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20XX年五月初旬、初夏を飾るにはまだ早い、さわやかな風の吹く日だった。
関東沿岸部にて海洋生物の生態調査や漂着物からの海流研究をおこなう、数十年という歴史を誇る、大学付属の研究所から電子メールが政府に宛てて送られてきた。まずこれを確認した施設員は、件名にあった研究所の名前がわからなかったため、スチール製の棚から参考資料を取り出してその名前を探すことから始めた。索引のページから開き、そこから該当する欄を発見した。
有名でないはずだ。ここ近年でこれといった発表ができずに埋もれてしまった学校の一つであった。こういった学校は珍しくはなく、貢献のできていない学校から入学希望者は途絶え、やむなく一般開放がなされ、意欲に欠ける生徒が集まるようになるという負のスパイラルに陥るところは決して少なくない。誰も知らないだろうが、マスメディアで取り上げられていないだけであって、閉鎖された大学研究所は割とあるのだ。さすがに専門性の強い大学となれば新規に建てられることはそう多くないが、埋もれないほど数がないわけでない。活躍できてなければそれは顕著だ。
そう思ったところで、メールにはデータが付随していた。これ自体はなんら珍しいことでなく、驚くようなことではない。施設員が注目したのは、送付した人物名だった。川部博巳といえば海洋学の第一人者と呼べるほどでないがそれなりに有名な人物だったはずだ。施設員は、昔に読んだ彼の著作名を思い返そうとしながらメールを開けた。
X線による調査のあとに、内封された金属板を傷つけないよう細心の注意を払いつつおこなわれた、瓶内部の空気の成分調査を開始したと記録されていた。すると驚くべきことに、紀元前、それも黄河文明らが発祥する以前の時代のものだという事が判明したのはいいが、これ以上のことは大学の設備では明かしきれないとあってやむなく、国に依頼をしたいというものだった。
学会内では立場の低いあの大学が余所の学校に同じように依頼をすれば横取りをされないという保証がなく、可能性としても低くはなかった。大事な教え子の快挙を汚されたくなかったためにした配慮であったが本人がこれを素直に喜ぶかどうかは埒外であった。川辺博巳教授にとっても初めて目の当たりとする、未知の文明が造ったであろう遺物を前にして、冷静でいられなかったからだ。
干されてきたに等しい人物であるが故に、確固たる手柄を欲していたという理由もある。
このような事情が顧みられることなどなく、しかるべき施設にて正式な調査が開始され、やがて日本の研究者だけでは手に余ると判断。マスメディアや学会新聞、または直々のラブコールが一斉配信された。事態は一介の研究生の手を離れていき、国際的な活動にまで発展していった。
当然、日本だけでなく外国から来訪してきた記者たちにもインタビューを要求され、慣れない正装と過量のフラッシュ音に首を竦めたまま寺本慎也は目を回されるほどに連日、引っ張りだことなった。川辺教授も同席してくれてはいたが、よりセンセーショナルな記事を望む報道記者といういっそ異様な生物たちは、それとなく教授の存在を除外していった。
これは、中年から老境に差し掛かろうという男性と、若く、顔立ちも悪くない青年のほうが、劇的で、見栄えも良いと判断されたためだ。名誉欲と後進の育成の思いに挟まれた川辺教授は、報道陣の滑りのいい舌遣いによって欲を削られ、寺本研究生の今後の成長を促すための判断という美辞麗句で、彼の意思は封じられた。悪いことばかりでなかったことも大きい。余所の大学から教鞭をとってもらいたいというオファーが届くようになったからだ。
薄くなり始めた頭髪を隠すのに、なにか都合のいいものはないかと悩むほどだ。
こうして5月初めに、例の瓶、オーパーツが、世界各国で報道された。
二ヶ月後。
世間は、瓶の事などすっかり頭のうちより押し潰され、話題に上ることがなくなっていた。
発表当時はそれは賑やかなものだった。報道カメラで映された瓶の透明度の高さに、誰もが驚かされた。硝子を薄く延ばすことはそう難しくない。肝心なのは強度だ。薄過ぎると実用に耐えず、厚いと濁りやすい。実用化された硝子の用途で有名なのがステンドグラスだ。あれは小さな、染色された硝子の片を積み重ねて一枚の宗教画とした、見る聖書だ。一見すると美しくはるが、その実は、一枚の硝子板にするのが当時の技術では難しかったことを裏付けしていると言えよう。
特に、現代の我々が日常的に見かけるガラス窓などと比べれば、その面積の差は歴然としている。
形を一定に保つということもまた、難しいことであった。機械による製造技術もない時代に、均一なものを造るというのは困難なことだ。瓶一つならまだできるかもしれない。だが、内封されていた金属板はどれも均一の大きさで整えられてあった。海岸で発見された当初に工場生産品と判断されてしまったことに納得がいくほどに。
反論する学者もいたが、板と同様に収められていた当時の空気成分が、南極で採取された氷から取り出された古代の空気と試しに比較してみたところ、ほぼ同一であることが確認された。
この経緯をもって、国際研究チームが組織された。
そこまではよかった。
研究調査は、金属板に彫られた文字解析以外が、まったくの暗礁にあった。
金属組成が地球上に発見されていない、未知の物質であったこと。
類似する、これら技術が可能と思われる文明の調査追跡も、解決の糸口がなかった。
希少な金属板を消費してしまうわけにもいかず、削り取って粉を作ればよいかと思えば、どういう理屈なのか。いかなる手段を用いても板はその形状を維持しつづけた。熱や圧力、さまざまな方法が試された。もちろん、手心を加えていたことも大きいだろう。しかし微量の粉を得ることすら叶わなかった。
文明とは無から生じたりはしない。近年、エデンの園のモデルとなったであろう、古代国家の存在説が秘かに浮上しているように、現代の国、つまりは律法や宗教、神の存在が脈々と受け継がれ、現代にまでその系譜をつづかせている例というのは多い。キリスト教によって邪悪な神へと貶められた土着信仰の話が、その一例といえるだろう。
多少の変貌はあっても、根本となる性質は遺している場合が多い。こういった類似性を煮詰めていき、その原型となったものがどこにあったかを浮き彫らせていくのが、追跡調査と呼ばれるものだ。
だが、手掛かりとなる資料があまりにも少なく、高度な技術力を持ち合わせていた文明となると発見のしようがないのだ。古代ローマ帝国など、優れた文明を誇った国はいくつかある。ただし当時の状況で可能な範囲での優秀であって、現代に比肩するほどの優れた技術力など、どこも持ち合わせてはいなかった。規格品を生める国。それ自体がまず、誰にも想像できなかった。
これに反して解析が順調に進んでいったのが文字解析である。順調と表記すると語弊があるが、これは他と比べてという意味であって、難航がなかったという意味ではない。数枚ある金属板だけとはいえ、比較するだけの文量はあるのだから学者たちとしても有難かった。もしこれで文字解析すらも座礁してしまえば、研究費が降りなくなり、チーム解散の危険すらあったからだ。
このチームに参加している学者たち全員に共通する意識だ。
瓶を丸裸とし、謎を、謎でなくさせる。
ただそれだけの事に彼らは心血を注いでいた。
十月も半ばになろうという時期。
忘れ去られたものが、息を吹き返すことに成功した時期であった。
未知の文明が書き遺した、預言書であると、研究チームは記者会見の場でそう答えた。
死に物狂いで金属板の謎を解き明かすことに成功した研究チームを手迎えたのは、冷やかな拍手だった。
発表された当初こそ賑わっていたが、瓶は、一度冷静になると疑問視せざるを得ない代物だった。
青銅器が主流であったろう時代に、そのような技術が確立されていたという点。
出土したのではなく、海流の流れで表舞台に現れたという点。
なぜ今に至るまで壊れも、罅も入らずにすんできたのかという点。
挙げようとさえ思えばまだまだ指摘できる。
いつだったか。象の妖精のミイラだかが発見されて騒然となったが、結局は作り物だったという事が判明されたときのような、そんな冷やかな態度であった。そもそも預言書というものが、あまりにもオカルトティック過ぎる事も、この態度に拍車をかけた。嘘臭く、偶然の一致だと話を済ませられるからだ。
ノムトラダムスの預言書が一時期、大ブームとなったのも、パソコンが普及し、急速なまでの近代化が進んでいったことで人々の心のうちに浮足立った、そんな普遍的な不安が根づいていたからだと論じる学者がいる。例えそうでなくとも、終末論とは、どんな時期にでもある程度は流行るものだそうだ。
誰とて、恵まれていなければ精神が鬱屈してきてしまう。
投げやりな、無責任な状態にまで追い詰められてしまうことはそう珍しいことでない。
自分だけではどうしようもない窮地から救い出してくれるものさえあれば、人は、藁でも縋りつく。
オウム教が、その代表的な例かもしれない。
信者の多くが医者や弁護士といったエリートで、そういった人たちは常日頃からプレッシャーを与えられる。故意的なものでなくとも、そういった環境下では人は、正常な判断をくださせなくなる。レールを走ることだけを考え、自律的な、自我の芽生えというものを妨げる。
嫌気が差してさえいればあとはイチコロだ。
二十世紀問題を、知っているだろうか。前述した、パソコン普及に伴って生じていった不安のことである。西暦2000年という大台。時期をあわせて流通されていくパソコン。携帯型の電話なんてものが販売されるようにもなっていた。急速な近代化という機械化生活は、さまざまなところで目立っていっていた。わかりやすく言えば、アナログからデジタルに乗り換えられていく時代であった。
時たまにスマートフォンの操作に不安を覚える声があがるように、この当時にもそういった不安の声があった。こんなものが使えるのか。壊れないのか。馬鹿にされたりするのか。
小さなものであっても、一つひとつが集まればよほどの大きさとなる。
そこに終末の預言が囁かれてみてはどうだ。
偶然の一致と、聞き流すことができる人が、当時、どれだけいたのだろうか。
周りに押し流されて、自分まで段々と不安になってきてしまった、という人もいただろう。
だから、誰もが恐れた。
布団を頭から被って念仏を唱えていたというのに、昨日と変わらない朝を、迎えていた。
運命の日とやらを乗り越えた人々の心中はどんなものだったろう。
壮絶なまでの肩すかしである。
後に、ノムトラダムスの預言には、別の月であるという説が発表されたが、誰も気には留めていなかった。せいぜいが雑誌に掲載されるまでで、テレビなどのマスメディアで宣伝されたりしていない。物好きだけが知る、悲しい扱いに終わったしまったのが彼の預言書なのだ。
第二第三と発表されても、誰も気にしない。またかと感想を述べてくれるだけで、恐怖したりはしない。
一週間もすれば、これが掲載された記事は雑踏の片隅に転がる、ポリバケツのなかに無造作に押し込まれ、回収される時を待つでしかなかった。オカルト雑誌で繰り返し特集を組まれるぐらいで、テレビに出てくることなど以後は一度もなかった。思い出したようにツイッター上で失笑を買うだけだった。
この預言には、宇宙が運命の日を迎えるとあった。
人類が滅び、新たな時代を開闢するとも、書かれてあった。
今年の十二月がその運命の日であると言われて、ぴんとくる人はいるだろうか。
占いの席で、あなたは明日、死にますとか素敵な異性と出会えると言われて、それを本気にできるか。
いないとは言わない。
けれど、実感をもってこれに対峙する人まではいないはずだ。
昼ごろか、それか日が暮れて星が見えてきた頃にはもう、別のことに意識が向くのではないか。
物好きな人間が、そうとは知らずに第一発見者となっていたのだと知る者は、本人も含めて、誰もいない。彼だって、星座観察を趣味としていなければ目撃できなかった。そう考えると、宇宙観測研究所の職員らも発見者の一人に数えられはするのだが、専門家であるが故に彼ほど柔軟に事態を受け止めることができなかった。
とはいえ、彼も器具の不具合かなにかと片づけているのだから、本当の意味での目撃者ではないのかもしれない。しかし彼がまず第一に感じとった感想が、そのまま答えだったのだから、結果としては、栄誉ある第一発見者であると結論づけられる。
彼の生家は田舎であった。
地元の学校を義務過程に乗っ取った流れで通い、いずれ、地元の会社に勤めるのだろうと漠然にだが考えていた。彼の家に祖父母はいないが、周囲の家には存命の人が多く、若い子供が少なかったことも関係して、とてもよく可愛がられた。小柄な身長で、同世代の子たちの記録と比べても一回りは明らかに小さかった事もあったのだろう。
彼自身、身長のことは別としても、彼らを見捨てて余所に行く気にはなれなかった。
住み慣れた土地を出ていくことに抵抗を覚えたからでもあった。
そんな彼が日課ともいえる趣味が、星座の観察だった。
数年前に嫁入りで上京した、田んぼや畑を挟んだお向さんの家の娘が趣味としていたのがそれだった。
若い子供が少なく、同年代となれば輪をかけて少ない地域。多少の年の差は関係なしに遊んだ仲であり、彼にとって苦々しい思い出の主軸たる人物だった。
自分でも未練がましいとは思いつつも、彼女と一緒にココアを飲みながら見た星座を、わけもなく覗きこみたくなる日があった。手入れをさぼろう、捨ててしまうと思っても、結局は組み立ててベランダで寒さに震えながらきらきらと輝く星空に物語を当てはめるのが面白くあった。
小学生の頃からの習慣であると言い訳を聞かせて、彼は今夜も、ベランダに昇った。
屋根の上に設えられたベランダは、年月もあってかぎしぎしと呻く。
気にせず、パイプ椅子を立てて毛布を着込み、覗き窓へと顔を寄せる。
呼吸をするたびに、肺が切りつけられるような痛みが走る。
雲の多い日だった。
だから、すぐには気付かなかった。
この季節なら必ず顔を出す、星座の一角が、やけに黒ずんでいた。
星が現れていなかった。
どういうことか。うん、と目を凝らしてはみるものの、見えているものは変わらない。
一応、器具の点検を繰り返しベランダでおこなってはみたが、不具合はなかった。
仕方がなく、他の星座を見てみることとした。
問題はなさそうだった。
小一時間ばかししてから、彼は今日の観察を取りやめることにした。
これ以上見ていても原因がわからないし、星が消えるだなんてそんなあり得ない事など起こりようもないのだ。きっとなにかの見間違い。曇っているからか、器具に自分ではわからない程度の故障でもあるのか。せっかくだ。もうあの人のことは忘れて、勉強でも真面目にしていよう。この間、点数が下がって親に小言を言われたばかりでもあるのだから。ちょうどよかった。
こうして彼はつづけて観察することはしなくなった。
もうじき十一月になろうかという、ある日の夜のことであった。