第9話.アリスとドボン
第9話.アリスとドボン
陸軍将校がずいっと距離を詰めてくる。俺はたまらず彼我のソーシャルディスタンスを取るために後ろに一歩、二歩と下がっていく。
(いやいや、近い近い!)
必死になって後ずさりしていると、屋敷の壁まで追い込まれた。そこで秋本はさらに一歩踏み込んできた。彼は同時に右手を開きながら俺の左肩の上を目掛けて突き出した。
(これは壁ドンの構え!?)
俺は突き出された右手の下を潜るように抜けて、さっと脇に出る。間一髪で壁ドン回避して、側面に回り込んだ。
「おい、お前。なぜ避ける」
「さ、避けているわけではありませんわ。ただその、まだそう言うのは早いと思いますの」
「良い。俺が許す」
許されねえよ!心の中でそう叫びながら、愛想笑いを浮かべつつも後ろにスライド移動していく。
「まず待て」
「待てませぬ」
「待てと言うおろうが」
「いけませんわ」
どうしても距離を詰めたい秋本と、どうしても距離を取りたい俺の攻防は続く。しかし、着物というのは歩き辛い。大きく歩幅を取れないものだから、逃げると言ったところで本気でかかられたら逃げられない。
どうしたものかと思っていると、後ろに引いた足が空を切った。
「アッ!」
と思ったがもう遅い。もう一歩後ろには地面はなく、池であったのだ。俺は後ろ向きに、スローモーションでゆっくりと池に転げ落ちていく。そこにずいっと前に踏み込んだ秋本が、助けてやろうと右手を伸ばしてきた。
それを俺は……。
反射的にパッと避けた。
彼が一瞬驚いたような表情を見せる。しかしあろうことか、そのまままっすぐもう一歩踏み込んできた。袖口をグイっと掴む。
(おい、一緒に池に落ちる気か!?)
「手間のかかる」
秋本はボソリと耳元でそう呟くと、俺の身体と彼の身体を強引に入れ替えるようにして引っ張り寄せた。そしてそのまま、秋本はドボンと池に落ちた。
入れ替わりに丘に取り残された俺は、何が起きたのかわからずにいた。
「どうして……」
「くはっはっはっは!いや、俺とした事が足を滑らせてしまった。折角の見合いにすまんな」
「いや。その」
ずぶ濡れの青年将校は、濡れて重たくなった髪をかきあげてオールバックを作った。水音を聞いたのか、遠くから人がやってくる音がする。
「おい、女。またの機会に会うとしよう。それでいいな?」
「えっ、は、はい」
女呼ばわりかよ!
こいつは本当に……頭はおかしいけど、なんだか憎めない男だ。また会うというのは気が乗らないが。なんだか助けられてしまったしなぁ。
ともかく今日は見逃されるというので、ホッと一息ついたのだった。