1‐1 前夜
朝のまどろみのなか、焼き魚の、香ばしい香りが漂ってくる。
ほうれん草の胡麻和え。ふっくらとした、卵焼き。納豆の傍では白米が、湯気を煙らせている。
今どき流行りの、対面式のキッチンではない。食卓が置かれた部屋とを曇り硝子の戸で隔てるのみで、すこし目を凝らせば、娘の弁当の準備に取り掛かる後ろ姿だろうとわかる。
夫は、苦笑する。日頃、娘は学校の給食で昼をすませるので、つい今日が娘の遠足の日であることを妻は忘れてしまっていた。そのことを指摘するやいなや、どたどたと足を鳴らして台所に舞い戻ったしだいなのだ。電子レンジを開く音や、パックを破く音も聞こえてきた。
娘は不満に思うだろう、と夫は考えた。
デパートだけでなくコンビニでも惣菜を買える時代なのだ、今は。これに反するように妻は、料理に手間暇をかけることを厭おうとしない。娘にせがまれれば、その手の本を何冊か買ってきてキャラ弁の作り方を勉強したりもする。夫は、そんな妻に質問したことが一度だけある。答えはこうだった。料理を教えてくれた祖母が口酸っぱく教えてくれたのだと言う。良い家庭は美味しいご飯がないと生まれない。
以来、夫はこの事に口を挟んだことはない。
壁際に置かれたテレビ台から流れる、今日の交通状態だとかいった情報が、新聞紙のうえを踊る。
はたはたと駆ける音とともに、廊下側の戸が開けられる。娘だ。
可愛らしい声で、おはよう、パパと投げかけてくれる娘に、父は流し目で応じてみせた。
いつだったか。娘がドラマか何かに影響されたらしく、このような事を要求してきたことがあった。
お父さんは新聞紙を読んでいてほしい。
それから、新聞紙を開くながらニュースキャスターの報道を聞くのが習慣となってしまった。
テレビがあるのだからと契約していなかったから、娘に泣かれたこともある。
自分の椅子を引いてそれを足場に、娘は、父の膝に腰掛けて新聞の一文一文を読みだした。
娘が言葉に詰まれば、父が「おしょく」とか「ちかん」「うわき」と読みあげる。
おかしな所ばかり注目しないでほしい。
硝子戸をがらりと開けて、妻が入ってくると娘が、ママ、おはよう、と声をかけた。
妻は、笑顔でおはようと答える。
「ママ、今日のお弁当、忘れてないよね」
「もちろん。忘れるはずないでしょ」
「うん、ママだいすき」
夫が苦笑いすると、妻の睨みが凄みを帯びた。夫は、何気なさを演じて、テレビにつと視線をずらした。
見知った顔があった。
寺本慎也とは呼ばずに、ただ、シンヤお兄ちゃんとしか、呼んだことがない。
あたしが、初めて出会ったのはいつだったろうか。お正月だったと思う。
色黒く肌を焼いたおじいちゃんや、腰の曲がったおばあちゃんたちがこぞって、あたしの家に来た。
お父さんは、彼らはこの家から出ていった、死んだおじいちゃんの兄妹たちなんだよ、と教えてくれた。死んだおじいちゃんの事はあまりよく覚えていない。あたしがまだ小さかった頃にはもう寝たきりで、立って歩いているところだなんて、一度も見たことがなかった。
そんなおじいちゃんは、幼稚園に通っていたときのあたしが書いた、クレヨンの絵を大事そうに壁に画鋲で刺して、お水を飲みながら眺めていたことを、あたしは覚えている。たまに、固くて黒いお菓子をくれることがあった。カリントウというお菓子だと教えてくれた。
片手で足りるほどのことしか知らない、おじいちゃんの兄妹だと紹介されたあたしは、戸惑った。
七人も家の広間に集まっていることもそうだし、お父さんと同じくらいのおじさんやあたしよりも幼い子を連れてきていもいた。お父さんとお母さんとあたししか日頃はいない、広いばかりだった家が、たった一日でぎゅうぎゅうになってしまったのだ。あたしはこんなにも大勢の人たちを見たことがなかった。テレビでしか知らない光景に、あたしは、酔ってしまった。
食べなれないおせちやおそうにを食べたことも、あったのかもしれない。
そんなこんなで気分を崩したあたしに、いち早く気がついてくれたのは、お母さんではなくて、シンヤお兄ちゃんだった。前日にお父さんが納屋から運び出した長机とおじいちゃんおばあちゃんで狭くなった壁際を転びそうになりながら、駆け寄ると背中を擦ってくれた。あはは、と大笑いするなか、シンヤお兄ちゃんはあたしの手を引いて静かな台所で氷を入れたお水を飲ませてくれた。
あたしとシンヤお兄ちゃんが退出していたことに、遅れて気がついたお母さんに、お兄ちゃんは、大人たちの話が終わるまでの間、あたしの遊び相手になりますと申し出てくれた。夕方を過ぎて、とっぷりと星が瞬きだしてくる頃までお兄ちゃんは、お絵かきをしたりして遊んでくれた。
下手くそな絵だった。
夏になるとお彼岸に、来年のお正月には必ず、シンヤお兄ちゃんが遊びに来てくれた。
あたしが小学二年生になると、お兄ちゃんは大学生になった。嫌そうな顔だったのでなでなでしたら、困った顔で、ありがとうと返してくれた。なんだか、むう、となってしまった。
その年からシンヤお兄ちゃんが家に来てくれることが少なくなった。一人暮らしをするようになったことであたしの家まで遊びにいく余裕がないのだと、お兄ちゃんの両親は教えてくれた。ぎゃあぎゃあと、泣き喚いておじいちゃんの兄妹たちまで困らせたことをよく覚えている。我がままを言うなとお父さんに拳骨をもらったからだ。仕返しに、しばらく無視してあげたら、車でお兄ちゃんの家まで連れていってくれた。久しぶりに会ったシンヤお兄ちゃんは、なんだか大人になったみたいで、格好良かった。
その日の夜、甘やかさないでと、お母さんに叱られるお父さんの姿を横目にあたしは、布団に潜った。
大好きだよと伝えることができて、嬉しくて、もう一度会える日が来ることを楽しみに、就寝した。
明日は、待ちに待った遠足の日でもあったからだ。
柿澤知香はクラスの中心だった。
小学校の低学年のときから、そうだった。おれや、他のみんなも知らないような漢字を書けたり、先生でも知らないことすら彼女なら知っているという事ばかりだった。彼女、チカを嫌うやつも、好きなやつも、みんな目を離すことができない。明るいし、かわいいし、なによりも元気だからだ。
ボール大会のときも、お絵かき会でも、委員会のときでも誰よりもまっすぐに挙手をして、はきはきと自分の意見を押し出すのだった。足も早くて、頭だっていい。割り算の仕方がわからないと喚く、クラスの女の子におれや友達が顔をしかめていたらチカだけが手を差し出した。給食の配ぜんの時間に転んで鍋を廊下にぶちまけたやつがいると、雑巾を持って駆けつけていった。
チカは、クラスだけでなく、学校のヒーローだった。
あんまり友達の前では言えないけれども、おれも、友達も、みんなチカが好きだった。
ドッチボールにいると、まず勝てるからというのもある。すくなくとも、山口とか志島なんかがそうだ。おれもそうだった。女子なのにおれたち男子よりもずっと強いのだから当然だ。
遠足の当日。チカの周りにはいつものように女子や男子が集まっている。
おれも聞き耳をたてて、チカの説明に聞き入っていた。
今朝、テレビで報道された大人の人が、なんとチカのお兄ちゃんなのだそうだ。
緑豊かな公園に着いて、ゲーム大会を開かれても、お弁当や帰りの時間になってもチカの周りは人でいっぱいだった。話しかける声が多すぎて、おれが言ったことがきちんと届いたかも怪しい。結局、自分の家に帰りつくまでの間、遠巻きに眺めているしかなかった。
安藤吉宗が帰宅すると、ふくれっ面をした弟の姿が、いの一番に目についた。
ダイニングルームに備え付けられた薄型の液晶テレビに、つい先日に両親が買い与えてくれたという誕生日プレゼントである、レーシングゲームの画面がエンジンの唸り声をあげていた。兄である俺の帰宅に気づいているのか無視しているのかはわからないが、ぐりぐりとコントローラーをいじくる姿は年相応であり、面倒なものでもあった。
またなにか、気に食わないことがあったのだろう。
溜息一つばかし吐き出してから、おもむろに通学鞄をテーブルに叩き置き、フローリングの床をきしませるようにして歩く。ここでようやく俺の帰宅に気がついたのか、あ、と目を見開いた顔でこちらの方を振り向くと同時に電源ケーブルを引っこ抜いた。
「なにすんだよ、ばか兄貴。せっかくレコードを塗り替えられそうだったのに」
いきり立つ弟を無視し、右手でこめかみを掴むと揉みほぐした。小さな頭をしている。
やめろよ、と俺の弟はくすぐったそうに身じろぐ。
「どうせあれだろ。チカとかいう女の子のことだろう」
途端、ぎゃあのぎゃあのと騒いでいたというのに、急に言葉を詰まらせた。正解だったらしい。
恥ずかしいのか。顔を真っ赤にしながら、こちらを睨みつけてきているが怖くもない。むしろ、気になる女の子に対して素直になれない小学生男子の実物を拝めるというのだから、見物料を支払ってやるというのもそれはそれで悪くない。
「なんだよ、これ」
「百円」
「ばかにしてるのかよ」
頭にのっけられた百円玉は、くるくると、掃け除けられて床に転がっていった。左手で拾いあげ、右の手で生意気な弟の顔を引き上げる。握ると揉むの中間のような、微妙な力具合でだ。以前、やりすぎて弟を泣かした罰だとして冬の寒空に放り出されたことがある。あんな目にあるのはもうごめんだ。
だがやめない。泣かすのが悪いのならば泣かないぎりぎりまで痛めつけるまでだ。
「バカにしているとも、バカ弟。その年になって、まだ、彼女の一人もいないのか」
やれやれ、と小粋な溜息を噴きかけてやると弟は生意気にも、反論に出た。
「なに言ってんだよ、ばか兄貴。家に連れてきたことなんてないだろ」
「家に連れてこなけりゃいけない法律なんて、日本にはないぞ」
「証拠はどうした、証拠は。どうせ嘘だろ」
逆に、弟が俺のことを馬鹿にしてきた。さすがに小学六年生ともなれば知性も高い。ドラマで聞きかじっただけかもしれないが、彼女など俺にはいない。弟の疑問は当然のものだ。弟の頭から手を離し、テーブルに置かれた鞄にある内ポケットから、一枚の写真を取り出す。準備に余念はない。
「どうだ。綺麗だろう」
変な顔をしたまま、弟は硬直している。気持ちはわかる。俺だって、あんな伝手さえなければこんな美人と並んで写真を撮れたりはしない。感心した思いで、俺も写真を覗きこむ。ショートカットの女性が俺の隣で、妙に楽しそうな、微笑ましそうな流し眼で俺の方を見つめていた。どうしてこんな美人と、無精が服を着て歩いているかのような人とが親友なのだろう。世の中はどうしてこうも理不尽なのか。
なんとも言えない、複雑そうな顔で、弟は俺のことを見上げていた。正直なところ、困る。尊敬するような顔をされても、この人は俺の女でもなんでもない。ひょっとしたら、あの人の女性なのかもしれないのだ。策が成功したともいえるが、悲しい。彼女だなんて、一度もできたことがないというのに。
「う、うん」
だからこそ押し通す。
「俺が、そう、中学生くらいの時だったかな。彼女を口説き落としたのは」
喰らいついた。興味津津だと言わんばかりに弟は目を開いて、耳を大きく広げていた。
彼女との出会い。プロポーズ。親や家族にも内緒のデート。
そんな真っ赤な武勇伝を、弟は、片時も俺から目を離そうとはしない。日頃からこうも可愛げもあれば少しは優しくしてやるものなのだが。そう思ったところで、成り行きで聞き逃していた点があったことを今さらながらも思いだした。
「なあ、弟よ」
「どうしたんだよ、兄貴。早くつづき話してくれよ」
「ところで」
テレビに繋げられたままのゲーム機を指差す。
「レコードを塗り替えるって、それ、どういうつもりなんだ、おい」
とっさに逃げ出そうと駆けだした弟の足首を、掴んで離さない。鬱憤晴らしといこうか。
森雄之助は相も変わらず、あっけらかんとしている。
長年勤めてきた職を辞すと、幼い頃からの夢だったという喫茶店を開業していた。
なんの因果か。中学の卒業にともなってこいつとの縁も途絶えたろうと思っていれば、おかしなところで再開するようになり、職場先でも顔を見合わせるようにもなっていた。親同士の仲はさほど親しくはないので、そこから互いの進路先が洩れたりはしない。すくなくとも私の両親に限れば、家にいること自体が珍しいのだ。子供を気遣ってなんていう、殊勝な考えがない。
地区一つ分の距離を挟んだ先の、世間一般でいう、幼馴染ともいうべき男だ。
私は、空手を学ぶために。あいつの場合は自転車競走という、当時、子供の間で流行っていた遊びに興じられるだけの広い場所を求めて、隣地区へと足を定期的に運んでいた。どんなきっかけからかは忘れたが、たまにお互いの友達を混ぜて遊ぶようになった。そしてそれからがあいつとの腐れ縁の始まりだった。鬱陶しく感じる日さえあるほどに。
どちらともなく離れるようにしていても、いつの間にやら、酒を呑み交わす仲となっていた。
当時からの友人らに質問される事がないでもない。自分でも疑問に思うときだってある。
けれども、ただなんとなくではあるものの、答えは自ずと出てきている。
お互いは親友だと。
友人らは、納得できたような、承諾しかねるような曖昧な顔で、これを聞いていた。
私は、コンビニで買ってきた日本酒をラッパ呑みしながら、携帯電話からこぼれてくる声に意識を傾ける。ふわふわとした、何を考えているのかがわからない声であいつは報告をつづけた。千週だったか。自分が経営する喫茶店の常連である学生が、弟の悩みを解決してやりたくのだが、良案が思いつかないと相談してきたのだそうだ。なんでも、小学生のくせして恋の悩みを抱えているのだという。
健気な兄だと、私は思った。
残業やらで精神的に辟易してきていたところへの一報であり、家族想いな学生のためかと、一肌脱いでやる事にしたのだった。今夜かかってきた電話は、その結果報告だ。妙に律義な奴だと感心しつつ、ごぶごぶと酒を呑み下していく。火照った肌から汗が垂れるが、それを甲で拭うと、先を促した。
「で、結論は」
「上々らしいよ。ぼくも頑張っちゃうぞー、と息まいているそうだよ」
「そりゃあ、上等だね」
空いた瓶を転がして、新しいものを手繰り寄せる。最後にと残しておいた、吟醸酒だった。
「話は変わるけれど、また呑んでるの。肝臓だめにしても、ぼかぁ、知らないよ」
「いいのいいの。私は人一倍、頑丈なんでね」
受話器を持たない左親指と人差し指で、酒瓶の蓋を挟み、ぎん、と外す。勢いで二つに畳まれた蓋が転がされていた空き瓶に当たると、なんとも小気味よい音が部屋に響いた。
「まったく。その底なしぶり、ぼくにも譲ってくれないかなぁ」
「いいよ。今月の売上を全額くれるなら」
「うわ、強欲だ。強欲なオトコがいるよぅ」
さぞ震え上がりましたと言わんばかりの声に、私は笑う。
こいつの間抜けな声を肴に、わざと白く濁らせたという上等な酒を、喉奥へ押し込んだ。
大河原早紀といえば、この近所で知らない者など一人もいない。
右を向けば、火事でとり残された子供を救出。左を向けば、足を挫いた年寄りを背負って家まで運んだ。そんな武勇伝が知れ渡っていて、彼女のお世話になったことがない人は引っ越してきたばかりの人間くらいのものと断言されている。時たまに、新鮮な野菜をもらって帰宅する姿も見受けられる。
誰よりも漢らしい漢。なんて囁かれることも珍しくはない。
男女と悪口を言われても、気にしない。むしろ誇りにしてさえいる。
彼女は、この辺りの地区を担当する交通課の婦警で、取り締まり中にできた空き時間を付近の住民との雑談に講じるといった一面をもつ。だからか、学校帰りの小学生らが彼女の後姿を見つけようなら、突撃していっては相手をしてもらいに行く。なによりも美人だ。
口ではあれこれと悪さをする連中はもちろん、夜の公道を改造バイクで轟かすヤンキーですら、なんだかんだと言ってはみせても彼女に悪さを働いたりはしない。どうにも尊敬してしまっているらしいのだ。一度だけ自室の窓から見えただけなのだが、凄まじい速度で駆け抜けていくバイクを目撃した事があった。これに何秒か遅れるかたちでバイクが追走していった。後日、例のバイクと思しきものを彼女が手押しする姿を見かけた。事情を訊いてみれば、レースに勝てばもう公道を走ったりはしないという約束を交わしたからだとう言うのだ。事実、安眠を妨害されることがなくなった。
スーパーウーマンとでも呼んだほうがいい。それが、この近所で共通される認識である。
誰もが助けられ、誰もが一度は姐御と呼びたくなるような、綺麗な女性。それが、大河原早紀だ。
かくいう俺も彼女に憧れを抱いている。
彼女がまだ婦警でなかった頃のことだ。その頃の俺はまだ小さな子供だった。
引っ越してきたばかりで、友人もなく、土地勘もないままに遊びまわっていたせいで迷子になってしまった。気がつけば、夕暮れもだいぶん沈んできてしまっていて、右も左もわからなくなりつつある時間帯だった。みっともなく泣いた。その泣き声に驚いたのが当時、まだセーラー服を着ていた早紀だった。ただ泣いてばかりで、自分の名前すらも名乗らないガキを相手に根気よく聴きだして、ついには家まで送り届けてくれた。九時を過ぎて、十時にもなろうかという時刻だったと親が教えてくれた。
この時をきっかけに、早紀と俺は仲よくなった。初めての友達だった。
未だにこのネタで脅されるときもありはするが、この日をきっかけに、警察官を志したのだとひっそりと教えてもらってからは、ひそかな自慢だ。また、彼女のメルアドを登録していることも、クラスには秘密にしてはいるがやはり自慢したい。
どんな顔をするかと思うとそうしてしまいたくなってならない。
朝と夕方頃の時間帯に、彼女はミニパトで見回りをする。その時の順路を調べ、登下校時に会えるよう調整している。運さえよければ部活の帰り際にも声をかけてもらえる。
今日もそんな一日だった。
他校との練習試合に参加するためにSCの皆との集合場所へと急いでいたら、早紀から声をかけてもらえたのだ。この日は寝坊してしまったので学校へと続く道ではなく、ショートカットしながら走っていた。当然、彼女のルートに沿ったものではない。そう不思議に思って振り返ってみれば、早紀は私服姿で立っていた。
「あ、早紀ねえ。仕事はどうしたの」
「今日は有給にさせてもらってね。これからダチんところに行くのさ」
「てことは、ユウさんか」
「そ。そのユウさん」
朝っぱらから嫌なものを聞いてしまった。幸先が悪い。
あくまでも親友でしかないと呆れられつつもそうと教えられてはいるが、はたしてそうだろうか。潜在的に淡い感情がないとは否定しきれない。なかったとしても、今度はユウさんがどう思っているのかが余計にわからなくなる。あの人は自分の意見というものを提示する意思がない。
ひらひらと曖昧にされてしまい、殴りかかってやろうかとまで思い至ったものだった。
勝てないが。
俺が黙っていたことをどう考えたのか。武道家にしては細い顎に左手を添えてなにやら思案気だった顔から、突拍子もなく、ショルダーバッグを掛けていない方の肩に肘を置くと、寄りかかってきた。
「どうだい」
「な、なにがだよ。早紀ねえ」
目を細めた。
「なにって。これ以外に、なにかあるのかい」
楽しそうに赤い唇の両端を釣り上げて、右の手を、シャツから覗く鎖骨から胸元、腹へと滑り落とす。人によっては無骨な印象を抱くやもしれない筋肉質な体は、その考えに反して、均整がとれている。武道家の鎧のようなそれではない。獣がもつ、柔軟そのものといった肉つきだ。
この人は、気紛れに、どこか無防備な顔で、こちらをからかいにくる。
噂だが、発情したどこぞの男が襲いかかったらしいが、見るも無残な目にあったと聞く。
「もう、時間だから。じゃあな、早紀ねえ」
「おぉっと、悪かったね。負けるんじゃないよ、ケンジ」
生唾を飲み込む音が、皆と合流した後になっても、深く、耳に残った。
今回の相手チーム内でもっとも厄介なのが、宮島謙治なのだそうだ。
昨年にレギュラー入りを果たしてからというもの、零対一の辛勝で彼のチームが優勝できはしたが、その後に行われた練習試合ではゲーム終盤に宮島謙治が決めたシュートによって逆転勝ちをされてしまった。これを機に、彼の所属するチームは練習の度合いを密に固めていった。
彼にだけ渡すのもどうかと思われて、他の人たち分のレモンの蜂蜜漬けを持っていったときにそのような事を教えてもらえた。それからというもの、彼の機嫌は見るからに悪化した。その日、急用で応援に行けなかったのだが、宮島謙治がシュートを決められた要因というのが、彼からボールを奪ってからだと言うのだ。どうりで試合のことを詳しく教えてもらえないものだと不満に思っていた感情が解消したこそいいが、今度は、彼のワンマン化が目立つようになった。
監督やチームメイトたちが諫めてはいるのだが、効果はかんばしくない。
私からも、どうにかできないかと頑張ってはみたのだが、返って、殻に閉じ籠らせてしまった。
一度だけぽつり、とメールで心を開いてくれたことがある。くやしい、と一言だけが表記された、寂しい内容だった。何度か応援する言葉を載せた返信メールを送ってはみたのだが、応えはなかった。
最近、彼とは疎遠な状態がつづいている。
私と彼は、いわゆる恋人関係にある。幼馴染というものでもある。
中学に進学した春を機に告白され、下校時にお互いの手をつなぎあわせて帰るようになった。
まんざらではなかった。
けれども、こうも冷たくされていると悲しいものがある。ひどい時には別れようかとまで考える自分がいて、それに驚いて、これに、どこか納得するかのような自分がいた事にまた驚くという毎日だった。でも見捨てられない自分がいて安心する自分がいた事にも驚いた。そのときに、あぁ、自分はまだ彼のことが好きなんだなぁと思ったものだ。
だからチームメイトや友達に言われても、彼と一緒に帰ることを、まだやめていない。
私たちが通う中学校の閉門時刻は八時までとなっている。この時間を迎える頃に、彼は器具を片づけると高速道路の下にある空き地で練習を再開する。二リットル入りのペットボトルを二本から三本は空けるまで練習を中止しようとはしない。この空き地の周辺に街頭が少なく、ただ一度だけ帰れと言ってくれた彼が、いるのなら持てと言って渡してきた懐中電灯を両手で支えながら練習を終えるのを待つ一日を、毎日ようにつづけている。
とはいえ体を台無しにしてしまいたいわけでないらしく、必ず週に一度は簡単なストレッチやランニングで済ませるようにしていた。そういった日に私は図書館に借りた本を返してに行ったりして体を休めるようにしている。早朝トレーニングにも顔を出しているので、授業中に睡魔で闘うのに必死になって、勉強にならない日がつづいたからだ。
私が諦めないと知った彼が誰に言われるでもなく、自主的にそう宣言してきたおかげだった。
夜中、ごめん、ありがとう、と短い文章だったけれども、もう一度、心を開き直してくれた。
その晩、私は泣いた。
彼のワンマンプレイは、まだまだ駆け足気味ではある。でも、周りが見えなくなっているようなことだけはなくなってきた。監督やチームメイトから、女房だのと呼ばれるようになってしまっていた。恥ずかしいし困るのでやめてほしいのだが、一向にとりやめてもらえる気配がない。
特に、友達や家族の前でそう言うことをやめてほしい。夕食のときに根掘り葉掘り問われるので困るのだ。なんと返せばいいのかがわからないし、彼のことを自分の口で伝えるというのも恥ずかしい。
そうした紆余曲折を経て、今年の地区大会を無事に迎え、私は応援に来ている。
彼の頑張りが報われることを祈って、席に腰を下ろしてしばらくすると、ホイッスルの甲高い音が辺りに響いた。試合の始まりだ。
熊野栞は、施設の常連であり、彼とワタシの常連でもある。
出会いは、彼が施設の中庭で日向ぼっこをしながら昼寝をしていたときのことだった。そうしていると小さな子供たちが親の手を引いたりしてワタシたちの方へと集まってくる。皆、興味津津なご様子だった。彼が気にしていないことを知ると親たちは一様に安心したような顔で、子供たちを見守るだけとなる。そのほうがワタシたちとしても都合がよかった。
些細な噂話を彼女たちは教えてくれるし、子供たちの遊びのなかにも情報の欠片が混じっているという場合も少ない。事実、そういった無関心な人間ほどその手の話を入手していたりするものだからだ。
警戒心がないという反面に、無知が過ぎるとワタシたちは顔をしかめもするが、時代の関係なのだと諦めるよりほかにない。信心は年を一つ重ねるたびに失われていっている。小勢がなにを発しても大勢の意見を覆させるというのは至難の業だ。すくなくとも、ワタシにその様な能はない。
その日も、ワタシは彼の膝で丸くなっていた。
彼女、熊野栞が声をかけたのはワタシを撫でたいという誘惑に誘われたからでなく、彼が珍しく図書館という場所から借りてきた、これまた難しい言い回しで書かれた文献書の山を見たからであった。どうにも彼女が言うのは、前々から興味をもっていた本を借りてみようと思い立って赴いてみたらすでに貸し出されていたので別のものを借りて出たら、あろうことか、自分の借りようと思っていた本を読んでいる男性がいるではないか。しかも山のように本をベンチに積み重ねているとくれば、きっと専門家なのだろうと考えて、声をかけたそうだ。
なんともまぁ、勉強熱心な子だと、感心してしまった。
彼にしても似たような思いだったらしく、珍しく、言葉を次から次へと紡いでいった。
現地での友人を作るのもワタシたちの仕事の性質上、欠かすわけにはいかないから、不満はない。
ただ、気になることが一つだけあった。
ある日のことだ。彼女に頭から背中へと撫でられていたときの事だった。
街路樹の影から覗く、さも血の涙を流さんばかりにこちらを凝視する、彼女と同い年くらいの男の子がいた。もしかすると彼氏ではないだろうか。以前、雑談の一つとして彼女がそのようなことを明かしてくれたことがあった事を、ワタシは覚えている。そのまま二、三分ほど立ち尽くしていたかと思うと、ふらふらりと、申し訳なく感じられるほどに憔悴しきった顔のままどこかへと去っていってしまった。彼にはそれとなく図書館に寄ることを控えさせてからはというもの、熊野栞と会っていない。
彼氏との仲を復縁できたろうか。濡れ衣とはいえ、罪悪を感じてならない日々がつづいている。
彼は、彼女との雑談に講じれなくなってからというもの、ふてくされてしまった。
わかっているのだろうか。否、わかっていない。
体ばかりが立派な、子供なのだ。下手をすると、ワタシよりも世渡りがずっと、下手くそだ。
無言を貫き通す彼は、夏の日差しを遮る枝葉の影で新聞の、ある一文を読んでいる。
“オーパーツの発見”
“未知の古代文明の発掘への手掛かりか”
“某海洋大学研究所に通う研究生、世紀の手柄か”
などといった太字が所狭しと踊り、週刊誌やスポーツ紙ともなると、無責任な発言が目立った。
「警戒がいるな」
――当たり前よ――
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『狼と香辛料』『マグダラで眠れ』を執筆なされた支倉凍砂先生の言です。
電撃文庫に挟まれているチラシでのものですが、このような事を言っていました。
「知り合いを六人まで辿れば世界中の人間とつながれる」という説があるのだと。
実際には不備の多い説だそうですが、これはこれで、面白い考えですよね。