2.ある女生徒の日常2
ざわめきはいつまでも続いていた。周囲も二人の心のうちでも。心の中のささくれをゆっくりと逆撫でるような、ひりひりとした痛みを伴うざわめき。
波のように引いては寄せ、引いては寄せていつまでも癒えないその心のざわめきは、静かに彼女の心を蝕んでいるのだろう、今も。少しずつ。
どうしてなのだろう。彼は、彼女は思う。
誰も……ただ幸せになりたいだけなのに。それがすれ違い、間違い、悲しみを生み出していく。純粋に願うからこそ、嫉妬は深く、思いそのものもを汚していく。
青年は歯を食いしばり俯く。その瞳には深い悲しみと絶望。
医務室で保険医から血で真っ赤に染まった左手を手当てし終える間、彼は一度も顔を上げようとしなかった。
彼が窓ガラスに椅子を投げ付け、テーブル一つを使用不可能にした後、すぐに教諭や事務員らが飛んで来て、事態は収拾された。徹の罵声を浴びた少女は辺りの混乱に乗じ姿を消し、その場には彼ら二人が残された。
何が起きたのか問い掛ける大人達に、徹は自分の悪ふざけがすぎたと一言言ったきり口を閉ざし、清藍は青い顔のまま口を開こうとはしなかった。
その後に彼は医務室に誘導され、彼女には事情を確認しに来た警備員や事務員の問い掛けが待っていた。
まだ親の庇護を受ける年齢の彼らであるから、強く詰問を受けるわけでもなく、いたわりを含んだ優しい声音で問いかけを受けても、青年は自分の非を繰り返すばかりで原因や他の生徒の関わりを明かしはしなかった。その場にもう一人いた女性、清藍ですら関係はないのだと答えた。
常には陽気なことで知られる青年のいつにない沈痛な面もちに大人達は首を傾げたが、当事者の二人--実は三人であるが--がそれ以上話そうとしない上に、周囲に大量にいたはずの目撃者も一様に口を閉ざすか、憶測のみの証言に終始していた。そうこうするうちに午後の講義が始まり事態はうやむやになった。
☆
彼女は毅然と前を見据える。悲しみさえも奪えない強い輝きを瞳に宿して。
儀礼のように形だけの叱責を一通り受け--普段の素行の良さが幸いしたのだろう--放免された二人ではあったが、すでに講義の始まった講堂に入る気にもならず、彼女の足は医務室に向かっていた。
戸を引こうとして思い留まる。
自分のせいで怪我をした徹に合わせる顔などあるわけがない。
一人でいればこんな事にはならなかったのに。可哀想にあの子はもう二度と徹に振り向いてもらえることはないだろう。
取っ手に掛けかけた手を下ろし、その手を見詰めながら思う。
さらりと長い髪が彼女の横顔を隠す。
泣いているのだろうか。
自分を傷つけた相手であるのにも拘わらず、彼女はあの少女を案じていた。
きっと泣いているのだろう。小さい肩を震わせて、声を殺して。
彼女を傷つける事が目的なのではなく、徹の身を案じての思い余っての行動のような気がした。勿論、好意を寄せている男が悪評の耐えない、それも女と仲良く話し込んでいるのは面白くないに決まっている。
傷つける痛み。少女の精神はきっとまだ幼くそれを知らないだけ。
時に人は知らずに誰かを傷つけている。その相手がたまたま自分であっただけの事。事の発端はほんの小さな嫉妬であるが故に少女の気持ちは痛い程判る。自分も同じ人に恋する身だから。同じ切なさを知る身だから。叶わぬ思い。それは清藍にとっても同じなのに。
先程の事件で自分がどれ程傷付いたろう。大切な人を傷付ける痛みに比べれば、そんな痛みなど比較の対象にすらならない。
傷付ケタイナンテ思ッテイナイ。
心の中で何度も繰り返し呟いた言葉。それは既に密かな自分の口癖となり、彼女の耳には木霊のように鳴り響く。その行為には意味などなく、ただ虚ろに呪文のように繰り返す。誰一人頼ることを許さず、それでもなんとか前を向く為に。
見詰めていた手を握り、奥歯を噛み締める。
大丈夫。あたしは一人でも大丈夫。
あの少女が幼いというならば。
握りしめた白い手を胸元へ寄せる。手に自分の鼓動が微かに伝わってくる。生きているという証の鼓動。暖かな生命の流れる音を聞いていると心が落ち着いてくる。そうやっていつも彼女は自分を落ち着かせる。
彼女もまた幼いと呼べる年齢の筈だ。あの少女と彼女はそれ程離れていないのだから。
しかし、同じ時を生きていても受け止め方はそれぞれ違い、経験もまた同じ。
傷付き多くの悲しみを知る清藍は、少女と言うには少し成熟が早かった。いや、急いで成熟せずには生きていられなかったのだ。
一人で時を過ごすのはいつものことだ。昔に戻るだけ。今までだって一人で何でもやってきた。これからも同じように過ごしていけばいいだけのこと。
自分にそう言い聞かせ、顔を上げようとした時、突然清藍の目の前のドアが開いた。
「を?」
医務室から出ようとしていた徹がそこに立ちつくす清藍に気付き、慌てて二の足を踏む。
「こんな所で待ってたのか?入って来りゃあいいのに」
何の屈託もなく笑う青年に、彼女はさっきしたばかりの決心を鈍らせ、いつもの調子で答えてしまう。
「別に待ってた訳じゃ……」
青年はこの生真面目な娘をからかうのを日課にしているのだ。彼が言うには何にでもまじめに反応するのでからかい甲斐があるらしい。
「待ってなくてこんなとこに?俺って意外にモテるのかもな~」
がりがりと頭を掻きながらまんざらでもない顔で徹が笑うと、からかわれていると知りつつも彼女はつい反応してしまう。
「馬鹿言わないで。なんであたしが」
「照れんなって~」
「あのね!!」
喰ってかかろうと片手を振り上げた清藍のそれを掴み、徹はやっと安心した様な笑みを浮かべた。徹の手はとても暖かい。
「そうやって笑っていた方がいい。俺の怪我のことなら気にするな。俺は頑丈だし、これくらい怪我の内にもは入らねぇから」
他人に優しい青年ではあったが、それでも滅多に聞くことのない優しい声音。本心から自分を気遣ってくれている事が判るような。
「………」
優しいから--侮蔑でも、憐れみでもない本当の優しさから出た言葉だと判ってしまうから、彼女の声は詰まってしまう。
傷付き過ぎた心は悲しみや痛みでは涙を流さない。もし涙を流す事があるとすれば、それは本当の優しさを与えられた時。
それでも堪える。今泣いてしまったら彼をより心配させてしまうから。
「馬鹿ね……。あたしは泣かないわ。いつだって」
捕まれた手をさりげなく外し、動揺する心を抑えながら彼女はいつも通りのさりげない微笑みを作った。大人さえもだまし通せるさりげない笑み。しかしそれさえも、彼を騙し通すことは出来ないと、誰より彼女は判っていた。
「そう、だな。けど、……それがいつでもイイってわけじゃないんだぞ……」
痛みを堪えるような表情で、苦しげな声を漏らす。
二人はどちらからともなく歩き出した。勿論、講義を受けるためではない。
講義中であるため人気も少なく、シンと静まりかえった廊下。時折教鞭を振るう講師の声が聞こえるくらいだ。
二人とも帰って講義を受けられる様な心境ではない。先程の騒ぎもあり、担任に挨拶した後帰っていい事になっていた。
二人は静かに話し合う場を探して屋上にたどり着いた。
「泣く事が弱さの証明じゃない。逆も同じだと思う。本当に強い奴は、醜態を見せるとかそういう事に頓着しないんじゃないか?」
徹は二メートルを超えるフェンス越しに下界を見下ろしながら言った。
彼らの大学は大抵の学校がそうであるように、街の高台にあった。だからその場所はこの辺りで一番高い場所であり、街全体を見下ろすには格好の場所であった。
初夏特有の湿り気を含んだ風が二人の間を通り過ぎる。
清藍はその言葉に俯いた。
彼の瞳には真実のみしか見えないのだろうか。どんな巧妙な嘘さえもさりげなく見抜いてしまう強い瞳。彼女はその瞳を愛おしいと思い、また同時に厭おしいとも思った。
真実を見抜けるからこそ、彼は彼女のささやかなSOSに気付いた。しかしその瞳は彼女が気付い
て欲しくない事柄までも見抜いてしまう。
自分がどれほど弱い人間であるか彼に知られてしまう。
それは彼女にとって何よりも恐ろしいことであった。そして同時に待ち焦がれていた瞬間であったのかも知れない。
「じゃあ、どうすればいいの?」
最初は小さな亀裂だった。そこから溢れた物は徐々に周りを浸食し、亀裂を大きく広げていく。
「強くなければ生きられない。少なくともあたしはそうだった」
押さえなければ。理性では判っていても、感情という流れに浸食された亀裂は広がるばかりだ。
「でも強くないなら、せめて表面だけでも強いふりをするしかないじゃない」
がしゃんと白い両手がフェンスを叩く。握りしめた拳は、込められた力故か小さく震えている。
フェンスに額を付けるように俯き、必死に感情を殺そうと歯を食いしばる。
「泣いても何も解決しない。失ったものは帰って来ない!」
込み上げて来る激しい嗚咽を堪える為か肩が小刻みに震えている。だが、限界はもう近かった。
「だったら、失ったものの分まで強く生きるしかないじゃない!!」
髪を振り乱して、振り向いた彼女の頬には、熱い感情が滴っていた。それには長い長い間堪えていた、悲しみや苦しみといった、出口を失い彼女の中で渦巻いていた感情が吹き出したものだった。
彼は彼女を抱き締めた。感情に押し流されて、翻弄される娘に徹が出来る事はそれ以外に思い付かなかったからだ。
「すまねぇ。泣かせるつもりで言ったんじゃねぇんだ」
小さく謝る声に後悔の念が込もっているように彼女は感じた。彼女は首を振ってそれに答えた。判っている、と。それで彼には通じる筈だ。
彼の手が優しく清藍の髪を撫でる。太く無骨な見た目のそれとは信じられぬ程優しい、優しい愛撫。
嗚咽は止まらなかったが、いつしかそれは激しさを失っていた。
涸れたと思っていた涙が、彼女の心の中の殻を溶かしていく。心を殻に閉じこめ、半分殺すことで、心が受ける痛みを半減させていた事に、彼女は今になって気が付いた。心を守るためとはいえ頑なな自分を恥ずかしいと思い、徹の意図に今更ながら気付く。そしてその優しさにも。
だから。
つい口を滑らせてしまった。決して言わないと心に決めていた言葉を。彼を傷付けるだけでしかない言葉を。二人のこの関係を壊してしまう言葉を。
「好きよ」
嗚咽にかすれた小さな声。しかし、二人の距離は近すぎて。
髪を撫でていた手が止まる。
彼女も慌てて口を閉ざす。だが、既に遅すぎる。
彼女の内で警鐘がなる。これ以上はいけないと。伝えずにいることで保たれていた関係が壊れてしまう。
彼の胸に顔を埋めていても彼がどんな顔をしているか判る。少し困ったように笑ってるだけだろう。何気ない素振りで。
しかし、抱き締めらていた彼女は気付いてしまった。告白の言葉を聞いた瞬間、彼の鼓動が跳ね上がった事を。
そっと、体を離す。まだ、瞳は涙に濡れていたが、それでも微笑む。どんな時でも笑うことが出来るのは彼女の特技だ。そして今、かつてない程の会心の笑みを浮かべることに成功した。
青年は笑っていなかった。ただ、苦しそうに、申し訳なさそうに俯いていた。
「嘘じゃないのよ。でも、何も期待してない。今、あなたの心に誰もいない事は知ってるもの、無理に好きになって欲しいとも思わない」
嘘だ。心が告げたが、そんなものはねじ伏せた。
「ただ言いたかっただけ。これはあたしのわがままだから、この事であなたが心を痛める必要はないのよ?」
狼狽し、二の句を告げずにいる青年に、告げる嘘はすらすらと淀みなく流れ出た。嘘とは思えぬ程に。
そして、一歩踏み出す。この場から逃れる為に。
悠然とさえ見える足取りと心は裏腹、走って逃げ去りたい気分で一杯だった。
長い髪を揺らし、下り階段にさしかかった彼女を呼び止めたのは、彼の暗い声。
「すまねぇ」
打ちひしがれたような声。
こんな声を出させる為に言った訳じゃない。彼女の心も暗く沈む。
「俺にはお前の気持ちに答える資格がねえんだ」
聞こえた言葉は、彼女が想像していたどんな返事とも違っていた。
混乱しながらも彼女の足は自然と下へ向かっていた。その言葉の意味を問い掛けることさえ出来ずに--。
H30-8-28 ルビを振ると共に若干の誤字訂正しました。




