立ち止まることの許されぬ時代
歌声事件より十年の歳月が過ぎた。
事件は途方もない数の死者行方不明者と引き換えに、呆気ない幕引きを迎えた。人類が四半世紀に渡りサーフェナイリス対策を講じてきた、それは当然の帰結だと人々は言う。
だが疑惑は多い。当事国である日本の政府は、事態は収拾したと脅威の根絶を強調するその一方で、歌声を中心とした広大な区域を特別研究地区として立ち入りを制限、更には周辺区域と物理的に遮断する「壁(査衛)」の建造を推し進めた。
日本の誇る軍事衛星「日輪」が、事件以来第二級警戒態勢を維持し続けている事実を以って、事態の継続を仄めかす業界関係者も後を絶たない。
それでも世界は、歌声事件を歴史という額縁に嵌め込み、過去のものとして歩み続けている。蝕害によって被った損害は少なくない。だが人々の復興の意気は高く、大企業群の莫大な資本の投入も功を奏し、各地では目覚しい復建の様を見ることが出来た。
しかし富が等しく振り分けられるなどという都合の良い話がある筈はない。繰り広げられる復興の名を借りた権力と利権の大博打。この未曾有の大災厄を機会へと変えるべく、魑魅魍魎もかくや、醜怪な妄執が渦を描く。富めるものは富める場所へ。国家の倫理は失われて久しく、社会は企業が営利を追求する手段に堕した。誰一人として敗者を鑑みる者は居ない。不都合は全て敗者によって清算されるのが世の慣わしだ。事件の傷跡は全て貧困層に押し付けられ、埋め難き貧富の落差は環境都市の頂よりも遥かに高く、彼らは出口の見えない閉塞感に喘ぐ事しか出来ない。辛うじて彼らの心を肉体に結び付けていたのは、サガラの無尽蔵な資源が与える夢幻にしてもうひとつの現実。
世界は今日も慈悲なき平等に満たされ、なに不自由なく動き続ける。
感傷に溺れ歩みを止めた者から、敗北という鎖に絡め取られ死んでいく。それが嫌なら縋り付いてでも、這ってでも進み続けなければならない。さもなくば力を持ち、勝者になる他に道はないのだ。