act 2-akira 罪悪の行方
act 2-akira 罪悪の行方
塩先生は相当、他の先生とは考え方が逸脱している。保健室で俺、夕張、生地のようなクラスに溶け込めない生徒を積極的に教えてくれる。普通ならばクラスに戻るように喧しく言うのが一般的な先生の仕事だ。
今だって夕暮れ時、スーツの似合わない塩先生が緑色の丸い飴を舐めている。赤い舌が忙しく動いている。丸い飴を支える棒から塩せんせの涎が流れて、手に垂れていた。塩ちゃん、可愛いと俺は素直に塩先生を見つめた。
今なら、塩せんせは飴に夢中だから、手を繋いでも大丈夫だ。そんな考えが浮かび上がった。咄嗟に手を握り締めても、塩せんせなら許してくれる。気が軽かった。まるで自分の一部に触れるように俺は塩せんせの小指を自分の小指と絡めた。
塩せんせは俺を一瞥すると、自分が舐めているのと同じ緑色の飴を取りだした。
「あ、あり、あり、ありがとう」
「まるで昔の私みたいですね。可愛いです、章ちゃん」
「年上キラー章ちゃんの誕生だね。章ちゃんにお持ち帰りされちゃうよ?」
はしゃぐ夕張は俺が冗談のつもりで購入しろと言ったコンビニの夕張メロン味のクッキーを美味しそうに食べていた。俺が怒って、走り去る夕張を追いかけようとすると塩せんせの小指が俺の小指を手繰り寄せた。
「喧嘩はめっですよ。そ、そ、それに頑張っている子になら、せんせ、い、い、いいかもですよ。今の章君、かっこいいもの」
という言葉が耳からすっと入り込んで反対側の耳へと逃げていった。冗談に決まっていると動揺を隠そうとするが、心臓の鼓動は早まる。それを楽しんで眺めていた夕張がクッキーを口に咥えたまま、手を振った。サンタクロースの帽子を被った笑顔の夕張は和菓子屋 夕張へと消えていった。名前から察するにそこが夕張の自宅らしい。
「季節外れのサンタクロースの発言はともかく、お似合いだぞ」
「生地。お前でも冗談は言うんだな?」
「冗談じゃない。兄と妹という家族の関係は素晴らしいなと脳内考察をしていたのだよ。ああ、飴を舐める聡明な妹! 飴を恵んで貰う駄目な兄。なんて、絵になる家族愛。それを冗談にする? そっちこそ、冗談」
暗い顔をして普段、本ばかり読んでいる生地が力説しているのを俺は受け止められなかった。ただ、固まり、話が終わるのをじっと、待つ。
「ええ。ご協力有り難うございます。ええ、大いに役立ちましたよ。残念ですよね、あのパソコンショップ、よく利用させて貰っていたんですよ」
西肩バス停の待合ベンチに座っているお洒落な指輪を幾つも填めているご婦人に向かってそう言い、愛想笑いしている兄貴を見つけると俺は興味に惹かれて駆け寄った。
「兄貴、何か? 事件の聞き込み?」
野次馬の定番の言葉を俺は嬉々として兄貴にぶつけた。
「生地君? 御免、まだ犯人を捕まえられないんだ」
「別に。まみを殺した奴を殺しても、まみは戻ってこない」
まみという人物が生地にとってどんな存在かは知らないが、生地は意気消沈している兄貴の目を見ようともせずにずっと、コンクリートを見つめていた。
塩せんせの小指に力が加わるのを俺は感じた。せんせは何かを知っている。
「こんにちは、お兄様。いつかは子ども扱いして下さり、ありがとうございます」
突然の先生の言葉に躊躇した兄貴だが、咳き込むと優雅に喋り始める。
「砂糖塩。あれから君を個人的に調べさせて貰ったよ。著名人を多く輩出している砂塾の塾生だったらしな。今はボランティアで休日は砂塾の講師をやっている」
「よくご存じですね」
「こんな事も知っているぞ。日本では教師として新米の一年生だが、お前の実力はただの一年じゃあない。研修で自殺をしようとした生徒を寸前で止めて、更正させたとか。その生徒はその後、今をときめくアイドル、歌穂だとか」
「せんせ、そんな凄い人を救ったんですか。尊敬できるな」
と俺は塩せんせに笑いかけようとしたが、受け入れてくれるような顔をしていなかった。明らかに嫌悪していた。兄貴の人を小馬鹿にした口調に怒っているのだろう。
「私はすずめを見たんだ、とそのアイドルは雑誌のインタビューで言ったとか」
「すずめですか? 見えますよ、貴方の肩にも」
塩せんせは憐れみを含んだ声で俺の肩の上空で撫でる真似をした。そこに塩せんせの言うすずめの頭部があると言うのだろう。
「やっぱり、そうか。噂で砂塾がオカルト集団とか。人間の肩には一羽のすずめが止まり木にしていて、そのすずめが見える人間は何かを成し遂げる人間になるという信仰があるとか」
「信じない人間に何を言っても無理でしょう。その事については敢えて言いません」
「そうはいかないな。そんな不思議系教師に俺の弟を任せられるか。弟をまともな人間にしてくれる教師でなければならないんだ」
まともな人間だって! まともって何だ? まともになれば、幸福になれるのか? 訳の解らない怠さから逃れられるのか! 毎日、毎日、同じことをして引き籠もっていた俺をそこから抜け出させてくれたのは塩せんせだ! お前なんかに解るものか!
そんな情念が溢れ出しそうになった。俺は兄貴を殴ろうと拳を固める。塩せんせの小指が掌に触れる。塩せんせがめっと言っている気がした。
「兄貴。塩せんせを悪く言わないでくれるか。とても、良いせんせなんだ」
相手が癪に障るように塩せんせを自分の方へと寄せた。ツインテールが脇に触れた。そのツインテールを生み出している髪の一房、一房を撫でた。
「保健室に生徒をいさせる先生が、良い教師か。後悔するぞ、章」と余裕のある笑みを浮かべた。「俺、遅いから冷蔵庫に入っているもので適当に作って食べてくれ。ついでに俺の分も作ってくれると嬉しいなぁ」
「悪いけど、兄貴。今日、テスト返ってきたから、あいつらに見せに行くよ」
咄嗟に俺はそう言った。本当はそうする予定なんてこれっぽっちもなかった。行かなかったとしても、後で母さんから俺を心配する、いや、普通になれる可能性を持った俺を心配する母さんから電話が掛かってくるだけだ。
「止めておけ」
前言撤回だ。この普通野郎!
殴りたいけど、殴れない。塩せんせの髪から伝わってくる熱がある限り。
「大丈夫ですよ、お兄様。頑張りましたから」
塩せんせが意図も簡単にそう言った。心に降り積もっていた怒りがまるでせんせの今日はおしまいですという言葉を聞いたように解散していく。魔法だ。
塩せんせは俺にテストを頑張ったご褒美と言って、ポケットに入っていた残りの飴をくれた。それを俺と生地の二人で必死に舐めている。何でこんなにも寡黙に舐め続けるのか、自分でも解らないのだがこれ以外、今はする事はなかった。
電車の走行音が暢気に響く。田舎仕様の電車はとても遅い。早く走ると危ないのだろう。左側は山肌にネットが掛かっているだけの状態、右側は海。
早く修然駅に着いてくれよなぁ、と思って溜息を吐いた。その溜息に反応したのだろう、生地が首を上げる。
「お前、兄さんに愛されているね。全く、羨ましいものだ」
と唐突に言った。
「羨ましいのは俺の台詞だよ、生地」
生地の方が羨ましい。それどころか、俺は生地になりたい。飴を舐めているのに生地の人形みたいな完璧な顔は崩れない。余分のない肉の顎が飴を舐める都度に微かに動く。眼鏡の奥にある眼光は飴ではなく、飴の中にある世界を分析しようとしているのではないだろうか。
俺は自分の舐めている飴を眺める。何の変哲もない緑色だ。濁りのない面白み無しの色だ。
「お前に為になる事を教えてやる。消えてしまってから愛に気が付くことだってあるんだよ」
さり気なく、生地が言った言葉は俺の思考に入り込んで、生地と別れた後も離れようとはしなかった。
修然駅から徒歩三十分、俺が厄介になっている兄貴の新居とは別方向に実家は在る。そこへ近づく度に生地の消えてしまった愛に、というフレーズが俺を苛立たせた。初めから愛を与えてくれなかった父親ならどうなのだろうか?
あ、なんだ、いたのか、章といった具合に、自分を幽霊のように扱う父親。
やはり、ないと思っていた愛に突然、気付くという事があるのだろうか? ない、ある、ない、あるの堂々巡りする考えに晒されながらも、俺は実家の門の前に辿り着いていた。
塀から飛び出しそうな木々がざわざわと騒ぎ立てる。その音に耳を集中させて、門に備えられているインターホンに手を置く。だが、インターホンを押せなかった。
はしゃぐ葉と葉の戯れ音に早くしろ、早くしろと選択を急がされている思いがした。表札に刻まれた字、楚質という文字が重々しく感じる。
数分間、迷ったあげく、インターホンを押すとわざとらしい明るい家政婦の声が聞こえた。その家政婦の案内(と言っても実家なのだから必要はないのだが……)でひんやりとした廊下の感触を感じつつ、書斎へと歩む。廊下からは庭が見えて、俺の大嫌いな盆栽が庭を埋め尽くしている。この家があるのも盆栽をやれるだけの広大な庭が欲しいという建設会社の社長である父親の希望によって建てられたものだ。
だから、嫌いだった。それだけの理由なのに嫌いだ。
襖を開けようとする俺を家政婦は制しようとするが、構わず開けた。
電話を握って誰かと話しながら、建築予定の見取り図に目を通している。座っている事はなく、常に同時に仕事をこなすのが楚質相得のやり方だ。
それを目の当たりにしただけで息が詰まりそうだった。物音を立てて入ったというのにこちらを確認しようともしない。どうやら、あの台詞が聞けそうだと皮肉の笑みを隠そうともせずに、俺は二人掛けソファの真ん中に腰を下ろした。
しばらくすると、相得は電話の相手に一喝を入れた後、電話を切った。ようやく、あの台詞が聞けるらしい。
相手の顔を見ずにそっぽを向いたまま、ぼそっと言う。
「あ、なんだ、いたのか、章」
口を少し開いて、厳しい目というあべこべな表情はとても、一代で財を成した人間には見えない。
「成績に関する事だけは知らせるようにあんたが俺に言っただろう? 家を出て行く前に」
「そうだったな。優先順位としては下位だから、すっかり忘れていたよ。仕方ない、見てやろうどれ?」
挑発にも似た口調に相手もせずにただ、相得は手を伸ばした。その手にはペンだこがあった。俺はそのペンだこを潰して、血が吹き出るようにと呪いを付与しながらテストの答案用紙を手渡した。今日、返ってきたのは英語だけだった。これは一番自信があった。
塩せんせの特製プリントのおかげで結構、レベルアップしたんだ。そのプリントは塩せんせが手書きで原書を制作し、プリントアウト後に保健室の廊下に設置された机の上に置かれたプリントだった。しかも律儀にも全学年分のプリントが用意されてある。プリント内で現実でも小さい塩せんせがさらに小さく描かれた園児服姿でアドバイスをくれる仕様だ。
相得のお前も並み程度にはなったなという言葉が出るのを待った。
丁度、二人分のお茶を持ってきた母さん、楚質華もお茶を湯飲みに注ぎながら、相得の唇を盗み見ていた。
分厚い唇は動かずに俺の胸にテストの答案を突き返した。
「駄目だ。六十五点? 何でスペルを間違えるような単純なミスをする? やっぱりお前は脳なしだな」
そう言って相得はまた、受話器を手にしようとする。相得の背中に華が言葉を浴びせる。いつも、相得のいいなりの母はあの事実を隠すのに必死らしい。俺にはあの会話から何となく察しが付いているのに。
「貴方、止めて下さい! 章だって努力をしているんですよ」
違う、あんたは母さんじゃない。母さんのお面を被って演じているだけだ。
「違うわ、章は他の子とは違うんです。脳の出来が違うから、幾ら努力したって忍のようにはなれないんです。私達にできる事は」
という言葉が脳内で再生されて、自分の血が眼球にこびり付いている妄想を心に掻き乱させた。
襖の枠を力強く掴んでいた。それをそのまま、右へと突っぱねる。 逃げ道が光、射した。その光は何の変哲もない太陽の陽だというのに俺はそれしかないようにそこへと一歩、踏み込んだ。その光が射す廊下を駆け足で通り過ぎた。
しばらくして、国道沿いに出た。息が苦しかった。自分の口から大量の二酸化炭素が溢れ出しているのにふと、気が付いた。とにかく、喉が渇いていた。
そうだ、ジュースを飲もう。
歩こうとした。現実の世界を、いつも見ている世界を歩こうとした。そのはずなのに歪んで見えた。
前を歩いている犬を連れた女性が歪んで見える。犬の忙しなく動く尻尾が回転しているように見えて目を擦った。けれども、まだ回転していた。そんな訳がないと深呼吸してから、他の物を見ようとした。目を移す。空気が歪んでいるのに気付いた。いや、この歪みこそが空気の動きなのかもしれない。
気分が悪くなってきた。今すぐ、吐きたい。吐いても自分が自分である事に変わりはないのに吐きたかった。今は吐くだけで小さな幸福が掴める。普通の幸福を掴めない俺にはそれさえ愛おしい。
空気を吸う。
「はい、エチケット袋ですよ」
という言葉に驚いて、振り返ると塩せんせが殻のリュックサックを広げて待ち構えていた。塩せんせの足元には林檎や蜜柑が転がっていた。おそらく、今持っているリュックサックの中身がそれだったのだろう。俺はリュックサックに林檎と蜜柑を詰め直そうと手を伸ばす。
「それエチケット袋じゃなくて、リュックサックじゃあ」
と言って笑おうとした。その時、急に腹の底から込み上げてくる感触を覚えた。俺は思わず、リュックサックを掴む。そして、勢いよく吐いた。
自分が蛇口の壊れた水道のように思えた。完全に消化しきれなかった赤い色を残している人参がリュックサックの底に沈んでいく。その後からも細かく砕かれた米粒が無数に口から飛び出してきた。
嘔吐による一種の開放感を感じながら、温かい手が何度も背中を往復しているのを嬉しく感じた。
俺は飛び交うカラスを見上げていた。あいつらには偏見という感情はないのだろうか? カァ、と一声鳴いて羽根を広げ、他の仲間のいる電線へと向かう。もし、偏見がないのだとしたら、俺は鳥に生まれたかった。人間世界から逃げたかった。
お前、兄さんに愛されているね。全く、羨ましいものだという生地の言葉が胸に突っかかる。全て、吐き出したというのに……。自分に皮肉を込めた微笑みを浮かべて、ベンチにもたれ掛かった。ベンチの前にあるバス停を見つめる。まだ、バスは来る気配もなく、ベンチに座っているのは俺だけだった。バスに乗る訳でもないのに座っているのが心苦しい。
「気分がよくなりましたか?」
丁度、塩せんせはまだ、か? と腰を浮かそうとした時に優しい声を俺に投げかけてくれた。もう、悪臭を放っていたリュックサックはなく、スーパーの手提げ袋を提げていた。
「すみません。あのリュックサック、後で同じの買って弁償しますよ」
「いいんですよ。あれは世界で一つしかないので。それにその子もこのような使われ方をされるのでしたら許してくれます」
ベンチの上に置いてある林檎と蜜柑をスーパーの袋に詰めながら塩せんせはさり気なく言った。まるで本当に気にしていないかのように。気にしていないはずがないと思って俺はもう一度、真意を聞く。
「ゲロ塗れにされても」と言葉を言い切ろうとした。言葉が止まった。塩せんせと目が合った。顔には天真爛漫な笑顔が在るだけで悪意なんか無かった。それを読み取るのは簡単だった。微風が塩せんせの柔らかそうな髪を揺らしていた。その髪から漂う甘い香りで自分のすべき事を思い出した。「ですか?」
とやっと、言葉を言い切った。
「ああ、あ。脳みそ、腐ってんの、と言われますけど、言葉がきついだけですから」
確かにああ、あ。脳みそ、腐ってんのという塩せんせの真似言葉は今時の女子高生のようで感情剥き出しだった。嫌悪という感情で。だが、塩せんせが言うとお飯事をしている女児にしか見えなかった。実際、その嫌悪は真似なのだから誰に向けられたものでもない。それが解るほど、塩せんせは感情を表に出してばかりいる。
今だって、俺の顔色を食い入るように見ては首を捻ったり、顎に手を添えたり、その場で足踏みをしたりと何か企んでいるのが解る。
「せんせ、何があったか? は聞きませんよ。けど、お話する気になったら全力で一緒に問題解決する気です」
「塩せんせになら、御願いしたいです」と言って立ち上がろうとしたが、自分の意図したようには足に力が入らない。思わず、ふらついた。「せんせ、気持ち悪いです」
気分の悪さもぶり返してきた。塩せんせが来て安心したら、この様だ。
「せんせ、が気持ち悪い? 失礼な。これでも近所の年上の男性からしおたんって親しみを込めて呼んでもらっていまして、お土産もたまに頂きますしているんですよ。この前なんか、私そっくりのお人形を頂きました」
「せんせ、意味……違うから。せんせ、そいつらにはロリ的な目的があります」
「知ってました」
塩せんせは舌で唇を舐めた。
「どっちを」
「秘密です」と言って、塩せんせらしい細い線の顎に小指を当てた。「困りましたね、うち、近くなんです。休んでいきますか?」
言葉には淀みなく、困っていないように思えた。何処までも真っ直ぐな人間なのだろう。羨ましかった。素直に俺を頷かせる全身から溢れるやんわりとした佇まいが羨ましい。
「俺もなれるかな、せんせみたいになれるかな? 生徒を本当に思いやる事のできる人間になれるかな……」
「なれるかな? 現実はつらいぞ」と言った塩せんせの表情は一瞬、憂いに満ちていた。すぐにあどけない笑顔を取り戻す。「うん、つらいぞ」
その噛み締めるように言った言葉はどんな言葉よりも重く思えた。今の十代の俺には理解できない。理解できるにはせんせのように後十年くらい、生を彷徨う事が必要なのだろうか。
薄く引かれた紅いルージュが微かに動いた。違うよと言っているように皺を作っていた。 多分、違うんだ。いつか、答えが欲しい。
「せんせ? 肩にすずめが」
せんせの両肩にいつの間にか、二羽のすずめが乗っかっていた。目が痛くなる程、見開いて見てもやはり、二羽のすずめだ。
「君の言葉は嘘じゃないんだね。紹介するよ、ちびかと、すずめだよ」
「宜しく、お馬鹿な学生さん」と高校生くらいの女の子の声。「こんにちは、塩ちゃんの教え子さん。昔の塩ちゃんにそっくりだ」と高校生くらいの男の子の声。
ちびかとすずめは口々にそう言った。
これがせんせの言った幸福を糧にして生きるすずめ達だと自分を納得させるのに夢中でバス亭に着いたバスが扉を開いて、
「お客さん、乗らないの? 乗らないんだね」
とバスの運転手が声を掛けてくれていたのを知らなかった。後で塩せんせとの会話で話題に上がった事から初めて、そうだったのかと確認した。
心地の良い包みに身を預けながら、俺は考えていた。もし、塩せんせみたいに聡明で何事にも動じない人間だったら、笑って済ませていたかも知れない。
普通という概念なんて……。
でも、受験に向けて必死に頑張っていたあの時も今だって、その概念をはね除けられなかった。でも、俺は頑張ったんだ。時間は戻せない。だが、戻る事が多々ある。大抵、それは悪夢と呼ばれる存在となって戻ってくる。今、いるのはそこなんだ。
暗い部屋の中、オレンジ色の灯りだけを頼りにして、机に向かっている。テキストはもう、注意書きで真っ赤になっていた。こんな筈ではなかったんだと何度も髪を掻き毟る。指先に付着した髪の油を見つめては溜息を吐く。幾ら、繰り返しても知識は頭から擦り抜けていった。最初は暗記すれば、何とかなると思っていた。だが、暗記した内容は一週間程で綺麗さっぱり消えた。今度こそはと、赤ペンで教師になったようにアドバイスをテキストに書き込むことにした。でも、駄目だ。
「やっぱり、俺は駄目。駄目なんだ。何をやったって。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。馬鹿野郎、馬鹿野郎。どうして、どうして」
掌に巻かれた真新しい包帯が憎たらしかった。それは情けない自分への憤りだったから。
こんな日が何日も続いた事を俺は知っているから発狂せずに見ていられる。知らなかった頃はまるで自分が果てしない荒野を何の目印無しに歩き続けているようだった。
テキストを広げてノートに数式を記入していく。できる、できないではなく、もうがむしゃらだった。憤りが心に溢れてくるが、無視した。書いた、とにかく書いた。でも、結果は変わらず、途中計算の間違いなどの単純なミスをする。
駄目か、と溜息を吐いた時、扉が開いて誰かが入ってくる気配を感じた。急いで振り返ると、見知らぬ少女が教科書を持って立ち尽くしていた。その少女は同年代ではなく、四歳くらい年下に見えた。白いリボンと黒いリボンで整えられたツインテール、ぱっちりとした瞳、柔らかそうな頬が印象的な少女は微笑んだ。
「どうしたんですか? 解らない? でも、無理に理解しなくても良いんですよ。理解しようって思い詰めると頭がパンクしちゃいます。リラックスしてゆっくりと。大丈夫、今の君には塩せんせがいます」
そうか、塩せんせがいるんだ。
そう理解した。だから、夢の中の俺も塩せんせを頼って、自分と闘う。
目をゆっくりと開いた。それと同時に自分の状況に戸惑いを覚えながらも、きりんの絵柄のタオルケットの柔らかさとそのタオルケットに染みこんでいる塩せんせの匂いを受け入れた。夢での願望の記憶が薄れていく代わりに現実の記憶が現実はここだと知らせる。
塩せんせの家は一軒家の古びた日本家屋だった。玄関の木の扉が立て付けが悪く、扉を閉じても隙間が少し空いていた。
「こんな家でも夢だったんですよ。お母さんと一緒に一軒家に住むって。でも、長年の無理が祟って今はお空の上です」
何故、塩せんせが自分に語ってくれたのかは理解できなかった。だけど、両親がいるのに仲良くできない自分が哀しかった。
居間に通されて、テレビを観ているうちに寝てしまったようだ。テレビから流れていた動物のハプニング映像集のナレーターの甲高い声が耳に残っている。きっと、その後にタオルケットを塩せんせが掛けてくれたに違いない。
タオルケットを丁寧に畳んで座布団の上に置いた。置いた時に初めて、タオルケットに名前が書かれていたのに気が付いた。いちねんにくみ さとうしおとまだ、拙い字で書かれていた。
「人には歴史があるんだな」
と自然に口から言葉が溢れた。自分も塩せんせ史にきっと、登場しているだろう。どのような評価が塩せんせ史において自分に下されるのだろうか。どうしようもなく、塩せんせの大切な存在になりたい自分がいるのに絶望した。
「相手にされるわけないよ」
慰める度に強引でも良いから、塩せんせの身体と心を奪いたかった。そう思い至った瞬間、その考えは冷えていった。それが人間の理性だろう。
塩せんせの声が何処からか、聞こえてくる。塩せんせ以外にもう一人の声が聞こえた。まずいと感じながらも、聞き耳を立てた。
「脳みそ、腐ってんの? もしもし、頭も幼女なんですか?」
「幼女じゃないですよ。身体的特徴言われるのは癪です。それに襲う、だなんて章君はそんな狼さんな生徒さんではありません。私に似た迷える羊さんです」
「さっき、こっそり観てきたんですけど、あいつ、美少年だね」
どうやら、塩せんせと会話をしているのは性格の悪い少女のようだ。だが、塩せんせの例もあるので少女か、どうかは定かではない。
「こら、あいつって言っちゃいけません。貴女よりも年上ですよ。そういえば、今年は受験でしょう。確か公立を受けてるんだよね」
俺は暗闇の中でデジタル時計を見つけると、現在の時刻を読み取った。午後八時という事は学生には遅い時間だ。察するに塩せんせとは親しい間柄なのだろう。
そうであれば、もっと、聞きたいと思うのが恋する少年心だ。だが、物音が一音も聞こえてこない。
諦めて、塩せんせにお礼を言ってから帰ろうと思った。俺は腰を軽く叩きながら、慣れない場所で寝た事によって起こった筋肉の硬直を解す。これで解れるのか、どうかは解らないが。
ひそひそと泣く声が聞こえた。それは俺が立ち上がって、大きな穴が開いた襖に視線を送った時だった。ひそひそと泣く声が叫びにも似た泣き声に変わった。慟哭という単語がこんなにもすっかりと馴染んでしまう声を聞いたことがなかった。それを聞いているだけで罪悪感を覚えた。
「受験、辞めたんだ、あたし。九年前にあたしの父親が蒸発して遺体が発見されて以来、あたしの母親は前以上に心を壊しちゃってついに蒸発しちゃった」
震えながらも紡ぎ出される声に俺の心臓は場違いな早鐘を打つ。人が死ぬ……。テレビや漫画、アニメだけの世界だと考えていた。身近に死があるなんて。自分の自傷行為をした過去が急に羞恥に色褪せた。
「どうして子どもは両親を選べないんだろうね。こんなに痛いのなら、いっそう産まれて来なければ良かったよ……」
(俺の悩みはこの子に比べてなんて、甘い悩みなんだろう。普通なんて存在しなかったんだ。それは透明だったんだ)
箪笥に寄り掛かり、そのまま、畳へとお尻をつけた。畳の匂いが立ちこめる。懐かしい匂いだ。あの家の匂いがする。俺を兄貴と比べていた頃の一番多く、嗅いでいた匂いだ。それを掻き消すように何度も畳を叩いた。
(でも、この痛みは俺にしか解らないんだ。みんな、悲しみを抱いて生きているんだってことぐらい解っている! でも、結局はそいつにしか解らないじゃないか! 幾ら、解っていても例え、塩せんせだって)
「馬鹿な事を言わないで! 私はあいながこの世に産まれてきてくれて嬉しかった。あいな、受験の時に千羽鶴を折って駆けつけてくれた。ちびかと一緒に。もう、親友なんてできないって思っていたの。だから今度は私が助ける。うちに来なさい、全部面倒を見るよ」
「お姉ちゃん、でも、それは」
今の俺と同じように誰だって塩せんせの偽善さには唖然とする。人間は犬や猫といった動物とは違って、言葉を喋るのだから軋轢を生む可能性がある。
「私は貴女のお姉ちゃんだもの。それに生意気にも私より頭良いんだから、将来を潰させはしないよ」
自分の事ではないのに俺の目からは涙が込み上げてきた。きっと、俺も塩せんせにこうやって救われるのだろう。期待が胸に宿った。
しばらくの沈黙の後に塩せんせと少女の柔和な笑い声が居間まで響いてきた。俺はほっとした。この少女は救われたのだ、苛立つような悩みから。
「んじゃあ、お礼に塩せんせが片思いしている章君と両想いになる手伝いをしてあげる」
塩せんせが俺の事を?
生唾が口内に止め処なく、分泌してくる。まるで塩せんせという存在を欲しているように甘い考えに心は浸食されていく。塩せんせが手に入るかもしれない、と。
「こら! もう貴女はいつも、そうやって調子に乗るんだから」
「可愛いでしょう? あいなだから。でも、すずめ無し君なんでしょう。今にも自殺しても不思議はないのにどうするの?」
(え?)
居間から出ようと襖に手を掛けたまま、俺の動きは止まった。息までも止まりそうだった。少なくとも息苦しい。
「すずめ無し、俺が確か……以前、塩せんせはすずめは人間の笑顔を糧に生きているって。それがいないってどういう」
言葉に出さなければ、発狂してしまいそうだった。ただ、それだけの理由なのに。
開いていた窓から一羽のすずめが飛んできた。塩せんせの肩に止まっていたうちの一羽だ。確か、ちびかだ。
ちびかはこちらを悲しそうな目でじっと見つめている。俺は直ぐさま、そっぽを向いた。
「塩には解っていた。あんたのすずめはずっと前に死んだってこと。もう、出逢った時からいなかった。あんた、このままだと自殺する運命にある。すずめはそれを食い止める役割も担っているの」
ちびかの言葉が全然、理解できない。声帯が痙攣した。何か、反論したかったが、声が出てこない。やっと、発すことができたのは人ならぬ嘆きの叫びだった。
「安心して。それでも塩はきっと、救うから。だって、さっちゃんの言うとおり、あの子は見えるんだから極限の悲しみが」
そんな言葉を冷静に言うなよ、くそ鳥と俺は心中で叫び続ける。
自分が消える。
そんな事あってたまるか! 塩せんせは人間じゃないか、と自分の思い出に在る塩せんせのツインテールを引っ張り続けた。理不尽な怒りだとは理解していた。だけども、ついに爆発してしまった。
俺の指先には見えない塩せんせの髪の毛が絡みついている。塩せんせの痛いと泣き叫ぶ言葉なんか聞いてやらなかった。ただ、偽善ぶりが憎かった。あんなにも好きだったのに嫌いになっていく。どす黒い雲が明日に通じる道を不明瞭にした。
「無責任だな。塩せんせは何でも叶えてくれる神様だとでも言うのか、くそ鳥!」
「いいえ、違うわ。あの子はあんたよりもずっと、ずっと、弱い人間よ」
今まで塩せんせを見つめてきたから解る。生徒に一人、一人、優しく夏みたいに燦々と輝く笑顔をいつも降り注いでいるではないか、今だって太陽のような光を少女に与えた。なんて慈悲深いんだ。唇の両端が不様にも歪曲した。笑っているのか! 普通以下の俺が。
「嘘だ! 塩せんせがか? あの人、完璧じゃないか。まるでうちの兄みたいな人種だよ。きっと、腹の中では笑っているに違いない」
「もう一度、言ってみなさいよ」
強い語気と一緒に大きく襖が開けられた。ひらひらした赤色の短いスカートからは湿布を貼った膝小僧が見えていてとても印象的だった。細い眉毛に被った前髪の下にある目が俺を威嚇している。顔を真っ赤にさせて、目も充血している。塩せんせと話していた女子中学生だと漠然と思った。
「誰だよ?」
こちらへと向かってくる少女の気迫に押されてそんな間抜けな言葉しか出てこなかった。我ながら情けなくて自嘲した。それが不愉快だったのだろう、少女は一気に俺との距離を詰めると少しの躊躇いも無しに掌を振った。
頬がひりひりとして痛かった。癖のない横髪が腰まで伸びた清純そうな容姿の少女に俺は引っぱたかれた……。かっとなって目には目を、と思ったが廊下の暗闇から悲壮な表情を浮かべ、今にも泣きそうな塩せんせの小さな身体が視界に入り、急に冷静にさせられた。
「陽之櫻あいな。塩せんせの妹。それよりもう一度、言ってみなよ。そんな人に見える? これが!」
あいなの激昂は止まらずに塩せんせの手を無理矢理、引っ張ってその両肩に手を添えて激しく揺らした。揺らされている塩せんせはもう、俺に大丈夫ですよ、と微笑んでくれるわけがない。
唯一の救いを、唯一の抱きしめたい人を否定したんだ、自分自身が。
ラムネを飲み干した後、飲み干す前には欲しかったはずのビー玉はもう、きらきらと人々の笑顔を含んだ光景を映してはくれなかった。そこに在るのはただのビー玉だ。二百円で二十個も購入できてしまうそんなビー玉だ。真ん丸とした二つの黒色のビー玉は無感情だった。
さよなら、塩せんせとは言えずに何処かまだ、縋りたくて貴女だけには愛されたくて叫んだ。
「もう、とにかく俺の事は放っておいて下さい!」
塩せんせの肩を捕まえたままのあいなの側を素早く通り抜けた。二人がどんな表情をしていたのかは解らない。そんなの知る必要がないと決めつけて、靴の踵を踏んづけたまま、走りだした。ここから兄貴の家までの家路が解らなかったが、そんなのどうでも良かった。ただ、塩せんせから逃げたかった。
住宅街ともあって人通りはなかった。時々、車だけが鼻水を垂らしてそのまま、走り続ける俺を笑いものにする為にライトを照らす。笑えばいいんだ。自分から変われる機会を逃したのだから。
喉に胆が絡みついて、息が苦しくなった。電柱に掴まりながら俯いた。唾を吐いて、泣いた。アスファルトには黒い点が増え始めていた。
また、無意味な涙を流しているんだ。引き籠もっていた時と同じように無意味な涙を流しているんだ。あの時は泣かなかったけど、魂が震えていた、孤独の寒さに。
「泣き虫なところも私にそっくりです」
その声の主を捜そうとしたが、安らぎに我を忘れてしまった。望んでいた暖かさ、温かい掌が瞼の下を滑っている。塩せんせは涙を何度も掌で救う。
「何で後を付けて」
塩せんせの素足に目を向けると、小指に硝子の破片が突き刺さっていた。言葉を言い終えるのも忘れて硝子の破片を直ぐさま、抜き取った。塩せんせの痛がる声が聞こえた。それを聞くとどうすればいいのだろうと焦ってしまう。ポケットにハンカチが入っていた事をやっと、思い出すとそれを塩せんせの小指に縛る。白いハンカチがじわじわと赤く染まった。太ももや膝などに赤い発疹があるのにびっくりした。
塩せんせはそんな状態なのに平然ともう、俺に微笑みかけている。
「これですか、大丈夫です。私の持病ですから。もう、何十年も一緒ですから。たまに忘れてしまうんですよ。話してませんでしたっけ?」
確かに以前、処方箋を手にしていた。俺は静かに頷いた。それに対して苦笑して、
「私、章君のこと、ちっとも理解してなかった。御免なさい」
ただでさえ、俺から見て低い位置にある塩せんせの頭が垂れる。
「隠し事されるのは嫌だったよね。ちびかの言うとおりだけど、方法はあるんだ。百パーセント成功するっていう保障がないから隠していたんだ。成功するまでは」
違うんだ、死んでも良いって俺は思っているのに塩せんせに苛ついただけなんだと俺は口にしようとしたが言えなかった。論理的とかそういう以前に矛盾しているから恥ずかしい。それでも言いたかった。
死んだら? 独りだろう? 死んだら? 塩には逢えないという言葉の羅列が塩せんせの身体を抱きしめさせた。できるとは限らないからその時間が存在するとは限らないから。
「御免なさいせんせ。でも、俺は少なくとも、今の俺は死んでもいいって思っているのに。どうしても死ねないんですよ。怖い。死んだらどうなるの、せんせ。俺、怖い」
「解りません。死後の世界にひょっこり、逢いに来てくれて死後の世界はこんなのだよって。教えてくれそうな知り合いがいるのですが、先生がこっちに来れないって事は少なくともこっちと断絶した世界なのでしょう」
「安心して下さい。不安な時は今、みたいに抱きしめて下さい。私じゃあないと駄目ですよ」
塩せんせの唇がワイシャツに触れた。薄いワイシャツから塩せんせのキスが伝わってきた。もう、孤独じゃない。
「はい」