37 イーヴァ帝国4
ゴツゴツとした岩肌に、へばりつくように自生する矮性の高山植物が見える。
吹き荒ぶ風は冷たく、息をするのも難しかった。
(まあ、息ぐらいできなくとも二、三時間は大丈夫なんだけど)
昔のアイーシャならば、息ができるかどうかなどまったく気にしなくてもよかったのに。
本当に、今の自分は弱くなってしまったのだなと、アイーシャはしみじみ実感した。
息をするのは諦め周囲を見渡せば、長い黒髪を風に大きく靡かせる男性が、直ぐ傍に立っている。
四つ足で立つ場所がなく本来の姿に戻ったザラムだった。
「魔竜の住処は見える?」
「――――あそこかと」
アイーシャの問いかけに、山の北側にある比較的大きな谷間をザラムは指さす。
たしかに、盆地となっている底辺部に数十頭の魔竜の群れが見える。
「行きましょう」
アイーシャは、ポンと岩を蹴り、宙を飛び、谷の方へと自然落下した。
「お待ちください。お髪が乱れてしまいます」
ザラムは、自分の髪は強風に乱れ放題なのに、アイーシャの髪が靡くのは嫌だったらしい。
あっという間に彼女の周囲に透明な防壁を張り、空気の動きを止めた。
(なかなか気配りできるようになったわね)
「ありがとう、ザラム。――――グラン!」
谷の中腹に張り出した岩に降りたアイーシャは、ザラムに礼を言うと同時に、魔剣グランを呼びだした。
いつもどおりパッと現れた一振りの大剣が、白銀の柄を輝かせる。
アイーシャの手のひらに滑り込んできた剣は、武者震いするかのようにブン! と大気を震わせた。己が切れ味を存分に披露できる機会を待ちわびているのかもしれない。
「まだよ、グラン。一応魔竜の様子を見てからね。……ひょっとしたら、あの魔竜は特異体なのかもしれないわ」
特異体とは『魔』のつく生き物の中に稀に現れるとびきり優れた個体のこと。能力はもちろん知力、精神力も飛び抜けていて、普通に意思疎通ができる。
アイーシャやザラムが近づいているのに、谷の魔竜が慌てず騒がずジッとしている様子から、この群れを率いているのが特異体ではないかと、アイーシャは思った。
グランは不服だったのだろう、暴れたいとでもいうようにブルブル震えだす。
しかし、アイーシャが柄を強く握れば、とたん大人しくなった。
「いい子ね。我慢してくれたら後で手入れをしてあげるわ」
魔剣のグランに基本手入れは必要ない。しかしいらないということと、それが好きかどうかは別問題で、グランはアイーシャに手入れをされるのが大好きなのだ。
グランは、今度は小さくプルプルと震えだした。どうやら喜んでいるらしい。
可愛い魔剣の様子に、アイーシャが思わず笑みを浮かべれば、ザラムが警告の声を上げた。
「タドミールさま、きます!」
なにが? と聞く必要はない。
足下、魔竜のいる谷底から、桁違いの熱量を持った攻撃波が昇ってきたからだ。
アイーシャは――――思わず微笑んだ。
「まあ、こんなことってあるのね」
ザラムが、自分の体を闇に包み攻撃波を遮る。
一方アイーシャは、暴力的なその力を全身で受けとめた。
「あの魔竜は普通の特異体じゃないわ。神の加護を受けた特異体よ! しかも……レックスだわ!」
高い知能と能力を持つ特異体に加護を授ける神は多い。
かくいうアイーシャも以前破壊神であったとき、気まぐれに魔竜の特異体に加護を授けたことがあった。
その魔竜の名前がレックスである。
「こんなところで再会するなんて!」
信じられない偶然だ。
ちなみにレックスの放った攻撃波は破壊の力の塊のため、アイーシャにとっては力にこそなれダメージにはならない。
「レックス!」
アイーシャは、喜々として魔竜の名を呼んだ。
(あの可愛い子は、私を覚えているかしら?)
とたん衝撃波が、パタリと止む。
こちらを見上げるゴツゴツした頭が見えた。
「レックス、久しぶり! 元気だった!」
アイーシャは大きく手を振る。
闇に包まれていたザラムが現れて、不快そうに眉をひそめた。
「私はともかく、加護を授けてくださったタドミールさまを攻撃するなど、言語道断です。全部まとめて消滅させてもいいですか?」
「ダメよ。ザラム。そんなことをしたら逆鱗までなくなっちゃうじゃない」
「では、逆鱗さえ残せばいいですか?」
おや? 今日のザラムは本当に機嫌が悪いらしい。
そういえば、ザラムはアイーシャが可愛がるものはみんな嫌いで、当然レックスも大嫌いだった。
アイーシャが、レックスに会えて嬉しそうなのが気に入らないのだろう。
(本当に、焼きもち焼きなんだから)
「ザラム、今の私は、あなたを一番頼りにしているのだから、そんな意地悪止めなさい」
アイーシャがそう言って宥めれば、ザラムは複雑そうな顔をする。
「私が一番ですか?」
「そうよ」
「…………わかりました。嘘でもありがたく騙されておきます」
なんたる言い草だろう。
「嘘ではないわよ?」
「――――タドミールさまの不動の『一番』に成り代われるなどと、驕ってはおりませんので」
アイーシャがそう言えば、ザラムは少しの間を空け、そう返してきた。
その台詞にちょっとビックリする。
「まさか……ザラムったらあの子と比べたの?」
ザラムは闇の神だ。
あの子とは、創造神のこと。
(高位の神であればあるほど、あの子の凄さは身に染みているはずなのに……)
「……すみません。不遜で」
「いえ、不遜とかではないけれど……ゴメンネ。あの子だけは別格なのよ」
「……存じております。すみません」
頭を下げるザラムに、アイーシャは困ってしまう。
(仕方ないわね。あとで馬に戻ったら存分にブラッシングしてあげましょう)
心にそう誓う。
それより今はレックスだった。
谷底に目を移そうとすれば、突如大きな咆哮が響く。
『タドミールさまぁぁぁぁぁぁ~!!』
同時にグングンと下からなにかが昇ってくる気配がした。
『タドミールさま! タドミールさま! タドミールさまぁぁっ!!』
一度呼べば名前は聞こえる。
「落ち着きなさい、レックス」
アイーシャの側まで飛んできて、周囲をグルグル回る魔竜というには大きすぎる個体を彼女は叱りつけた。
『ほ、本物! 本物のタドミールさまだぁ~! う、う、うわぁ~ん!!』
――――うるさい。
(ザラムに尻尾だけでも消滅させた方が大人しくなるかしら?)
アイーシャの物騒な心中には気づかず、魔竜は叫び続けた。
『タドミールさま、タドミールさま、今までどこにいらしたのですか? 全然会いにきてくださらなくなって、僕がどんなにか――――』
ガォォ~! グォォ~! と吠えながらレックスは騒ぎ立てる。
仕方ないのでアイーシャは巨大すぎるサイズの魔竜に近づくと、問答無用でその体を谷底に叩き落とした。
ゴーッ! という効果音つきで落ちていったレックスは、ズズゥ~ン! ドドォ~ン! と地面に激突する。
それでもさすがに世界で一番固い鱗を持つといわれる魔竜なだけあって、レックスはフラフラとしながらも立ち上がった。
プルルと頭を震わせて、砕けた瓦礫をガラガラと体から落とす魔竜の前に、アイーシャはすっくと降り立つ。
「お座り!」
レックスは前足を揃え、ドスンと尻を地面に着いた。
「伏せ」
そのままベタリと腹ばいになり、アイーシャをひっしと見つめてくる。
長い尻尾がドタドタと揺れて、たいへん嬉しそう。
アイーシャはコホンとひとつ咳払いした。
「話は、また今度よ。今日の私は急いでいるの。――――逆鱗を寄越しなさい」
『はい! よろこんでぇ~!!』
凶悪な尻尾が、一層大きく左右に振られる。
――――こうしてアイーシャは魔竜の逆鱗を手に入れたのだった。