昨日、私は人を殺しました。
上記に表示されていると思いますが、R15設定をさせてただきました。ご注意くださいませ。
昨日は満月でした。少し黒い雲が空に見えました。何処からか漂ってきた夕飯の匂いがしました。
自転車に乗った数人の男女が私の隣をすり抜けていきました。少し乾いた風が私の頬をかすめたのをよく覚えています。
私はイヤホンをしていました。白い、携帯を買った時についてきた安っぽいイヤホンです。黒いジャージを着ている私は、ほかの人にはおそらくランニング中の女性にしか見えないことでしょう。
ポケットに手を突っ込むと、冷たい冷たい感触がしました。私はこの冷たい感触がたまらなく心地いいのです。
前を向くと車が2台ほど信号待ちしているのが見えました。信号の赤は煌々と道を照らしています。私は赤いランプの前で私は止まりました。車が私を追い越して行きました。それをぼんやりとみていると、黒猫が道路を渡ろうとしているのが見えました。猫は車が通り過ぎると、走って道路を渡ります。
……そんなに焦らなくてもいいんだよ。
小さく私は呟きました。それに誰もが気が付きません。当たり前です。
赤いランプは緑に変わりました。私は一歩一歩踏み出します。
暫く前へ、まっすぐ歩いた後、左に曲がることにしました。確かこっちには廃工場があったはずなのです。暗い路地は女の子が通るような場所でないことは確かです。ここで何かあっても私の責任でしょう。その代り、私に何かなくても私に責任はないのです。ええ、この辺には不良がいることくらい知っていますとも。この前もここで女性が襲われたのですから。私が知らないわけがないのです。
さて、暗がりの路地は恐ろしく不気味でした。昔、夜の学校へ忍び込んだことがありましたが、これほどにドキドキしたことはありません―――――。いえ、これよりもドキドキすることは勿論あります。血が騒ぐような、身体に電撃が走るような―――――、そんな形容しがたい感覚は確かにあるのです。
不気味な路地で風が吹くたびに私は、びくりと肩を揺らしました。ええ、正直に言いましょう。私はとても怖かったのです。強いて言うならば、この前の女性のように―――――、文字通り襲われてしまうのではないかと内心は子猫のようにびくびくと怯えていたのです。ですが、引き返す気はありません。暗がりに私は沈んでいくのを感じました。人気はありません。だからこその怖さなのでしょうが、人気がないのを残念に感じる私もいるのです。
路地からの空からでも満月は十分見ることはできました。暗い色をした木の間を縫うように月の光が微かに漏れているのを見ました。ですが、その光は地面を十分に照らすほど強くはないのです。だから、私は気を付けて進みました。転ばないように、細心の注意を払っています。
路地は網目模様に広がっています。何度も十字路に突き当たっては、真っ直ぐ進みます。曲がってしまってはもうあの大通りには戻れないような気がしたからでしょうか。理由は後からいくらでも思いつきます。でも、どれが本当の理由なのかはっきりしないのです。それを考えても、霧がかかったようなのです。一向に霧は晴れそうにありません。残念です。
兎も角私は前へ進みました。足はどんどん重くなっていきます。何故でしょうか、空気が少し変わった気がしたからでしょうか。じめっとした何かが足に、腕に、肌にまとわりつくようなそんな感じがしました。満員電車のじめっとした感じに似ていますが、あれよりももっと気持ちが悪いです。不快感が強い理由は、まだわかりません。よくわからないのです。
また少し行くと廃工場についてしまいました。金属の柱などは錆びてしまっていることでしょう。ここからではいかせんよく見えないのです。私は匂いを嗅ぎました。やはりほんの少し錆びた金属の匂いがしました。その時です。私は背後から視線を感じました。ああ、気持ちが悪い。全身を舐め回すような、そんな感覚です。この感覚に私は覚えがありました。満員電車に乗る前に、私はこの感覚を何度も味わったことがあったのです。今でも吐き気がします。気持ちが悪いです。
ああ、気持ちが悪い。それしか言葉が浮かびませんでした。それを少しでも紛らわせたくて、私は廃工場の中へ足を進めました。ええ、勿論立ち入り禁止です。ロープだって貼ってありましたし、ご丁寧にも立ち入り禁止の文字が印刷された紙だって貼ってありますし、そのくらい分かっています。
ぴきぴきとガラスを踏む音がしました。何かが壊れるときの音です。足元を見るとガラスが豪快に、一面に広がっていました。月の微かな光に照らされたそれはきらりと光りました。私は海に来たようだと思いました。ガラスの破片は暗い暗い、あの恐ろしくも美しい海に似ていました。ああ、美しい。素敵な場所です。この時の私は妄想に浸っていました。海水浴に来たが如く、安易に優しいそれに浸かったのです。
くるっと一回転してみました。私には白い砂浜と、美しい海が見えていました。なんなら、裸足になってしまおうか―――――。私は裸足になることにしました。海で、海岸で裸足にならないなんて、スニーカーを履いていることこそがおかしいのです。ええ、そうなのです。私は少しおかしかったのです。
少しして、私以外にも海に入ってきた人がいることを感じました。ぴしゃり、ぴしゃりと音がするのです。ああ、ここはプライベートビーチでは無かったのですね。残念です。では、仕方がないので私が人の居ないところに移動するとしましょう。そうすれば、何も問題はないのです。私も一人きりの海岸を味わえるのですから。私はスニーカーもそのままに歩き出しました。なんだか足がチクチクします。砂が食い込んでいるのでしょう。ぴきぴきと歩くたびに小さな音がします。鳴き砂でしょう。ここは海が綺麗だから、砂も綺麗なのですね。ああ、私はラッキーでした。こんな美しい場所に来れるなんて思いもしませんでいした。何ということでしょうか。ああ、幸せです。
暫く行くと古い階段がありました。なんだか気分の乗っていた私は登ることにしました。がたん、がたんと嫌な音がしました。上るたびに階段がぐらりぐらりと揺れている気がしました。波のせいでしょうか。右足を上の段に掛けたときです。ぐらりと身体が浮いたような感覚を覚えました。瞬間、右足がものすごい激痛に襲われました。足を見ると、大きな擦りむき傷がありました。擦りむき傷、と言うのは不適切ですね。足がぱっくりと切れていました。つぅっと血が流れおちていくのを感じました。足元の階段の一部が崩れたせいです。
ですがいいんです。そんなこと気にしている場合でないのです。私は、もう一生来られないような、そんな海に来ているのですから。
ぴしゃんぴしゃんと後ろからの音は近づいてきています。なんだか、追われているような気分になります。不愉快でした。
*****
階段を上りきると屋上に出ました。
月はもう傾いてきています。ああ、夜が終わるのですね。
「やあ、こんなところで何をやっているんだい。御嬢ちゃん」
後ろを振り向くと男性が数名こちらを見ていました。ああ、例の不良だ―――――。私は一気に現実に引き戻されました。彼らは私のスニーカーを持っていました。
「……海水浴を、楽しんでいるのです」
私は彼らにそう答えました。ええ、もう妄想の中にはいませんとも。ガラスが海だとか鳴き砂だとか、そんな狂った考えは起こしていません。いたって正常なのです。だから、彼らは不思議そうな顔をした理由だって分かっているんですよ?
「御嬢さん、忘れ物だよ」
男の1人がスニーカーを投げてよこしました。
「ありがとうございます。すっかり忘れていました」
私はアナウンサーが文字を読むように丁寧にお礼を言いました。お辞儀をしながら言ったのですから、礼儀だけは正しかったはずなのです。しかし、男たちは言いました。
「おいおい、心が籠ってないんじゃないか?腹から声出せよ」
「女性は貴方たちほど大きな声は出ませんよ。大きい声が羨ましいです」
「……まあ、そうだよな」
男たちはにやりと笑いました。私の目には、しっかりと見えていましたよ。
「それにしても、お嬢ちゃん。この前も俺たちと会ったよね。また会うなんて運命かも」
「ええ、そうですね」
薄気味悪い笑いを浮かべる男たちに、私は微笑みました。ああ、これで。
「ねえ、君さ、見たんでしょ」
「……何を、でしょうか」
「ははは、とぼけているのかな。あの女が死ぬところだよ!!!!!!」
私はピンときました。ああ、この人たちはあの女性のことを言っているのですね。私の少し前を歩いていたらしい、あの黒いジャージの女性を。
「ああ、そのことですか。ええ、見ましたとも。貴方たちはとても人間とは思えませんでしたよ」
「何を言っているんだ。お前がちゃんと捕まっていれば、あいつが死ぬことだってなかったんだぞ?」
「……ええ、そうでしょうね。あの方には、申し訳ないことをしました」
「だけどなあ、殺人現場に目撃者がいるのは不味いんだよ」
「ええ、そうでしょうね。だから何でしょうか」
私はニコリと笑いました。瞼の裏にあの光景が浮かんできます。ああ、鳥肌がたちます。
耳には、悲鳴が聞こえてくるようでした。『殺して、殺して』って!ああ、血の匂いもします。
「お前も、死ね」
「ああ、いいですよ」
私は小首を傾げて言いました。
男たちは驚いたような顔をした後、気味の悪い笑いを浮かべました。気持ちが悪いです。
「物わかりがいいな」
「……そうですか。お褒めに与り光栄です」
男の1人がこちらへ近づいてきます。ああ、ごめんなさい。私は嘘をついていました。廃工場に来た理由も、あの網目の暗い路地を通ったのも、冷たい感覚が心地よく感じたのも。すべてがすべて嘘で塗り固めれたものです。私はきっと嘘つきなのですね。
男がナイフを振り上げました。その瞬間を私は待っていたのです。私は、ポケットから手を出しました。
そして、素早く男を切りつけました。肉を切る感覚が腕に伝わります。ああ、私はこの瞬間をずっとずっと待っていました!ああああああ!素敵だわ!なんて素敵な感覚でしょう!!!!男がぐわあ!と見苦しい声をあげます。ああ、それだけが不愉快です。
私は果物ナイフを片手に男たちの前に立っていました。後ろに控えていた男たちが近づいて来ました。私は、ナイフを一人に向かって投げました。ナイフは見事命中します。ああ!ダーツの練習をしておいて正解でした。果物ナイフの刺さった男は、鮮血を出して倒れました。とても美しいですよ?
それに少し気を取られすぎました。私としたことが、不覚です。もう一人の男はもうすぐそこまで迫っていたのです。
「てめええええええええ!!!!ぶっ殺す!!!!」
私はもう片方のポケットに入っていた彫刻刀を男の腹に突き刺しました。肉を裂く音がしました!ああ、この感覚。ドキドキします。身体に電撃が走ったような、そんな感覚がします。
指された男は絶叫しました。虎の咆哮さながらです。お見事です。私は彼に抱き着いたような形で更に奥まで突き刺します。男の腹の肉が裂けていくのを感じます。
彫刻刀を引き抜こうをしたところで、後ろから声がしました。
「お前な、甘いんだよ。果物ナイフで切ったくらいで死ぬわけねえだろ!ばああああか!!!!」
後ろを見ると、最初に斬った男が立ち上がってにやりと不気味に笑っていました。しかし、彼は倒れた場所から数歩もしない場所に未だ立っています。そんな距離では怖くもありません。まだ、私の彫刻刀が刺さっている男の顔の方がよほど恐ろしいです。きっとこの方は、立派な死に顔をすることでしょうね。彼女が喜ぶ顔かどうかは分かりませんが。
「ええ、知っています。その程度も知らないような馬鹿野郎と同じにしないでくださいませ」
私は冷酷に答えました。瞬間、背後に立っていた男が膝から崩れ落ちました。手足が痙攣しています。ふふふ、こうなってはただの人―――――、女性以下ですね。きっと今なら、ナイフを振り下ろすことだってできるのです。でも、そんなことはしませんよ。
「な、なんだこれ」
私はほくそ笑みました。残りの2人ももう直に同じようになるでしょうね。見たい気もしますが、私は死体に興味はありませんし。
「女は力では勝てないらしいので、ここ使わせてもらいました」
私は人差し指で軽く頭を叩きました。
「……せいぜい苦しい思いをして……彼女が喜ぶような、死に顔をしてくださいね」
さよなら。
私はそうして廃工場を去ったのです。
拙いお話でしたが、読んでくださってありがとうございました。