5、パンナコッタまではがむしゃらに
パンナコッタ。
パンナ(生クリーム)をコッタ(煮て)し、ゼラチンで固めたもの。
滑らかな食感に濃厚な味わいのイタリア生まれの冷たいスイーツ。ストロベリーソースやフルーツを添えたりと、さまざまなバラエティを楽しめる。
「なるほど」
訓練や試験で忙しい安達に、初めて若菜からメールが届いた。次にお休みが取れたら、イタリア料理を食べましょう。デザートはもちろんパンナコッタです。といった内容だった。
そういえば少し前にパンナコッタというスイーツが流行った。興味はあったが野郎一人で店に入る勇気はなく今に至る。さすがにコンビニにもそれは置いていなかった。
安達は若菜に返事をした。
まだ休みがいつとは言えませんが、今からとても楽しみです。
「さて、イタリアンということはそれなりの格好をした方がいいんだろうな」
安達に新たな悩みが生まれた。若菜に恥をかかせないようにしなければならない。安達自身きちんと自覚しているのだ。どこの誰よりも自分の顔は強面であるということを。だからせめて服装だけは清潔感のあるものをと意識している。そう、駐屯地から一歩でたら安達も普通に年頃の男だ。そこそこファッションには興味はある。
「しかしなぁ……この髪型じゃあなぁ」
安達はゴツゴツした分厚い手で自分の頭を撫でてみた。レンジャー訓練を受けるための推薦をもらった安達は、いわゆる丸坊主である。そして、これからもおそらく丸坊主に近い髪型か刈り上げの状態が続くだろう。
陸上自衛隊はその名の通り陸上戦を想定した部隊で、格闘になった際に敵から髪の毛を掴まれないために短くしているのだ。これは制服や戦闘服を着てこそ格好がつくのだが、一般的にかしこまった場面でのファッションにはかなり悩まされている。
なんせ、安達は丸坊主に加えて強面だから、他の隊員よりも不利である。
「おい安達。なにてめぇの頭撫でまわしてるんだ。欲求不満もたいがいにしろよ」
同期の内田である。
「おまえには関係のないことだ」
「寂しいこと言うなよ。もうすぐ俺たち離れ離れになるんだぞ?」
「部隊が変わるんだからそうだろう」
「冷たいねぇ」
とはいえ、内田とは入隊当時から切磋琢磨してきた仲だ。安達も寂しくないわけではない。多くの仲間が任期中または任期満了で退官していった中で、内田はいつも変わらず安達の近くにいた。
「おまえは? どうなんだ」
「ああ? 仕事かそれとも女か」
「どっちもだ」
「まさか安達から女のことを聞かれる日がくるなんてな。雪でも降るんじゃねえの」
「ばかやろう」
「あははは」
くだらない他愛のない話で笑ったり、揶揄いあったりできるのはお互いを信頼している証拠だ。男にしか分からない何かで繋がっている気がしている。
「まあ、あれだ。安達は格好つけずに聞いてみたらどうだ。どうせ、どんな服を着たらいいんだって悩んでるんだろ? そうだ。一緒にショップで探してもらうのはどうだ。女はそう言うの、好きだぞ」
「俺のものを買うのにか」
「おまえのものだから楽しいのさ」
「なぜだ。分からんな」
「だろうな。ガハハハ」
兎にも角にも、今は目の前のことからやらねばならない。看護官の勉強もレンジャー訓練を受けるための体力づくりも、がむしゃらにやりたい。
ふと、なぜか安達の脳裏に微笑む若菜が浮かんだ。美味しいですねとスプーンを口に運ぶあの仕草だ。
国民のためにという大きな枠の中に、若菜という女性が具体的に存在をあらわにした。近ごろの安達は纏う空気、心さえも変化し始めている。だが、それに本人だけが気づいていない。
「恋をすると、弱くも強くもなるもんだ。安達、掬われるなよ」
「なぜ恋をしたら掬われるんだ。意味が全くわからんな」
◇
自衛隊の看護師は大きく二種類に分かれる。自衛隊看護師と技官看護師だ。
自衛隊看護師は看護師(准看護師)免許を持つ階級のある自衛官で、自衛隊病院、基地や駐屯地の医務室、衛生科などで働き災害派遣、復興支援も行う。
技官看護師は看護師免許を持ち、自衛隊病院、基地や駐屯地の医務室、防衛医科大学病院などて働き、防衛省職員だけでなく、一般の患者も対応する。
安達の目指す自衛官看護師(看護官)への道は過酷であり、決して容易ではない。
いわゆる自衛官看護師は一般的な看護の知識に加え、戦地や災害地での救護を想定しているため、知識と体力のバランスが求められる。
基地内の医務室で勤務するだけでなく、野外訓練に同行し、隊員の万が一に備えて看護官がつく。
そして、衛生科全体での野外病院の設営訓練や、その環境下での救護、医官のサポートを行う。
そのせいか、レンジャー徽章を持った看護官が多い。
本当に毎日くたくただった。
いつもと変わらない迷彩の戦闘服に赤十字の腕章をつけているのが衛生科隊員だ。重い荷物を抱えて走り、野外でテントを張る。泥まみれになりながら倒れた自衛官を回収して運ぶ。車両の入らない場所であれば、倒れた人を背中に担いで移動しなければならない。顔は汚れ、汗にまみれ、息は絶え絶えである。
「意識レベル確認しろ!」
「はい!」
「血圧! バイタルしっかりとれ!」
「はい!」
「遅えんだよ! そんなんじゃ死ぬだろぼけぇぇ」
「すみません!」
「走れ! 急がないと死ぬぞ! 誰も死なせるな!」
「はいっ!」
この世界には白衣の天使など存在しない。野戦を想定した訓練では、自分の命も危険に晒されるのである。誰も死なせるな。それは、非常に重い言葉であった。
(普通科の訓練より、キツくないか……気のせいではないだろう)
レンジャー徽章を手にする理由がわかった。レンジャーの精神がないと、この仕事も務まらないということに。ここで働く看護官だけではない医官でさえレンジャー徽章を持っている者がいる。
さすがの安達も一日が終わると死んだように眠るのであった。当面は非常呼集がかかっても、動けないだろう。
ロッカーに入れたままの携帯は何通ものメールが溜まっている。全てが若菜からのものだ。
しかし、もう一週間は開いていない。
目を閉じると走る自分がいる。夜中に何度も脚が痙攣する。安達は大好きなスイーツを食べることすら忘れて、勉強と訓練に没頭していた。それも赤十字の腕章を手にするために。
お身体大丈夫ですか。熱中症に気をつけて頑張ってください。若菜
プリン食べていますか? テレビでコンビニスイーツの特集をしていました。若菜
まだまだ暑いですね。うちの醤油店でアイスクリームにかけるお醤油を開発しました。いつか食べて欲しいです。若菜
四季さんに、また会いたいです。若菜
このメールを読んだら、安達はどんな気持ちになるのだろうか。若菜の気持ちをどうとらえるのか。
昨日もがむしゃらに、今日もがむしゃらに、明日もがむしゃらに訓練に励むだろう安達。
誰かから心配され、会いたいと求められることに何を思うのか。
ロッカーの携帯のバッテリーも間違いなく底をついているだろう。
それに気づくのはもうしばらくした、次の休養日である。