一・田んぼの町
一・田んぼの町
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お母さんに手を引かれ、列車からホームに降り立った鮎子は、あまりの空の青さに、しばし瞬きを忘れて、その青にみとれていました。
雲一つない空です。
その空を、気持ちよさそうに赤トンボが飛んでいるのが見えました。
東京育ちの鮎子が普段利用している駅は地下にあるので、電車から降りても空は見えません。
改札を出て、階段をのぼって、やっと空が見えるのです。でもその空も、ビルに邪魔をされてほんの少ししか見ることは出来ないのです。
「ねえ、お母さん。こんなに広い空があるんだね」
「ほんとね。今日は天気もいいから、気持ちいいね」
ホームに立つ駅員さんが、ピーと笛を鳴らすと、列車のドアは閉まって動き始めました。
列車が通り過ぎたあとには、すこしの静寂が訪れましたが、すぐに風に揺れる葉っぱの音や、虫たちが鳴いている声が聞こえてきて、鮎子はホッとしたのでした。
「お父さんの家まではどのくらい?」
「車で五分くらいじゃないかな。お父さん、迎えに来てるから。早く行こう」
お母さんは右手にキャリーバッグを持ち、左手で鮎子の右手を握り直すと、改札に向かって歩き始めました。
鮎子のお父さんは八神建設という会社を経営しています。
小さい会社で、お父さんの他には四人の社員がいます。大きな会社が家を建てたり、ビルを建てたりするときに、その仕事を請け負うのです。
大きな会社は日本全国でいろいろなものを建てるので、鮎子のお父さんは社員と一緒に、日本全国の建設現場で働きます。なので、家には殆ど帰ってきません。
そのかわり、鮎子とお母さんは、こうしてたまに、お父さんが働いている町に来ます。
お母さんは社員の食事を作ったり、お部屋を片付けたり、忙しく働きますが、鮎子はその町を探検して遊ぶのが仕事です。
短い滞在期間でその町の子と友達になることも、鮎子は得意です。
この町では、どんな子と友達になれるでしょう。
改札ではお父さんが二人を待っていてくれました。
お父さんは真っ黒に日焼けをしていて、とてもたくましい体をしています。
鮎子はお父さんを見つけると、お母さんの手をほどき、少し早足で近づきます。
お父さんは鮎子の頭をくしゃくしゃと掻き回し、
「元気だったか」と笑顔で話しかけてくれました。
「もう! 髪の毛がくしゃくしゃになるじゃん!」
鮎子はそう言って慌てて髪の毛を直しますが、とても嬉しそうです。
久しぶりに味わうお父さんの大きな手の感触が嬉しかったのでした。
お父さんはお母さんからキャリーバッグを受け取ると、車のトランクルームに入れました。
助手席にはお母さん、鮎子は後部座席に乗り込みます。
車が走り出すと、鮎子は窓をあけ外を眺めました。
駅前にある商店街を抜けると、もうそこは一面田んぼが広がっています。どこまでも、どこまでも広がる稲穂の群れ。
稲穂は黄金色になり、重たそうに頭を垂れ、風に身を任せているようです。
今日から四日間、鮎子はこの町に滞在します。そのあいだに、田んぼの稲を見に来ようと思いました。
お父さんの住んでいる場所は、建設現場の近くでした。
この町に大きなスーパーマーケットが出来るのです。そしてお父さんたちが住んでいる場所は、いずれすべて取り壊され、スーパーマーケットの駐車場になるのだそうです。
「今は、この大きなスーパーを作っているんだ」
お父さんは得意顔で鮎子に教えてくれました。
この日の夕食は、鮎子の家族と社員全員で鍋を囲みました。
社員は皆まだ二十代なので、すごくよく食べます。まだ八歳の鮎子には信じられない食欲です。
「ちょうど明後日、収穫祭があるらしいよ。鮎子ちゃん、いい時期に来たね」
ちょっと小太りだけど、力持ちの社員が鮎子に声を掛けました。
「収穫祭?」
「稲刈りの季節だからね。今年も無事に米を収穫できました、ありがとうって神さまに言うんだ。稲を守ってくれた田の神に対する感謝をあらわす祭りだな」
お父さんが付け加えました。
「ふーん」
「お祭りには屋台も出るんじゃない?」
お母さんの言葉に鮎子の目が輝きます。お祭りの屋台は大好きです。
綿あめ、カステラ、飴細工。普段食べないものが並ぶので浮き浮きします。
普段はお菓子をあまり買ってくれないお母さんも、お祭りのときはいろいろ買ってくれるので、あれもこれもと欲張ってしまいます。
「ぜったいお祭り、連れて行ってね」
鮎子が意気込んで言うと、お母さんは「分かった、分かった」と笑って答えてくれました。