第零章 第二幕 スイゲツ(三)
部活動が終わったのは、千紘達と別れてから数時間後。今の時刻は午後六時。所謂「逢魔が時」の時間。私は一人、明かりのついていない暗い廊下を歩いている。それはなぜか……。単に私が忘れものをしたからだ。
静まり返った廊下に、ローファーの足音がコツ、コツ、と規則正しく響く。周囲に若干怪異の気配はあれど、ここで変に焦ったりしてはいけない。私が見えている人間だとバレなければ大丈夫なのだから。
一人でいる心細さや恐怖を紛らわせるように視線を上げると、目に入ったのは廊下に映る月の影。窓の外に視線を移すと、大空に広がる夜の中には大きな満月が浮いていた。蛇口から落ちる水滴にも月が映っている。
『さっさと荷物取って帰ろう』
先ほど職員室の先生から借りた調理実習室の鍵を取り出し、鍵穴に入れる。ゆっくりと鍵を右に回すと、カチャリと解錠の音がした。そっとドアを開けると、ドアの先から生暖かい風がゆったりと流れてくる。調理実習室の中から響く音は、布が何かに引き裂かれるような不快な音と、硬い物が地面を引きずる耳障りな音だった。生温かい風には、何か腐敗したような臭いが混じっている気がした。
鍵が閉まっていたのだから、中にいるのが人間でない事は確か。調理実習室の中から聞こえるのは、明らかに自然の音ではない物音。人じゃないとすれば、これは……。この物音はきっと怪異の……。
『っ……!』
何とか悲鳴を飲み込み、勢いよく踵を返して来た道を戻る。途中ドアに足をぶつけてしまい、大きな物音が立ってしまったからか。それとも走った故の足音のせいなのかは分からない。調理実習室から何かの割れる音やいくつかの物の落ちる音が響き、バキッという音とともに調理実習室のドアが外れた。中から飛び出してきた何かが勢いよく前の壁にぶつかり、蛙が潰れたような音が響く。中から出てきたモノは、全身が黒い巨体。手が七本で、人間の目玉が一つ、そしてギザ歯の口を身体全体に、無数に持つ怪異だった。その怪異は、変に折れ曲がった調理実習室のドアをむしゃむしゃと狂ったように貪っている。
逃げれば助かるはず、そう思うのに目が離せず、身体も動かせない。頭の片隅では、過去に怪異に襲われた時の記憶がよみがえり、冷たい汗が背中を伝った。きっと動いたら殺される。でも、動かなくても殺されてしまう。
頭がパニックを起こしていると、無数にある目の一つと私の目がかち合った。その目はぐにゃりと弧を描き、ガチガチと鋭い歯をぶつけて心底愉快そうにケタケタと笑う。
私にはもう何かを考えている余裕なんてない。恐怖で震えてもつれそうになる足を何とか動かし、走ってその場を後にした。