った。
日本のマスメディアに格好の攻撃材料を与えることになった“健康保持増進の赤ポーション”だが、事態の推移を眺めていたダンジョン所有の各国が相次いで類似のポーションの販売をはじめたことで、厚労省大臣の首を取ると息巻いていた某新聞社も矛を収めることとなった。
そもそもダンジョン内の生物? はダンジョン外に出すと固体を残して消滅するのだから、感染症や寄生虫なんか気にする必要があるのだろうか?
一応、道義的責任もあることなので、有用なオーブ、若しくはスクロールかアイテムを手に入れるまでは、外出を控えるつもりではあるのだが。
* 危険感知 1時間持続。数メートル以内の悪意のある生物・罠・毒を知覚できる。
** 邪悪感知 1時間持続。36メートル以内の術者への悪意を探知する。罠や毒は探知できない。
*** 執筆当時の話です。
****『インフェルノ』 アメリカ映画 2016 ロバート・ラングドン教授シリーズの三作目




