3.少女の側の事情
事故の内容がちょっとだけ変わってたり、なんだりかんだり
時は少し遡る。
ざわめくカフェを人込みにまぎれて逃げ出す少女と、残された既知の二人を雑踏にまぎれて見送っていた相棒。
周囲の様子で大体の状況を知った陸は、慌てて走り去る少女を追いかけた。
逃げていく小さな背中は、軽やかに大学の構内を駆け抜けていく。初夏の光を受けて涼やかな風が通る構内に慌しい足音が響いている。何事かと乗っていた自転車を止めて振り返る者、慌てて進路を変更する者、物珍しそうに様子を眺める者。人々の反応は様々だった。
構内の外れ、高い樹木が構外への境目を示している辺りで、少女は息苦しさに足を止めた。息を止めるようにして走っていたせいで呼吸が上がっていた。
木に手をついて凭れる様に、体を預けて喘いだ。日差しはもう夏のもので、ぎらぎらと構内のアスファルトを照らしている。額から汗が滴っている。
陸はその様子を眺め彼女を驚かさないようにそっと声を掛けた。
「君、大丈夫かい」
背後から掛けられた声に驚いてびくりと肩をそびやかした少女に、努めて優しい声で逃げないでと懇願する。
叱られた子供のように、そうっと振り返る少女に優しく微笑みかける。
「今日は暑いね、ちょっと走っただけで汗だくだ」
首元をパタパタと扇ぐ仕草とそのふんわりとした雰囲気が、何より追いかけてきた相手が徹でも清藍でもない事が安堵させた。
「戸上…先輩…」
全力疾走して来たせいか緊張のためか、ガクガクと笑う膝をとめることが出来ず少女はしゃがみこんでしまう。
逃げ出す様子のない少女にほっと胸をなでおろし、陸は掛けっぱなしにしていた眼鏡を外す。自身が発する汗でわずかに曇ってしまっていた。
陸はこの少女に見覚えがあった。隣の敷地にある附属高校の生徒で、放課後などの合間に大学の教授にまで質問をしに来る勉強熱心な少女だ。
徹と陸が懇意にしている考古学の教授にもよく質問をしに来ていた気がする。なるほど確かに彼女は今も制服を着用している。何らかの理由で隣の建物からこちらに来ていたということだろう。
「君、確か隣の……」
問いかける声は、少女のその様子に立ち消えた。未だしゃがみこんだまま自分の体を抱くように俯いている。
注意深く観察していると少女は小さく震えている。
「私…私も、死ぬ……呪いに掛かって」
その表情は真っ青だった。
☆
その後、自分の行動に急に恐怖を覚えた少女から、陸は事情を聞きだすことができた。恐慌を起こした少女は要領を得ず話は前後したり途切れ途切れだったが、彼は根気良く励ましながら聞き取りをした。
春にこの土地に帰って来てから、徹と二人ずっと調査を続けてきた。この土地にまつわる怪異について。
戸上という家があった。古来は十の神から力を授かった家という意味で十神と名乗っていたという。
神より授かったその力により、かつては栄華を誇っていたが、今はその十神もいくつかの流系に分散し血を薄め、真実の宗家である『十神家』は既に絶えて久しい。
今はその宗家に最も近い血筋として、東の戸上家と西の砥上家の二つの家系が残るのみである。陸はその戸上家の長子だ。
戸上陸の実家はこの市の市街地に存在する。田舎の地方都市であったが、県庁所在地であるこの市は鉄道によって東西に分断されている。西側が旧市街であり、新幹線も停車する駅を挟んで東側とは雰囲気が違っていた。新規開拓が進んでいる東側には大型のショッピングモールが作られ、より住みやすい新市街として再整備がされつつあった。
遥か北西に聳える霊峰より力を取り入れる為に、その屋敷は市の北西に建てられたと聞く。その歳月を感じさせるしっかりとした造り、古びてはいるがきっちりと手入れがなされ、落ち着きのある雰囲気をかもし出している。
騒がしい繁華街を避けながらも、生活に不便を感じない絶妙な場所に建てられた屋敷は、純日本家屋でありその敷地は優に百坪を超えている。
戸上家はこの地方に古くから根付いており、今は地域の発展を担う一実業家としての地位を確立しているが、元は神に仕える巫女の家系であり、かつては請われて対処しようのないほどに悪化した霊障を浄化して来た。
そのお膝元とも言えるこの地域で起こっている霊障は、実は戸上家とは因縁が深い。
護るべき土地で起こっている事件であるにもかかわらず根本的な解決が出来ていないことからも判るとおり、戸上の霊的な守護者としての地位は崩壊しつつある。
しかしその霊障はひそやかなものであり、住民達は未だその危険性を感じてはいない。
それは戸上家の一族ですら同じであり、一部若者の間で流布している根拠の薄い噂でしかなく、平和は保たれているように見えた。
それを正確に理解できているのは、当主と自分達だけではないのかと陸は考える。
少女の話は要約するとこんな感じだった。
『大学の裏にある山には幽霊が住んでいる』
最初は都市伝説のようなものだったらしい。若者達が面白おかしい話題として、肝試しの舞台に提案する程度だった。
それは彼らが生まれた頃からあった噂であり、その発生源も根拠も不明のふわふわしたけれど、街の誰もが一度は聞いたことがあるような話。
この土地に生きる人間ならは一度は母からこんなことを言われていたのではないか。
『いい子にしないとお山に捨てに行くよ。あのお山には怖い神様が住んでいるんだよ。悪い子は頭からぱくりと食べられてしまうんだよ』
異口同音に語られる話に多少の脚色があれど、”山”に”神”ないし”鬼”、”幽霊”がいると言う伝説。
この程度の話であれば、陸たちが調べるまでもなく子供の頃から耳にしていた話題であり、事実自分達も何度かこのお山に肝試しに出掛けた事があったくらいだ。幼い頃であるため深夜の外出は許されなかったけれど。
この土地の霊的な守護集団の末裔として真摯に生きて来た一族の最後の生き残り--それが陸の祖母だ。
その土地の護りはもう既に崩れかけている---。
少なくとも陸はそう感じている。
その根拠の一つが、噂される、お山の”神”だ。かつては、この地を護る土地神のような存在だったそうだ。
しかし、陸たちが生まれた時には、既に薄くその存在を感じられるだけで、この土地の守護神としての力を失っていた。
また、祖母が亡くなった時、この土地の守りの一部は消失してしまうのだろうという予感。
けれどそれは何も暗く悲しいだけの話ではないのだろうとも思う。既にこの世界には、霊的な守護は必須のものではないのだから。
だから彼らの衰退も、人間の進化の過程として、無機質に取捨選択され、切り捨てられていくだけのものなのだろう。
それは、神の依り代、神の花嫁などという言葉だけが美しく飾られた、悲しい人身御供を必要としなくなるということだから。
力ある神として激しくて華やかな短い人生を生きることと、人として平凡すぎる人生を長く生きることとどちらが幸せなのだろう。
陸は少し感傷的な気分でそんなことを考えた。
後者であればいいと思う。きっと自分にはそんな人生は望めないだろうけれども。
滅び行くと定められた一族に、長子として生まれた自分には。
感傷的な気分を振り払い陸は先ほどの情報を整理し、噛み砕いていく。残されている時間はそう多くはないのだ。
先ほどしまった眼鏡を胸のポケットより取り出し掛けていた、無意識に。集中をする時に眼鏡を掛けるのは、少年の頃からの陸の癖だった。なんどか指摘を受けているので自分でも気づいている。
祖母・絢乃は、現戸上家当主として、陸に直々にこの霊障に対する調査を命じた。
表向きは家督を既に長男である、陸の父に譲り自分は隠居として悠々自適の生活をしているが、裏の顔である異能集団の当主としてはまだまだ実際の支配権を握っていた。
件の霊障は、そんな祖母でも首を傾げるほど急激に悪化したようだ。かつてからあった、民話伝承のような話。寝物語や戒めに語られるだけで祖母の知る限り遡っても霊障の原因になる出来事などなかったと言うのだ。
かつてあった戦争の時代に街が炎に包まれた時ですら、そのお山の”神”は土地を癒す事こそあれ祟る事はなかった。
けれど、先ほどの少女を代表する若者たちには、あの山の何かは確実にこの土地に害をもたらすものとして認識されているようだった。
若者の間にのみ流れる小さな変化の噂を見落としてしまっていた事が、そもそもの失敗だったのだと、陸は苦い思いを抱く。変化は感覚の鋭い若者の方が早く察知できるというのに。
噂が噂でなく、実際の霊障らしきものとして発生したのは五~六年前からだという。
一人の少年が亡くなったのだ。原因は水難事故死。近所の川に釣りに出かけた少年が溺れたというもの。状況を確認しても、不自然な所など見受けられない。
次に一人の少女が浴室で手首を切り自殺した。自殺の原因は進路について。親との意見の違いという些細な理由だった。遺書も残されており、警察による捜査でも自殺で間違いないという見解だった。
この二つの事件に類似性があるとすれば、同じ中学の生徒だったということ、水に関する場所で亡くなっている事くらい。時期も近く、第一の事件から第二の事件まで半年と経っていなかった。
当然当時の中学校では多少の騒ぎにはなった。しかし、事故、事件とは言っても、当の少年達に特に非があるわけでもなく、話題性の少なさにそれは長続きすることはなかった。
けれど、それでは終わらなかった。
最初の事件から二年が過ぎようとした冬に、火事が起きたのだ。一家四人全員が焼死した。原因はストーブの不始末。安全性を考えて電気ストーブを使っていたらしいが、逆にそれが禍したらしい。
ハロゲンヒーターを利用したストーブの熱が近くのナイロン製のレースカーテンに燃え移った。
燃えやすいレースのカーテンを伝い火事は一気に広がった。
その一家の下の娘は先の二つの事件の生徒と同じ中学に通い始めたばかりだったという。
けれどこれも”事故”だ。事件性の少ない”事故”けれどこうも立て続けに同じ中学校の生徒がなくなるという事態に、在校する中学生自身が怯えだしたのだ。
また、何故か出火現場付近の消火栓のいくつかが、壊れていたのか使用不能だった事も不安を煽るのに拍車をかけた。それが、消火活動を妨げ被害を広めた可能性があるからだ。
当時、マスコミはその事を行政の不始末として大げさに書き叩いた。
事件は年に一度あるかないか。冷静に考えれば、無事に中学を卒業できる確率の方が圧倒的に高い。けれど不安は消えない。寄せる波のような静かな不安が学校を被う。
それと同時に、これら三つの事故を事件として、犯人探しを開始する輩が現れ始めた。
その結果として導き出されたのは、亡くなった三人の生徒に共通して関わる人物。それが清藍だった。
中学生という存在そのものが大人と子供の間で揺れ動く不安定な生き物だ。現状に対する不満、不確かな未来への不安そういったもろもろの捌け口として、その話題は格好の餌だったのだろう。
噂は瞬く間に広まり、飛躍し、尾ひれが付き、肥大化した。
彼女が物静かな性格で標的にされやすい事、後ろ盾だけはしっかりしており金銭に困る事がないことで周りの嫉妬を買いやすかった事。けれどその中学校の構内では実質的な友人や味方となる教師などはおらず攻撃しやすかった事。その根拠はさまざまだ。しかし、彼女が卒業して後、その事件がぴたりと収まったことこそが彼女を犯人にしたてる最大の根拠になった。
確たる証拠もないままに、噂だけが広がり清藍は孤立することとなる。
その後も彼女の周りでいくつかの事件が起こり、それらの全てが彼女のせいにされたが、前の三件のような校内での事故ではなく、流言蜚語か噂話のようなふんわりしたものだった。
あの少女は三件目の事件の火事になった少女の親友だった、らしい。
本当かどうかもわからない噂を鵜呑みにして、本心から清藍を恨み徹を心配したのだろう。
そう思うと少女に対して同情の念も浮かびはする。清藍の友人である彼らからすれば苦い思いもありはしたけれど。
陸はほんの少しだけ力を使い、催眠術の要領で彼女を落ち着かせた。本来の攻撃を主体とする陸の術力とは違うが、呪力をセーブした繊細な術は彼の得意とするものだ。
大切な者を失う痛みを知っているから。その痛みを。悲しみを。せめて少しでも和らげることが出来ればいいと、そう思った。
☆
風が髪を優しく撫でる。
夕暮れの丘。昼間の熱を失い始めたその場所に流れる風は心地よい。街を見下ろす小高い丘。少しの遊具とたくさんの桜の木がある公園がある。
街の中心部に程近い公園は、古くからある神社の裏手にあった。
結構な敷地を有するその公園の中でも奥まった場所に、街を一望できる場所がある。春になれば桜が咲き乱れると場所だと言うのに、何故か人のあまり訪れないそこに小さな石碑が立っている。
それが『墓』だということを知る者はごくわずかだ。
陸は一人それを見下ろし佇んでいる。
街の東--陽の出ずる方向に位置するそのお山は、この町の霊的な守護を司る。現にこのお山の表側には、古来から地鎮神を祀る為のお社がある。
その石碑はその守りを陰ながら強化するために密かに建てられた。
これを見るたびに陸の胸には痛みが走る。
後悔……哀悼……愛執……言葉に出来ない思いが痛みとなって心の中を去来する。それは痛みではなく、悼みとでもいうような時が経ってもけして癒えることのない傷となって陸の心を苛んでいた。
命を失ってすらなお守護することを命じられたその存在を思う。
愛していたのだと思う。自分でも意識することなどなかったけれど。
守れなかった大切な人。
「藍良……」
声は幽か。悲しみを表すかのようにかすれた。
「亡くしてから気づいても遅いのにな……」
記憶は遠く、既に朧になっているというのに、痛みだけが消えずに胸に刻まれている。
幼かった事など言い訳にもならない。ただ力が足りなかった、それだけだ。
その焼けるような後悔の念が陸を一人前にしたと言っても過言ではない。
昔と一言に言ってしまうにはまだ浅い、両の手に満つる事のない時の中で陸は目覚しい成長を遂げた。さながら鈍重な蛹が殻を割り美しい羽を伸ばすように。
「今度こそ、守るから。……約束だしな」
掌の上の砂のように取りこぼしてしまった愛しい命。けれど、まだ。
まだ、終りじゃない。……きっと。終わらせないから……。
H30-8-28 ルビを振ると共に若干の誤字訂正しました。
H30-8-29 加筆・訂正いたしました。