第零章 第二幕 スイゲツ(一)
いろは学園に入学してから数日。校外学習も終え、高校最初の中間テストまで残り一ヶ月を切った。永遠と出会ってから、学園生活は恐ろしいほど順調で、特別これといった事件が起きることもなかったある日。
午後の授業が終わり、矢守先生の挨拶で締めくくられたホームルーム。教室内には放課後のざわめきが広がり、誰もがそれぞれの予定へと散っていく中、私は千歳に呼び止められた。
「叶向ちゃん」
『千歳?どうしたの?』
「六限で使った家庭科の裁縫道具を被服室に返さないといけなくて。クラスの人数分あるし、手伝って貰えないかな」
千歳の手元にあったのは、クラスの人数分の裁縫道具が入った青いコンテナ。どれも小物ばかりだけれど、人数が多い分重くなり、運ぶのは困難だろう。
『いいよ。一緒に運ぼう』
「ありがとう。叶向ちゃん」
二階の被服室まで運んでいる途中、隣のクラスにいる千歳の双子の兄、千紘にばったり出会い、同行することになった。千歳は出会った頃から千紘の無神経な態度に呆れている節があり、その顔にはあからさまな嫌悪感が浮かんでいた。千紘のスルースキルが高すぎて、若干引いたのは秘密だ。
「ねえ、これってどこに片付けるの~?」
「千紘。勝手に物をあさらないで……って、ああもう。絡まった糸は自分で解いてよ」
「はーい!」
私と千歳が裁縫道具を片付けている横で、千紘は楽しそうに何かの歌を歌いながら糸を解いている。
「~~……緑の山々 風はさわやか 故郷の土に 根を張るように……~」
千紘の歌に意識を集中させれば、口ずさんでいたのは聞いたことのない歌だった。少し昭和味があるような、スポーツの応援歌のような曲。千紘は昭和味のある曲が好きなのかな。双子の千歳ならこの曲を知っているかもしれない、と千歳に声を掛けると、「知ってる」と少し時間を置いた後に答えた。
「まあ、あの曲はもう二度と聞くことが無い曲だけどね」
『CDとかにはなってないの?昭和のなら、あの、ラジカセの四角い……』
「テープカセット?」
『そう!それ!』
千紘の趣味なのかな、珍しい。と考えていると、千歳は私の心を読んだかのように否定を入れた。「あれは、千紘の趣味じゃないよ」と。そして、テープカセットにもなっていないと否定された。「なっていたとしても、今はもうない」と言い切る千歳。試しに聞いた歌詞を文字で起こし、ネットで検索を掛けてみるけれど、どれもヒットしなかった。
再度千紘に視線を向けると、千紘の周りに黒い靄のようなものが見える。入学式にも見た、両親の周りを浮いていたものとそっくりなもの。恐怖で千紘から目を逸らし、作業に集中するよう努める。
いつの間にか歌い終わったのだろう。やることのない千紘が私達の周りをくるくると回り始めた。千紘の周りに黒い靄はなく、見間違いだった、と胸をなでおろす。作業中に周りをうろつかれるのは少し鬱陶しいけれど、私達はまだそんなことを気軽に言えるような仲じゃない。少し困っていると、突然、千歳が千紘の頭をペチリと叩いた。
「邪魔よ。鬱陶しい」
「ガーン!千紘くんショック!」
千紘は両手を自分の両頬に当て、明らかに「ショックを受けています」といった表情を作った。私は、どんなリアクションをとればいいか分からず、苦笑いをするしかない。
千歳が裁縫道具の数を再確認し始めたので、私はフェルトなどが貼った裁縫キットが人数分あるかどうかを数え始める。出席番号の順番で並んでいるから、提出していない人がいればすぐに分かる。
「あれ、針山が足りない……」
『えっ、来るときに落としたのかな? 探してくるよ』
「ごめんね、叶向ちゃん。お願い」
私の仕事を千紘に引き継いで廊下に出る。来た道を戻ろうと階段の方を向いた時、階段の角から見えた紺色の羽織。この場所で羽織なんか着ているのは一人しかいない。
『こんなところで何してるの……永遠』
階段の前まで来ると、そこには案の定壁に寄りかかっている永遠がいた。入学式以降、顔を合わせる事も見かける事さえなかったのに、なぜ今になって目の前に現れたのだろう。
永遠は「聞きたいことがある」と、真剣な表情で問いかけた。
「ねえ、最近変わったことなかった?」
『変わったこと?』
「変な怪異の噂を聞いたとか、見慣れない人間がクラスに紛れているとか」
永遠の言う「変わったこと」について考えてみるけれど、心当たりなどあるはずもなく。しいて言うのなら、学園で怪異に捕まる事がなくなり、学園生活がおかしなほど順調なことぐらい。でもそれは、永遠が願いを叶えてくれているからであって、別にこれといっておかしいことじゃないはず。
『……ないかな。むしろ、順調な学園生活だと思うけど』
「そう……。叶向、今日の放課後は残るの?」
『うん。料理部の見学に行くから』
今日の放課後は、私が入部して初めての活動日。場所は調理実習室。これから戻って裁縫道具の片付けついでに見学をしようと考えている。だから早く針山を見つけないとなんだけど……。
『あ、そうだ。永遠、針山みなかった?ひとつ足りないの』
「……あぁ、そういえば拾ったわね。これ」
永遠がポケットから出したのは、まさしく探していた針山だった。永遠が持っていたなら、そっとコンテナの中に戻しておいてもよかったのに、と思ってしまう私は自分勝手だ。
『ありがとう、永遠。じゃあ、私は部活動があるし、片付けもあるからもう行くね』
「ええ」
小さく手を振る永遠。手を振り返せばいいと思うけど、そこまで親しくないから手を振り返すのもおかしく思えてしまって、結局そのまま被服室へと戻って来てしまった。流石に失礼だったかもしれないけれど……。永遠に心の中で、ごめん。と小さく謝りながら千歳と千紘の元へと駆け寄る。
『針山あったよ。落ちてた』
「……よかった。じゃあ、これで全部だね」
『うん』
千歳は安心したように微笑みながら、私から受け取った針山をしまう。千紘は未だにあの曲を繰り返し歌い続けている。まるで、壊れたカセットテープみたい。
再度千歳が裁縫道具の数を数える。今度は全部きっちり揃っていたらしく、数え直しもなく片付け作業を終えた。私はこれから部活動見学だけど、千紘と千歳はやることがあるみたいで、教室に戻ってカバンを取って解散することになる。
カバンを手に取り、二人にさよならを告げると二人も「また明日」と笑って手を振ってくれた。そのまま調理実習室に行けば、同じ部活の先輩や同級生達が迎えてくれる。こんな、怪異に脅かされない生活がこれからも続けばいいと思ってた。思い続けていたかった――。