夢みるラクダ
思い描けば夢、叶えば現実──
誰もが叶う事を望み、現実になればと憧れる。
しかしそれこそが問題なのだ!
例えば就職を想像してくれ……
高校でのげっぷが出るような学業生活を踏破し、
受験というダーツ競技のような競争に打ち勝ち、
たいした論文も書かぬ間に大学卒業を迎え、
何がしたいのかも分からぬまま就職してしまう。
これでも一応、卒なく就職する夢は果たしている訳だ。
だが夢が現実へと変わった途端、待っているのは社会の荒波と生活に追われる毎日……
もはや痺れるような陶酔感や、胸の高鳴りなど何処にも存在しない。
これで本当に夢が叶ったと言えるのだろうか。
ただの欺瞞に過ぎないのではないか。
まあ、しかし……
だからといって、どうしようもないのもまた事実である。
あの頃は良かったと酒を片手に刹那のときめきに酔いしれるのが関の山だ。
自分を抑え、辛抱や忍耐と折り合いをつけながら生きていくことも大人の証なのだろう。
所詮、現実社会という乗り物を動かす歯車の一つとして生きていくしかないのだ。
ああ、現実とはなんと恐ろしく、非情なのであろうか!
「何が『……あろうか!』だ」
俺の作文を読み終えた担任のA女子が溜息まじりに嘆いた。
「私は『高校生活を振り返って』というテーマを指示した筈だ。これじゃまるで人生終わった奴の愚痴だぞ」
「人生なんてそんなもんすよ、先生」
俺は事もなげに言い放った。
うちの親父や兄貴がいい例だ。
毎日焼け酒呷って会社の悪口言ってる姿を見せつけられたら、将来に失望したくもなる。
「よく子供の頃の夢が叶ったって語る輩がいますが、ありゃ間違いです。年端の行かない児童が、目標達成の為の将来設計など立てられる訳がない。この場合は夢が叶ったのではなく、たまたま蓋を開けたら夢と同じだった、が正解です」
俺は鼻息荒く言い放った。
「たかだか十七年かそこら生きて来ただけで分かったような口を叩くな、馬鹿者!」
A先生は頭を掻きながら苛立たし気に言った。
「……まあいい。それよりちょっと付き合え」
そう言って立ち上がると、俺に着いて来るよう手招きした。
渋々追従していくと、着いた先は校庭の中庭だった。
よく見ると、誰かが花壇の手入れをしている。
首元まであるレースの日除けで顔は見えないが、たまに見かける雑用係のおばさんだった。
「しょうもない作文の罰として、今からこの人の手伝いをするんだ。異論は認めん。文句も駄目だ。終わった頃また来るからな」
先生はお願いしますとおばさんに頭を下げると、さっさと行ってしまった。
何を言う間も無く取り残された俺は、ぎこちなく振り返った。
「あら、こんにちは」
俺と目が合ったおばさんが嬉しそうに声を上げた。
こんにちはと返すが、何をしていいか分からず俺はその場でもじもじした。
「綺麗でしょ、この子たち」
おばさんが足元のカラフルな花を指しながら言った。
「はあ……」
花の名前など皆目分からぬ俺は言葉を濁した。
「あなた夢はある?」
唐突な質問に俺は驚いた。
まさか雑用係のおばさんにこんな質問をされるとは思わなかった。
「……いえ、まあ……特には無いです」
人のあれこれについては饒舌な俺も、自分の事となると一気に精彩を欠いた。
実際、夢など自分には縁の無いものと思っていたからだ。
「というか、『夢を見る』事にどれ程の意味があるのか疑問です。努力しても叶わない時は叶わないし、叶ったからといって必ずしも幸せになるとは限らない……ならば最初から見ない方がリスクは小さくて済みますから……」
俺は苦し紛れに、いつもの【屁理屈】を並べ立てた。
黙って俺の言葉を聞いていたおばさんは、手に乗った小さな鉢植を俺の方に差し出した。
「悪いけど、これ植えるの手伝ってくれる?」
元々【手伝い】が先生からの指示なので、俺は渋々受け取った。
鉢植には薄桃色の花弁が顔を覗かせていた。
「それベゴニアよ。植え方はね……」
もとより花の扱い方など分からぬ俺に、おばさんは丁寧に手順を伝授した。
鉢植から取り出した苗を下葉処理する、間配りでバランスを見る、根詰まりに注意しながら土に植え込む、花にかからぬよう根元に水をやる……
おばさんの手解きを受けながら、いつしか俺は熱中していた。
植え終わった花を遠目から眺めた際には、気付かぬ内に笑みが零れていた。
「私思うの」
俺の植えた花をひとしきり鑑賞した後、おばさんが静かに口を開いた。
「夢は見るものじゃなくて、感じるものじゃないかって……永遠に抱く必要も無い。ただその一瞬一瞬を感じればいい。これ、いいなって……これ、好きだなって……あなたが今、自分で植えた花を見て微笑んだようにね。その気持ちがある限り、人は前に進めるものよ」
思いもよらぬ説得力のある言葉が、俺の体にすうっと浸透していった。
「俺に……出来るとは思えませんが……」
自分の信条に揺らぎを感じた俺はなんとか抵抗を試みた。
「出来るわよ。だって……今の私がそうなのだから」
そう言って、おばさんは長い日除けをまくり上げた。
にこやかに微笑む顔の両目は固く閉じられていた。
一目で、それが永遠に開く事の無いものだと悟った。
俺の体に衝撃が走った。
この人はその言葉通り『感じて』いたのだ。
音を、匂いを、感触を、自分に許されたあらゆる感覚を使って感じ取っていた。
その刹那の歓びがこの人にとっての『かけがえのないもの』なのだ。
出来ないから叶わないのではない。
出来ることのなかに大切なものを見出せるかどうかだ。
これがこの人の言った【夢】なのか。
俺は返す言葉もなく立ち竦んだ。
胸に込み上げる熱いものを感じながら……
「どうだ、調子は?」
声に振り向くと、こちらへ向かう先生の姿が見えた。
「まあ……悪くはないです」
俺は自分の変化を悟られまいと、ぎこちなく言葉を返した。
「うむ。ちっとはマシな顔になったようだな。よし、教室へ戻っていいぞ」
俺はへの字に結んだ口のまま歩きかけたが、ふと気が付いて振り向いた。
「あの……えと……ありがとうございました!」
そう言ってペコリと頭を下げると校舎へと走り去った。
俺の姿が見えなくなってから先生も振り向き頭を下げた。
「ありがとうございました。理事長」
「よして頂戴。今はただの雑用おばさんよ」
元理事長のおばさんは、どっこらしょと立ち上がるとにこやかに笑った。
「あの子たちって、まるでラクダね」
「ラクダ……ですか?」
先生は目を丸くして聞き返した。
「毎日いろんなものを少しずつ吸収して体に貯めていく。いい事も悪いことも全部含めて……それがやがて、あの子たちの生きる糧となる。今はひたすら食べてる時期ね。たまに変なもの食べてお腹壊さないようにするのがあなたや私の役目。【いい夢】をたくさん貯められるよう見守ってあげましょう」
おばさんは透き通る声でカラカラと笑った。