第3話(2)
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事件から一ヶ月経っても、何の進展も無かった。近所に聞き歩いて分かったことと言えば、祐介への虐待のひどさが浮き彫りになるばかりで、不審者の目撃など一切出てこない。
現場の指紋や足跡は見事に拭き取られており、アパート前の道路も事件当日から二日間降り続いた大雨で、証拠になりそうな物は何一つ残っていなかった。
残すは、祐介の記憶が戻ることだけを願うしかない。しかし、祐介は一向に思い出す気配を見せなかった。精神科医によるカウンセリングを行っていたが、何の進展も窺えない。
「二戸神先生」
白衣姿の五十代半ばの医師が振り向いた。
「ああ、矢部さん。お久しぶりですね」
矢部と呼ばれた中年の捜査官は、ぎこちなく歯を見せて笑った。
「どうも。先生、今、先生が佐々木祐介ささきゆうすけくんの担当をしているそうですね?」
「ええ。なかなか、難しいですねえ」
「なにか気になったこととか、ありませんかね?」
二戸神は深く息を吐き出し、ゆっくりと左右に頭を振った。
「以前と変わりなく。頭を撫でようと手を伸ばせば、怖がる。ですが、なぜ自分はそれが怖いのか分からない。身体が覚えているようですが、記憶までは。相当、酷い虐待を受けていたのでしょう。それらを思い出したくないと、本能が働くほどに」
「先生の得意な催眠療法で何とかなりませんかね」
矢部は冗談でも言うかのように笑いながら言った。その言葉に、二戸神は白髪の交じった髪を掻きながら「いやあ」と苦笑いをする。
「実は、何度も試してみてはいるんですがね。なかなか催眠にかからない子でして。今は、自分が何者か、なぜここにいるのか、我々が何なのかが分からず、不安なようで。警戒心がとにかく強い」
「先生ほどの方でも、だめですか?」
「いやあ、こればかりは。どんなに有能な催眠術師でも、催眠にかからない人はかかりませんからねえ」
「そうですか」
「こちらとしても、手を尽くします。それより、あの子の身元引き取りはどうなりましたか?」
書類を持ち直し、窓際のベンチに向けて座りましょうと言うように、二戸神は手を差し出した。矢部は頷きながら二戸神と共にベンチに座った。窓硝子から差す日差しが、背中を温める。
「佐々木亜矢さんの両親は亡くなっておりまして。親戚も居ませんので、児童養護施設へ入ることになるかと」
「そうですか……」
矢部の言葉に、二戸神は何かを考え込むかのように顎に手を当てた。ややあって、二戸神は姿勢を正してベンチに座り直すと「ひとつ、案があるのですが」と改まった声色で矢部に言った。
「私の方で、引き取らせていただくことは出来ませんか?」
突然の申し出に、矢部は心底驚いた様子で二戸神を見つめかえした。二戸神は穏やかな笑顔を湛えながら「いやね」と話し始める。
「私には一人息子がおりまして。結婚をしているのですが、子供が出来ないもんでして。最近、養子をと、考え始めていた所なんです。もし、祐介くんの引き取り手がないようでしたら、息子夫婦の家で育てるのはどうかと。私も居ることですし、祐介くんの記憶が一部でも戻った場合、些細なことでも、すぐに矢部さんにお知らせできますし。どうでしょうかねえ」
穏やかに降り注ぐ日差しが、二戸神の所々ある白髪をきらきらと輝かせている。矢部は二戸神の申し出を考えるかのように、目をきょろきょろと動かし、考えていた。目の動きが、二戸神の穏やかな笑みに止まる。
「どうして、祐介くんを養子にしたいとお思いで?」
二戸神は微笑んだまま一度、深く頷いた。
「あの子の担当をしていて、大変、頭のよい子だと思いまして。二戸神家に迎入れるには、申し分ないと」
「失礼ですが、息子さんはどのようなご職業で?」
「M銀行の健康相談室でカウンセラーをしております」
「健康相談室、ですか」
「まあ、息子の場合、私同様、精神科医ですからメンタルケアの方を。銀行はストレスが多いのでしょう。毎日、ずいぶんと色々な悩みを聞いているようですよ」
矢部は、「ほお、親子で精神科医ですか」と感心したように言いながら、胡麻塩の顎髭を撫でると、しばし黙った。二戸神は黙ったまま自分の手元にあるファイルに目を落としていた。
矢部は横目で二戸神を見ていた。その横顔はどこまでも穏やかで、もし万が一、自分が精神的におかしくなったときには、是非とも彼にカウンセリングを頼みたいと思うほど、安心感のある佇まいだった。矢部は両手で、ぱん、と自分の両股を叩き、一つ頷いた。
「わかりました。私から上に言ってみましょう。私としては、是非にとお願いしたいところですがね。私の一存ではではどうにも」
鳥の鳴き声が遠くで聞こえる。
二戸神はにっこりと口角を上げると、ええ、と答えた。
「では、お願い致します」
ふたりはベンチから立ち上がると、それぞれ別の方角へ歩き出した。
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