怪獣はいた
「じゃあ、まだしばらくは起きてそうだね。わかった、じゃあ、もうすぐ帰るよ」
電話を切った僕は、駅のコインロッカーから一つの包みを取り出す。
緑色の包み紙にはサンタクロースやトナカイ、雪だるまなんかの装飾が散りばめられるように描かれていて、その包まれた理由と季節を明確に示していた。
「よ……っと」
包み自体はそんなに大きくはない。両手で包めるほど、とは言わないが、それでも抱えるほどでもない大人にとっては小さな包み。だがそれでも、ずしりと重たいその重量に、子供はこれを持てるだろうか、などと僕は考えていた。
中に入っているのは子供の玩具だ。
怪獣のカップルを使ったおままごと。今時ヒーローが怪獣を倒す物語なんて野蛮だ、なんて声もあるらしく、この玩具は怪獣とヒーローが、何故だか仲良く暮らす家の物語だ。
それもおかしなものだと思うけれど。それでも、時代の流れだ。
ロッカーの扉を閉めて歩き出せば、小脇に抱えた箱の中からカタカタと音が鳴る。
まるでそれが、中の怪獣が『出せ』と暴れているようで、何となく面白くなった。
ちらついた雪が鼻先に落ちる。
ふと見れば、街灯の光が地面に反射する程度は降っていたらしい。
落ちた雪が溶けてゆく。まだ踏んでもいないのに。
この程度なら傘を差さなくてもいいか、なんて言い訳をしつつ、それでも僕は小包に雪がかからないように背中を丸めた。
怪獣。子供にとっては怖いもの。
僕はそれを見ると、よく自分の子供の頃の事を思い出す。
僕にまだ、怪獣が見えた頃のことを。
幼稚園の頃のことだった。
僕のいた幼稚園にはホールというものがあった。大きな板張りの建物で、中二階建て。演劇や催し物のときに使われて、平時ではみんなで遊び回れる大きなものに感じていた。
もう少し大きければ体育館といってもいいのだろうけれど、それでもそういう子供は誰もいなかったと思う。
中では、ちょうど今抱えているような大きさの枕のようなブロックを積んで家のような大きさまで作れる積み木を遊んだり、たまにはビニールのボールを使ってキャッチボールをしたりなんて。
今思えば、何が楽しかったのだと思う。すぐに崩れてしまう積み木に、ただボールを投げ合うだけの遊びが。
そしてそのホールの下に、怪獣は住んでいた。
「ここから先は怪獣が出るから、みんなは入っちゃいけないよ」
そのみんなが『サワさん』って呼んでいた人が、用務員という職業だったということは小学校に上がってから知った。みんなはその男性が他の先生と同じ幼稚園の先生だと思っていたし、少なくとも僕はそう思っていた。
作業服を着たサワさんは、ホールの下にある倉庫で、いつも何やら作業をしていた。
倉庫には幼稚園で飼われていた鳥の餌や、僕たちが外で遊ぶときに使うサッカーボールや、持ち運べる小さな滑り台なんかが置いてあって、僕たちは休み時間になるとそこに行って道具を借りて遊んでいたのだ。
その倉庫には、一つの扉があった。
上半分がガラスのアルミの引き戸。その奥には、たとえば運動会で使う張りぼてや飾り。サワさんの使っていた猫車に電動工具、そういった僕たちがあまり興味を持たないものが見えていた。
たまに、僕たちは何を思ったのかそこに入ろうとしてしまうことがあった。
その理由は様々で、本当にたまたま、開いていた扉の奥にボールが転がっていってしまったこともあるし、午後のお遊戯が嫌で逃げ出していくやつもいたと思う。
そしてその倉庫にあるもう一つの扉。今となっては用務員室だとわかるサワさんの部屋からそれを見咎めたサワさんは、やはりまた同じような言葉を言うのだ。
「怪獣がいるから、ボールなら私がとってくるよ」
「いないよ、そんなもの」
「いるさ。ほら」
サワさんが耳の後ろに手を当ててそばだてると、僕らも同じようにそうした。
するとどうしたことだろう。奥から、怪獣のドスン、ドスン、という足音が確かに聞こえてきたのだ。
「ね?」
無精髭を生やした笑みを浮かべたサワさんは、そういうと僕らを置いて中に入ってボールをとってきてくれた。途中で奥にいる怪獣を牽制するように手を振り、出てきてからは「ああ、こわかった」なんて溜息を吐きながら。
それからというもの、半信半疑だった僕たちは怪獣がいることをすっかり信じることにした。
他の誰かが怪獣の住処に入ろうとしたときは、僕たちは得意げに同じように足音を聞かせて、仲間を増やしていったものだ。
ある日、サワさんが手に包帯を巻いていたことがある。
子供心にも、さすがに小さな怪我には見えなかった。当然気になる僕らは、それがどうしてかと何度も何度も尋ねたけれど。サワさんは、笑って言ったのだ。
「怪獣に噛まれたんだ」
「本当に?」
「そう。サワさんが中で仕事をしていたら、機嫌が悪かった怪獣にガブッてね。血が一杯出たんだ。みんなも気をつけないといけないよ」
その言葉に、子供でも疑問は湧くのだろう。僕は、確かに聞いたと思う。
「何で、怪獣を退治しないの?」
当然の疑問だろう。その怖い怪獣は、僕らが遊ぶホールの真下に住んでいて、そして機嫌が悪いと人を噛むのだ。そんな怖い怪獣は、退治しなければいけない。
僕らは本気で思っていた。警察や軍隊を呼んで、拳銃で撃って殺さなければ、なんて。
すると、それでもサワさんは笑みを崩さなかった。
「怪獣はね、本当は優しいんだ。ホールの下に入らなければ、みんなに怖いことなんかしないし、すっかりおとなしくしているのさ」
「でも、サワさんを噛んだよ」
「サワさんが気をつけていなかったから悪いんだよ」
そうやって僕がなんといっても怪獣を庇うサワさんに、『何言ってんだこいつ?』と思ったのもはっきりと覚えている。
そんなときに、幼稚園全体に聞こえる鐘の音が鳴ったのだと思う。
「ほら、予鈴が鳴ったよ。みんなは早く集まらないと」
「う、うん」
サワさんに促されるまま、午後のお遊戯の時間だと走り出そうとしたその時に、倉庫の中でけたたましい音が響いた。
ドタドタバタバタと、いつもの怪獣の足音よりももっと激しくて、もっと大きなその音は、まさにその『機嫌が悪い』足音に僕には聞こえた。
サワさんを噛んだ、というのも頷けるかもしれない機嫌の悪さ。
でも僕は、僕はそんな怪獣に腹が立った。
サワさんが、怪獣を庇っている。人を噛むような怪獣だ。銀色の肌の大きな宇宙人や、バッタの仮面を被った正義の味方が退治してくれるはずの怪獣だ。
なのに、誰も来ない。
来ないのなら。
僕がやるしかない。
本当に何も考えなかったのだと思う。僕は武器になるような何も持たないで、倉庫の中に駆け込んでいった。
運動会で使う飾りや、道路に張り出している手製の看板の脇を駆け抜けて、僕はその足音の主を探していった。サワさんが後ろの方で止めるのも聞かずに。
そして、みんなが見えない奥。多分誰も来たことがないだろう、奥に、そいつはいたのだ。
大きな緑のごつごつした肌。
まん丸で真っ直ぐ前を向いた目。
体に対してとても小さな手をちょこんと横につけて、牙を剥いてそいつは立っていた。
ティラノサウルス、という名前だけは知っていた。
僕よりも何倍も大きなその怪獣を見て、そこまでの勇気はなんとやら。
全身の毛が逆立ったように震え、全力で叫んだと思う。
そして、泣き叫びながら、サワさんの下へと走って戻り、叫び声を聞いた先生が僕を保護しに来るまで、そこでずっと泣き止めなかった。
鼻先に雪が落ちる。
その冷たさに思い出を辿るのをやめれば、そこは見慣れた夜道だった。
もう少し、その角を曲がれば我が家に着く。
いつの間にか雪も激しくなってきていたのだろうか。地面に落ちた雪も溶けずに白く残って積もっている。
吐く息が白くなり、戯れに吐いた白い煙がまるで巨大怪獣が吐く炎のようだった。
しかし、思い出というのは懐かしいようで恥ずかしくもある。
今となっては笑い話だ。
今の僕は知っている。
怪獣の足音はホールで遊ぶ幼稚園児達の足音だし、サワさんが怪我をしたのは僕たちの卒園式で飾られる張りぼてを作るとき、電動のこぎりで手を切っただけだ。
怪獣の話は、僕らを倉庫の中で遊ばせないための方便。
思い返せば、幼稚園の時はそんな作り話を本気で信じていたのだ。
登り棒の一番上にはプリンがあって、毎日一番早く上った誰かはそれを食べることが出来る。
玄関に置いてある凹面鏡の中では、僕らが帰るときになると知らない誰かが手を振っている。
園庭の砂の下には大きな大きな宝石が埋まっていて、夏場にきらきら光って見えるのはそれの破片が混ざるから。
どれもこれも、多分今の僕には信じられない。
すっかり大人になってしまった僕には、残念ながら。
でもあの頃の僕は違う。
たしかにあの日、あの時あそこに怪獣はいた。
確かにホールの下には、怪獣が住んでいたんだ。
雪に足跡をつけながら立ち止まれば、我が家の温かい光が僕を迎える。
多分僕の家ではないんだろうけれども、どこかの家では七面鳥を焼いたらしく、香ばしい匂いがどこからか漂ってきていた。
見上げれば、我ながら立派な家。庭らしい庭はないが、一戸建ての僕の家。三十六年ローン、残り三十三年だ。
あの幼稚園で積み木をしていたときには考えられなかった豪華なものだ。何度あのライトグリーンの柔らかいブロックを積んでも、僕は途中で崩してしまっていたのに。
今日はクリスマス。今日は帰る前に、妻にもさっき伝えたばかりの大事な仕事がある。
小包が濡れていないことを確認して、……まだ起きているといいけれど。
会社帰りのビジネスバッグから取り出した鈴は、仕事にも何にも関係がないもので、今日は誰かに冷やかされないかと心配したものだ。
太い紐に二つついた大きな鈴。それを揺らせば、シャンシャン、と住宅街に似つかわしくないような鈴の音が雪にも吸収されることなく響いてくれた。
どたどたと、家の中から足音が聞こえてくる。
僕のよく知る、毎日聞いている足音が、今日は特に弾んでいる気がする。
その足音が、あの日聞いた怪獣の足音と重なった。
もう、僕には怪獣は見えない。
怪獣はサワさんの作業場を僕たちの遊び場にしない方便だし、怪獣の足音は園児達の足音だ。
登り棒の上にプリンなんか置いてあるわけがないし、園庭の砂が光っていたのは混ざっている石英が強い光に反射していたからだ。
凹面鏡の中から誰かが手を振っていたら、単なるホラーだろう。……それはちょっと見てみたい気もする。
だが、とにかく。
僕にはもう、怪獣は見えない。
大人になるという悲しいこと。子供の頃にあった不思議なものは、一つ一つ世の中から消えていってしまった。
僕の世界に怪獣はいない。
それはもう、仕方のないことだ。とてもとても残念だけれど。
でも、そんな僕には、不思議なものが一つ消えた代わりに、楽しみが増えたのだ。
少しずつ、鈴を鳴らす手を緩めてゆく。そして最後に手を止めれば、まるでどこかに消えていってしまったかのように、音までも消えた。
鈴を鞄に入れるとほぼ同時に、玄関の扉が開く。ピッタリ計ったかのようにそうなったのは僕の手柄だろう。
中から出てきた小さな顔に、喜色満面の笑みが浮かぶ。
「お父さん! サンタさんは!?」
「今までいたんだけど、忙しいからってもう行っちゃったよ」
「えぇー!?」
僕が「はい、これ預かり物」といいながら小脇に抱えていた包みを手渡すと、その子は「おお!」と叫びながらそれを掲げるように見た。
もう僕には怪獣は見えない。
でも僕には楽しみが増えた。あと何年続けられるかわからないけれど。
僕には楽しみがある。これから毎年この時期には。
僕はクリスマスになれば、僕の小さな天使のために、サンタクロースになれるんだ。
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