睡眠薬氏と俺氏
俺は眠れぬまま暗闇に包まれた部屋の中で悶々とした時間を過ごしている。
いつもの事と言えばそれまでなのだが、明日は朝一で、どうしても外す事の出来ない用事が入っているのだ。
だから俺は一刻も早く眠りにつかなければならない。携帯電話の液晶画面を確認する。時刻は既に午前二時を回っている。今から寝たところで起きられる保証など皆無だ。俺という人間は大音量の目覚ましにすら気付かない愚かな人間なのだ。
だがしかし眠らないわけにもいかない。
過去に一度だけ、眠らずに夜を明かし仕事に出向いた事があるのだが、それは俺の二十数年の人生において最大の汚点と言って差支えない程の一日であった。
詳しくは記さないが、こう言った経験をした事があり尚且つ勘の良い人間ならば、俺がわざわざ語らなくとも分かってくれるだろう。
俺は人間であり、人間とは己が犯した過ちを反省し学習し次に活かせる生き物だ。だから俺は二度と同じ失敗は繰り返さない。
その日、俺は誰にともなく、己自身に誓ったんだ。
寝床から起き上がり、若干立ち眩みに襲われながらも電気のスイッチを押す。目が眩む。
目を開けていられない。でも何時迄もこうしているわけにもいられない。時計は刻一刻と時を刻んでいる。
どれだけ時よ止まれと願っても、時間とは残酷なもので、止まる気配は一向に見せない。
目が慣れてきたので、部屋の中心に鎮座する木製の机の上に視線を向ける。
そこには俺が寝床から起き出した理由が置かれている。
とある病院の名前が刻まれた、クシャクシャになった袋。そして袋の中から顔を覗かせているプラスチックのケースに均等に収まった数錠の錠剤。
そう、この錠剤こそが、不眠症である俺を唯一救う事の出来る救世主。
一息深呼吸をする。
「おい、睡眠薬氏。仕事の時間だ」
お前は一体何をやっているんだ?
眠れないだけではなく、頭までイカれているのではないかと思われるかもしれないが、俺の頭は断じてイカれてなどおらず、実に正常そのものだから余計な心配は無用なのだ。
「おい、無視とは失礼極まる奴だ。俺はお前のクライアントなんだぞ。返事くらいしろ」
「たっくよぉ…人が気持ちよく寝てるってのに、全く持って煩い人間だな、俺氏は」
「クライアントを差し置いて寝るとはっ…!
あの薬剤師めっ! 不良品を掴ませおって」
そう、俺は睡眠薬と会話をする事が出来る。
あぁ、君たちの言いたい事は理解している。
家族、知人、友人。その他諸々の人間にも相談を持ち掛けた。だが、良い答えは帰ってくる事はなかった。
まぁ当然だろう。
『やはり精神を病んでるんだよ、病院に連れて行った方がいい』
何度この台詞を聞いた事だろう。
それ以来、俺は誰にもこの件に関しての相談を持ち掛ける事をしなくなった。
今の俺にとって、この睡眠薬氏だけが唯一の話相手と言っても過言ではないのだ。
「さっきも飲んだじゃねーかよ、俺氏は。一回一錠が基本だろうに。そんな事はお前だって分かり切ってることだろう?」
机の上に置いてあった煙草を掴む。感触からして残りは数本と言ったところか。
錆びたジッポーライターで火を点ける。
こいつも随分長いこと使っているなと、ふと思う。もし、こいつと話す事が出来たら、それなりに楽しい会話も出来たのかもしれないな、などと柄にもないことに耽っていると、睡眠薬氏から声がかかり、俺は一気に妄想世界から現実世界へと引き戻される。
部屋の中全体に視線を巡らす。
生活感の乏しい部屋。あるものと言えば、木製のの机(お世辞にも綺麗とは言えない)と煙草の箱とジッポーと吸殻が山のように溜まった灰皿。そして俺の唯一の話相手である睡眠薬氏。
一通り部屋を見渡した後、自然と溜息が出た。溜息をすると幸福が逃げて行くと言うが、それはあながち眉唾ではないのかもしれない。
「おい、俺氏! 聞いてんのか?」
「あぁ、すまん。少しばかり物思いに耽っていたものでな」
俺の発言を聞いた睡眠薬氏が失笑を漏らす。
「物思いねぇ。人間は大変だな、色々とよ」
その一言には一体どれだけの意味が含まれているのだろう。確かに、人間は大変な生き物だ。いや違う。生きるのが大変と言った方が正確かもしれない。
学校でのしがらみ、社会のしがらみ。様々なしがらみに囚われながら人間は生きて行かなくてならない。人間が生きている以上、しがらみから逃れる事は決して出来ない。
逃れる方法があるとすれば、それは死だけ。
「おーい、また物思いか? 目先の事に集中しろよ」
睡眠薬氏の声でまたもや現実世界に戻される。
「それで飲むのか?」
「あぁ」迷いなくそう答える。
「依存症になってもしらねぇぜ? 煙草への依存と俺たち薬との依存はわけが違うんだからな」
睡眠薬氏の返答に苦笑をかえしながら、煙草を灰皿へ押し付け揉み消す。
「あぁ、分かってるさ。それに、俺は既に立派な睡眠薬依存症だよ。いや、睡眠薬氏あんたに対してだけかもしれないがな」
「全くもって寂しがり屋の俺氏だな。意思疎通が図れる俺だけを残しとくなんて。全く困ったもんだ」
苦笑しながら残り少ない煙草に火を点ける。
紫煙が宙に舞う。
「煙草もいい加減に止めろよな。百害あって一利なしだぜ、そんなもんは」
肺の奥に染み渡る紫煙を堪能し、名残惜しむように吐き出す。紫煙は無造作な軌跡を宙に描き霧散していく。
「分かってるよ。煙草にしても睡眠薬氏にしても、いつか必ず卒業するさ。だから今日はとりあえず一錠くれ」
睡眠薬氏とその他睡眠薬が入った袋に手を伸ばす。
「仕方のねぇ、俺氏だぜ。よし、行って来い睡眠薬二号! 俺氏をしっかり眠らせてやんな」
ケースから一錠の睡眠薬を取り出し掌に乗せる。白い円形の錠剤。こんなものと会話が出来るなんて、そりゃ狂ってでもいなければ出来ない芸当だよな、なんて事を口内で呟きつつ、俺は睡眠薬二号を水と共に飲み下す。
「ありがとう、睡眠薬…」
翌朝、空は雲一つない快晴。
絶好の引き篭もり日和だが、そうも言ってはいられない。今日は大事な用事がある。
「無事起きれて良かったじゃねーか」
睡眠薬氏の声が聞こえてくる。
「あぁ、いつもいつもありがとうよ」
一瞬の沈黙が流れる。
「お前が礼なんて珍しいと思ってよ」
「そうか? 礼くらい言うさ。お前は俺が不眠症になってから俺と唯一真面に話をしてくれたんだ。本当にありがとう」
「馬鹿野郎が。そいつを言うのは、俺たち抜きでも寝れるようになった時だろ」
俺と睡眠薬氏の間に心地良い笑いが起こる。
こんなに笑ったのはいつ振りだろうか。
そして俺は等身大の鏡に全身を写す。
新品の黒いスーツを身に纏った男がそこには立っていた。
「再起への第一歩だな、俺氏」
「あぁ、そうだ」
窓から射し込む陽光は、とても眩しくて、そんな世界にまた足を踏み込まなければならないのかと思うと、足が竦む。
だが、俺は踏み出さなければならない。
険しくも続く、しがらみのその先へ。
ここまで読んで頂いた皆様、本当に有難うございます。
知っての通り、短編小説でございます。
上手い落ちも何もありませんし、文章もまだまだ稚拙で、兎に角まだまだな小説ですが、それでも短編だとは言え、一つの物語を完結させる事が出来たというのは、とても自信に繋がります。
これから当分の間は短編に専念しようと思っております。
それでは、ここまでお付き合い下さった皆様にもう一度謝意を。
本当に有難うございました。