1‐4
わだかまり、掴めさえしそうな、闇。
前後はおろか上下左右すらも不確かな場所であった。奥行きすらもわからない。
密閉でもされているのか、空調による滞留の変化はない。音すら聞こえてこない。
寂しげな場所だ。
そこに、ぺたぺたと、素足で歩く者が生じた。
大人の胸先ほどはあろう燭台には蝋が一本立てられていて、足元の下を暗がりだけがつづく。彼の後ろに立つ者たちは、彼が残した足跡を橋渡りに、闇の裡を歩いている。短いとも長いとも言いつかない距離まで案内した彼は、そこに燭台を空に浮かると退出した。一人は彼の頭を一撫ですると、彼が敷いてくれた座布団に流麗な仕草で、腰を下ろした。もう一人は座ることなく傍で控えたままだ。
彼らとほぼ同じように入室した者たちは全部で十二人。片方だけが座布団に座っている。
これに少しばかり遅れるかたちで茶を運ぶ、小さなものたちが入ってきた。あまりにも小さくて、二三ほど集まって盆を運ぶという姿もあった。先ほど案内した彼に礼の一撫でをした者は、紅を差した唇を優しげにほころばせる。他の座布団に座る者たちは、茶をすするか、それか鼻をほじくる者もいた。なにがおかしいのか、口元に手をやる者もいた。
小さなものたちが退出してしばらく、闇は沈黙をもって閉ざした。
背後に立つ者たちは、腰に鞘をさげもすれば、懐に片手を納める者もいた。
最期の一組が入室し着席したのを機に、会合は始まった。
各国の観測所で幾度となく計算された結果、星が次々と喰われていると判明した。
星を喰らうもの。星それ自体ではないが、喰らうものについては、国境を越えて古くから考えられてきた命題である。星とは案内標だ。北極星や南北で見える星座の違いは見る者に、自分の大まかな位置を知らせてくれるとても重要なものだ。道路が整備されているわけでも、街路灯があるでもない時代。特に、指針となるものが一つとしてない海上において何よりも頼りとすべきものは、星だ。
恒星。衛星。というのは比較的新しい単語だが、太陽と月もまた、人類の生活を長らく支えてきた。
神と崇める民族がいてもそう不思議な話ではないだろう。そんな指針が、突如前触れもなく私たちの目の前から消え失せてみろ。闇が私たちの心を覆い、あちらこちらの暗がりから魔物が溢れ出てくるのではないかと見る者たちに錯覚させる。蝕という概念がなかった時代ならなおさらだ。神の死かと、その時代の人たちを震え上がらせたに違いない。
インドに伝わる半蛇の魔人、ラーフ。北欧神話に登場する魔狼、ハティ。または月や太陽が死のうとする姿だと考え、楽器を打ち鳴らして活力を与えるといった呪術が、様々な場所で執り行われてきた。有名な、アステカ文明の心臓を太陽に捧げるという儀式もまた、これに対抗するための措置だったのではないだろうか。その真偽は余所にしても、蝕という現象を前に人は、なんらかの理由付けをしてきた。
この理由付けが、今回の事態に繋がっているのではないか。会合が開かれた理由である。
数日を過ぎても顔を出さず、また、専用の望遠機械越しに空を観察してみても、星蝕の現象が起きているといった裏付けにはどこの研究機関でも至らなかった。星が爆発して消えたなどという結論に導こうとするほど、安易な学者はいない。それこそ兆候というものがあって、昨日まで観察できていた星が消滅してしまう理由には不十分が過ぎるからだ。この報告を受けた政府は陰行機関へと解決の依頼をした。
歯には歯を目には目を。超常の、理解しえない現象と対抗できるのが、陰行の者たちだけだからだ。依頼を受諾した彼らはその日のうちにも調査班を組織し、解決の糸口を探させた。伝承研究から、実地調査の手段の一つに、衛星を仲介とする異界渡りの法での直接的な人員派遣までもおこなった。
平安時代よりつづく、由緒ある、列島の護り部。
この会合は、おのおのが得た成果についての報告会である。
「さっさと言わせてもらうが、今回の件に、星食いは関わっちゃあいないな」
引っこ抜いた人差し指を親指で弾くと、鼻毛のついた塊が、闇の奥底へと落ちていった。
「ドウシテカシラ」
しゅうしゅう、と呼気を漏らす女が楽しげに尋ねた。
『星食い。それは七つの罪に数え上げられる、暴食の性質をもつ場合が多い』
座布団に添えられた書物がぱらぱらと頁がめくれ上がると、星食いに関する欄を開けた。
「ご丁寧にすみません。では」
白魚がごときたおやかな指先で頬に手をあてると、紅の口を開閉させた。
「餌を用意しても喰いつかなかった、という事ですか」
「そういうこったい。聖人の槍の欠片を持っていかせたんだがな」
これに、縦長の仮面に眼鏡を並べるようにして身につけた男が、驚きを吐いた。
「ロンギヌスの欠片でも、ですか。あり得ませんよ」
「彼の性格は知っているだろう。無駄口を嫌う男だ、嘘はつかん」
言い終えると、茶、と闇に要求の言葉を投げかけた。反応がない。もう一度。やはりない。
「アラアラ。ドウシタノカシタネェ、子鬼チャンタチハ」
くすくすと実に楽しげだ。茶、と声を張り上げると下から、キィキィと鳴き声が聞こえてきた。
「忙しそうですね。ともあれ、犯人に目星がついたというお方は、おりませんか」
紅の唇を、さも困りましたという風に曲げた。
『該当、なし』
「ぼくも、星食いが妥当な線とみて資料を漁ってきたので。もう、さっぱりですよ」
顔の面積よりも遥かに長大な、仮面の左右から申し訳ていどに覗く、細い肩をすくめてみせた。
「そちら、お三方はどうでしょうか」
「念のため、射落としの線を洗わせてはみたが、やはり、芳しくないな」
湯呑みを逆さまにすると上下に振った。
「そんな事例があったのなら、俺らが知ってるわな。つか、射落としっていやぁ、太陽じゃねぇか」
二度目の鼻弾き。下から喜びの声があがる。
「ゴ馳走ダァ、嬉シイナァ、トイッタトコロカシラ」
しゅ、しゅ、と笑みをこぼす。長手袋で覆われた手指で口元を隠している。
男は後ろに控えていた者に茶を汲むように命じた。息を吐くたびに、熱した蒸気が吹き出てくる。
「アタシ、茹デ蛸ッテ好キヨ。可愛イモノ」
マァ、恐イ、としなをつくってみせると言葉をつづけた。
「デモコウナルト、例ノ噂ニツイテ調ベテオクベキデハ、ナイカシラ」
「噂、と言いますと預言書のことですね」
「ありえんな。発表がされてから半年かそこいらだぞ。早すぎる」
「そんな、かっかすんない。俺としちゃあ、悪くない線だと思うがなぁ」
「ぼくも賛成かな。人って、多方向から同じ話を聞いていると、信憑性が湧いてくるから」
『現在、情報ネットワーク化社会としてのインフラがつづく。ツイッターやフェイスブックなどによる、情報交換の場が整えられると同時に始まった、情報の高速・広範囲化。また、前時代より継続される族社会による個人・集団規模での対立。国家間規模による情勢の不均等さ。主にこれらが挙げられる』
紅をひいた女が、紐で編まれた本に頭をさげた。
「情報源の過多。そして、精神の不安定さが進んでいるため、という事ですか」
『異論、なし』
「コウイウ場合ッテ、嘘カラ出タ真、トデモ言ッタカシラ。昔ノ人ッテバ偉イワァ」
「だがな」
「お、なんだい。反論かい」
「反論と呼べるほどではない。仮説は増やしておくべきかと考えてな」
「もしかして、失伝された概念を、疑っているのでしょうか」
『氷河期の終わりに沈没したとされる、古代王朝の存在説について、論じられた事が幾度かある』
「えでんノ園ノ原型。あだむ・いヴ・りりすノ王族説、ダッタカシラ」
『異論、なし』
「ちょっ、ちょっと、古過ぎないかな。それ」
「その当時に語られていた神が、そのまま現代に甦ったと、唱える気はない」
ずぞぞ、と淹れたての茶を流し込む。一服ついて男が吐いた息は、常人の体温と変わらない。
「普遍的な感情が刺激されたために、星食いが起きた。そう言いたいのですね」
男が頷くと、新たな茶が汲まれた。
「つまりは二説ばかし論じられてるわけだな。忘れられた神と造られた滅び、てぇわけかい」
「はぁ、なるほど」
目玉などないはずなのに、いやに冷たい視線が、本から送られている。
仮面をつけた男は体を小さくした。これに構わず論議はつづく。
「ですがその二説。もしかすると根本としては、同じかもしれません」
しゅうしゅうと呼気を漏らす女が、つづきを促す。
「造られた滅びの場合、肝心の定義が曖昧であるために実体化が難しいこと」
「忘れられた神に関しては、具現化するに足るだけの量がないからか」
はい、と茶をすする男に頭を軽くさげる。
「現時点においては確立性に欠けてはおりますが、潜在的に残っていた神が終末論に刺激され、活動を始めたという可能性を論じられるかと」
わぁ、すごい、と賛辞しようとして、本に黙殺される仮面の男。
「若いってのは羨ましいもんだわな」
苦笑する男は、わり、と言うが早いか、放屁した。
下で騒いでいた子鬼たちの、争う声が途絶えた。
「流石ハ、葛葉ノ当主ネ。先代ニ恥ジナイ頭ノ柔軟サ。アタシモ羨マシイワ」
鼻を摘み、空いた手で扇ぐ。
「デモ、ソウ上手ク結ビツクカシラ。性質ガ似通ウカラトイッテ、掘リ起コサレルトハ限ラナイワ。普遍性トイウノハ悪クナイケレド、意識デキナイモノガ引鉄ニナルトイウノハネェ」
「えっと」
呆れた顔で見やる。
「アナタハモウ少シ勉強ナサイナ。潜在スル意識トハ、誘発スル感情ガアッテ始メテ浮上スルモノナノ。古代王朝ニ、星食イニヨル滅ビノ伝承ガアッタノナラ話トシテ繋ガルワ」
一呼吸入れるように一口、飲み物を含んだ。
「デモ、ソレナラドウシテ現代ニ残ル伝説ヤ神話ニ、星ヲ食ワレテ世界ガ滅ブ、ナンテイウ話ガナイノカシラ。繋ギトナルモノガナケレバ、忘レラレタ神ナンテ浮上ノシヨウガナイハズヨ」
尊敬する目で、彼女を見入る。本は言う気も失せたらしい。
「ごもっともな意見です。ですが先ほど述べられたように映画などによる、滅びという曖昧なイメージに補正が加えられ、それが偶然にも失伝した内容と重なるという可能性も否定しきれないかと」
「ナルホドネェ。アリウルケレドモ、確実性ニハ欠ケルトコロガ心配ネ」
「えぇ。星食いの正体が掴めない限りには、説より先を、論じることは不可能ですから」
笑いあう女性が二人。これを静観する、茶をすする男と一冊の書物。後ろで控えたままだった者に、茶菓子はないかと尋ねる男。二人の間を右往左往する仮面の男。別の意味で、闇は沈黙した。
手を打ち鳴らす音が闇に木霊する。
「仲がよくて大変結構だが、ここは会合の席だ。立場を、忘れないでほしい」
首からさげた数珠を、つるりと撫でる。人の頭ほどの大きさはあろう、珠だ。
女二人は、上座に座る人物に頭をさげた。かしゃかしゃかしゃ、と笑う音が鳴りたつ。上座だ。
「そこまで」
降り立つ静寂。そして、切り裂かれる。
会合の閉幕は近い。
女二人は、しずしずと退出した。
紅唇の女の背後には、杖を携えた者が。
剣玉を利き手で遊ばせる者は、退出する二人をしばし見送ると主人の跡を追った。
歩いて出ていく者。姿を消す者。輿で運ばれる者。
やがて闇に浮かびあがる、六つの座布団。
奥に据えられた上座で、冷めた茶をすする人物が一人。
ぽつりと言葉を落とすと、波紋のように音が広がり、裡へと浸透していく。
奥底をみせない闇に、反響があった。しかしヒトの言葉ではない。無数だ。老若男女の声だ。
これらと動じる様子もなく詮議する。
ほどなくして退出すると、子鬼たちがわらわらと出向き、座布団やらを回収していった。
闇は闇に還り、鏡の泉のように、静けさを湛えた。
男は、二度もの転機を迎えた男であった。そして三度目の転機を迎えさせられている。
逃げ切るか、殺されるか、という瀬戸際に男は立たされていた。曲がり角を過ぎる際にポリバケツを引っかけたことで、生ごみを詰めた袋が飛び出る。足をとられた事で踏みそこない、高い金で購入したブランドの革靴が袋を破いた。どれだけの期間もの間、放置されていたのだろう。半ば液化したそれの濡れた感触が靴下を伝って、男の足首に訴えかける。つんとした臭いと、滑るアスファルト。安っぽい壁に手をついて支えると、改めて走り直した。時たま、振り返る。誰もいない。足音もしないし、動物の鳴き声もしない。逃げ切れた。そう思い至ったところで男は、自分の心臓が爆発しそうに踊っていることを自覚した。身を隠すように路地裏の角に背を預けて、ずるずると腰をおろした。
座るときの癖で上着から煙草を取り出そうとして、空を掴む。あの男から逃げるときにでも落としたのだと理解したことで、舌打ちして、悪しざまにあの男を罵った。最悪な日だ。
いや、最悪でなかった試しなんてないと思い直すと、今日、あった事を振り返った。
男はごく平凡な家の生まれだった。田舎の雑貨店を父は経営していた。
青年に成長してもなお、日本の世は、高度経済成長期のまっただなかにあった。出奔しないほうがおかしい時代だった。打てば当たるという、どこまでも都合のいい時代だ。素人が組んだ案でもあっさりと採用されては売れていく風潮だった。男が金を借りて会社を建てて儲けた金で返すだなんてごくごく自然で、当たり前なものだった。都会でできた友人知人も似たような事をしていた。
妻子も、この時代に得た。美人とはいえないが、良くできた女だった。
しかしバブルの崩壊は、男の人生において第一の転機だった。会社の経営具合を年々維持できなくなって倒産すると妻は子供を連れて実家に戻っていった。この当時の男は、空家となった会社という現状を受け止めきれず、酒に自らおぼれた。怒鳴りちらし、暴力を振るったことも、あまり覚えにないが何度もあったはずだ。あとになって知ったのだが、頬に青痣を残すほどに強く殴ったこともあったらしい。
酒に呑まれていて記憶力がおぼつかなかった時代だ。
溢れてきた生唾を呑み、二度目の転機を迎えた、とある冬の日のことを思い出した。
世間ではホームレスだのと後ろ指を指される集団のお仲間入りを果たしていた男はやはり仲間内に溶け込めてはいなかった。似たような境遇だからといって、親切に迎え入れてくれたりはしない。コンビニの残飯漁りや自動販売機での小銭漁り、その日限りの労働にも、限りがあるからだ。そもそも酒に呑まれ、川べりに暮らすようになってもまだ現実を認めなかった男に優しくするほど暮らしは楽なものではない。男は、縄張り争いもろくにしないまま、ゴミ捨て場で幸運にも捨てられていたキャンプ用のテントを隅に張るとそこで引き籠った。
配色のトン汁などを除けばろくに食事を摂らない生活だったのだ。栄養不足からの幻覚を視るのも、今振り返ってみればやはりこれも当然のことだった。飢えていた。ひどく体が渇き、痛みが全身を走らせていた。ほとんど寝ていたこともあるのだろう。寝返りをうつことすら億劫に感じていた。そんな状態のまま、冬の対策もとらず、なかば死んでしまおうとまで自棄になっていた日の事だった。黴臭い毛布を引き寄せてなんとか暖をとろうとしていた。外に出て、誰かに助けてもらおうという勇気も度胸もなかった。怖いし、それこそ寒い。朦朧と、かじかんだ手足を揺すっていたら、視界の端に奇妙なものが映った。小さかった。腹がぼこりと出ているくせして、手足は骨そのものだった。
男はその名を知っている。餓鬼だ。地獄の底辺で死肉を漁る、低位の鬼だ。昔の自分でもある。
その日を境に、男は変わった。
川から出ていくと、銀行を襲った。資金をある程度まで貯めると、店を買った。口座や身分はその手の人間から金で仕入れた。便利な時代だと男は思う。金さえあれば多少の我がままは押して通せた。あとはもう好き放題だ。心霊マッサージだの、占いだの、新興宗教だのと名を変え、風貌を変えては警察に足を探られないよう転々としながら女を漁ったものだった。一番贅沢な時期だといえる。
金があれば、冴えない自分でも見目のいい女をもらえるのだ。
少し多めにだせば、変態的なことにだって手を出せた。楽しい大人の時間だ。
そうして羽目を外し過ぎたのだろう。追手がきた。
全身を黒の外套で覆った男だった。いやに肩の盛り上がった格好でもあった。
よそう。思い出すのも腹立たしいうえに恐ろしい男なのだ。
逃げ切れたのだから、こう、もう少しは有益な事に頭の中身を注いだほうがよほど有意義だ。
ブランドものの服に生ごみが付着してしまっているのでどうしたものかと、考えたところで買い直せばいいと慣れた行為を思い出した。持ち合わせにさすがに自信はないが、今の自分には金など幾らでも都合がつく。あまり人気のない場所で通行人から金目の物を奪えばいい。銀行の車を襲ったっていい。もし自分の眼鏡にかなう女であれば、味見をしよう。丁度いい、憂さ晴らしとなる。
含み笑いしつつ立ちあがったところで、胃の腑が逆転するような、不快な感覚が男を襲った。来た。あの男が来た。逃げろ。逃げろ。どこまでも逃げろ。目についた方向へと男は駆けだした。コンクリート製の古びた壁を突き抜けて走った。視界の端はしに蠢く、奇怪な生き物がざわざわと湧きだすが、無視をする。こちらからちょっかいをしなければ邪魔をしないうえ、襲いかかってきたとしても、そうそう強い個体とは遭遇しない。仮に遭遇してしまったとしても、撃退してしまえばいい。
こんな感じにだ。
男に追走するように走っていた、子供の玩具。木組みの汽車の車からは、人差し指と思しきものが生え、それらを地面を掴むように回転させながら走っている。低位の鬼くらいしかこの奇妙な世界では見かける事がないと言ってしまってもいい。あの男と比べればそれこそ雑魚だ。汽車の子鬼が走る、その未来の位置に焦点を合わせ、虫眼鏡で太陽光を集中させて黒い紙を燃やす実験のように、熱が生まれるイメージを働かせる。さらに地雷のイメージを追加する。爆発に巻き込まれないよう、男は走る速度を一時的に上げた。一秒、二秒、三秒。男が汽車を突き離そうという距離で、汽車の子鬼が発火地雷に踏み込んだ。熱が金槌そのものの形状となって襲いかかるイメージで、追いかけてくる汽車を打ちあげる。くの字に折り曲げた姿勢で、ギュビッと芋虫を潰す情景でも聞いた者に連想させかねない、気味の悪い排泄音を噴きだしながら中身を路地裏にぶちまけた。
後頭部に、青色の血液とも体液とも似つかない粘液を袖口で拭いながら、男は構わず走る。先ほどのようなことはあの男に追い立てられる以前から、何度も経験してきた事であるため、嫌悪感を抑え込むことに慣れていた。とはいえ尻の穴がすぼまることまでは堪えきれないが。男はあの冬の日、のちに餓鬼と仏教で説かれる鬼に襲われた日に、発火能力に目覚めていた。この能力は不思議な空間でないと使用が難しく、体力を異常なまでに消耗してしまう。しかしそれに耐えきり、克服することさえできれば、あとはもう男の夢を現実にすることだって嘘でなくならせる事ができる。選ばれた者にのみ許された特権であった。そのはずだった。
「くそ、なんで俺以外にもこのチカラが扱えるんだ。俺は、特別じゃあないのか」
腹立ち紛れに壁を打ちつける。けれど走ることだけは止めない。
「くそ、くそ、くそ、くそぉ」
粘ついた袖で涙を拭う。それがなんだったか、もう気にしてはいない。それどころではない。
「俺がなにをした。嫌な目にあってきたんだ。なら、都合のいい日があってもいいじゃねぇかよぉ」
歯ぎしりをたて、襲いかかってきた子鬼を叩き殺し、足がもつれながらも男は走った。
「あの女、ちょっと失敗したくらいであっさり俺を見捨てやがって。あいつら、俺が事業に行き詰ったからと金を持ち出すとはどういう料簡だ。罪悪はねぇのか、罪悪は。パパ、パパってああも懐いていたくせに少しでかくなった途端に薄汚い目つきをしやがって。誰の金でそこまで大きくなれたと思ってんだ。金を返せ、親不孝もんがぁぁあ」
最後には轟きとなって路地裏に発生した異界に沈んでいった。この世界に物理法則などあってないようなものだ。音を出しても反響するときはするが、しないときは永遠と音を返さない。壁を通り抜けられるときもあれば、その逆もある。この世界に一律などない。男は、自分が今も全力で走っているつもりでいるが、実際は違う。透過から硬化へと移り変わるそのラグを見抜けなかった男は、壁のなかに埋まってしまっている。とはいえ現実とは異なるこの世界ではその程度のことで死亡したりはしない。攻撃されれば血が吹き出るがやはり死なない。明確な殺意があって、初めて、殺し殺されが成立する。
透過と硬化の揺らぎで気紛れに届く、男の、聞くに堪えない罵り声に眉をひそめもしない男がいた。両肩にまたぐように猫が腰かけた男は、和弓をきりきりと引き絞る。猫は耳を畳み、満月かと思わせる美しい眼で罪人を見据えたままでいる。機嫌は悪く、二又の尾をぴしりと男の背中に打ちつけている。和弓につがえられている矢は、先にいくほど太くなっており、先端が斧の刃のように丸みを帯びた曲線を描いている。弓で罪人を断つ武器だ。
――女の敵に、情けは無用よ――
黒装束の男は頷く。硬化が透過へと移行する気配はない。弓の弦が張り詰めていく。
――許してもいい人間ではないわ。あの手の輩は口ではなんとでも謝罪をして、反省をする――
弓の切っ先が、罪人の心臓へと据えられる。
――罪人ですらない。快楽しか知らない、覚えられない、いっそ哀れな生き物なのよ――
男は、弓を引く手を離した。空気を二つに裂き分かちながら進軍していく。
唯一の慈悲をあれに。
――そう、それでいいのよ。正幸――
現在時刻12月某日。午前から午後へと移り変わる、12:00 の数秒前の出来事である。
弓が颶風を伴って猛進しだしたところで、ちょうど5秒前。
斧の形状をした切っ先が、壁という曖昧な障害を突き抜けるのに、3秒を消費。
ようやく男が命の危機を自覚し、防衛本能に任せて利き手を突きだし、貫通するに1秒。
速度を衰えさせられた矢は失墜しつつも直進する。
運命の日、到来。