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act 2-shio 努力に微笑むすずめ

act 2-shio 努力に微笑むすずめ


「貴女は誰?」

 感動の再会だったというのに私は五日前にすずめにそんな酷い台詞を吐いた。

 思い出した。私の親友、すずめ。そのすずめとの出逢いを今、夢に見ている。優しくて戻りたい過去、哀しくて戻りたくない過去が混ざり合った世界にただ、私はありがとうと一言、言ってから夢に浸る。

 小さい頃、私には私の味方をいつもしてくれる祖母がいた。けれども、私が間違ったことをするといつも、厳しく叱ってくれる祖母でもあった。私は今も昔も泣き虫だから、どちらの顔をする祖母にも抱きついてわあ、わぁと声を張り上げて泣いたものだった。

 その時、私は人の温もり以外の太陽みたいなぽかぽかを感じていたのを思い出した。あれはなんだったのだろう? 小さな私はただ、その温もりの加護があるのを当たり前だと考えて泣きやんでからもずっと、祖母のエプロンを離さなかった。

 祖母の皺は絞ったタオルの筋のように乱雑に入り乱れていた。その筋の一つ一つが温かい。

「ばっちゃんのエプロン、掴んでいたら夕飯の支度が出来ないよ。そろそろ、離しておくれ。詩温の好きなホットアイスを作ってあげるからね」

「いやぁ、ばっちゃんの方が好きだもん」

 私はいつも、ばっちゃんの気を引くために顔を風船みたいに膨らませてばっちゃんを見上げた。この顔が一番、ばっちゃんのお気に入りだったのを何となく知っていた。多分、ばっちゃんが好きだからだろう。

「おやおや、この子は可愛らしい顔を子豚さんみたいにさせちゃって」

 ばっちゃんの女の子とは思えない荒れた手が私の頬を優しく押した。ばっちゃんが頬を押さえたと同時に空気を少しずつ抜いていった。そして、わざとらしく笑った。今では照れてできない。それは今の私には壁があるからだ。その壁は常に私の周囲を囲んでがんじがらめにする。

 成長した高校生の私が普通、そんなことするはずがないし……。そう考えるとそれ以上進めなくなっていた。

「違うよ。私、ばっちゃんの世界で一番可愛い孫の砂糖塩ちゃんだよ」

 なんて、可愛らしい、憎たらしい、世間知らずな台詞だ。まだ、この世に自分が在るなんていうのを当たり前と思っていた愚かな幼稚園児、砂糖塩にタイムマシンが在ったら伝えに行くだろう。

 ばっちゃんを大切にしなさい。何せ、貴女と過ごせるのは小学一年生の入学式までなんだよ、と。

 意識的ではない無邪気な頃が終わったのは小学校の入学式が終わって、家に帰った日だった。両親が共働きで二人とも入学式には出席できなかった代わりにばっちゃんが出席してくれた。私はばっちゃんとスーパーに寄って、ドーナツを買って貰った。とても、嬉しくてばっちゃんに手を引かれていても絶えず、飛び跳ね回っていた。上を向いて雲と青い空を見ているだけでうきうきした。

 ばっちゃんが扉を開けると、私はその隙間から玄関に入り、靴を脱ぎ捨てた。早く、ドーナツが食べたくて唾液が口の中に溜まっていて、唾液を飲み込んだのを覚えている。

「詩温。ばっちゃん、これからちょっと出掛けてくるけど、もういつも見たいに泣いちゃ駄目だよ」

「うん」と私は頷いたが、意味のない返事だった。「ばっちゃん。それよりも塩ちゃん、ドーナツ食べたいの。食べていい?」

「食べた後、歯を磨くんだよ。虫歯になっちゃうからね」

 ばっちゃんの了解を得た私は持っていた紙袋をその場で開けようとした。

「詩温の笑顔はばっちゃんの宝物だったわよ」

 ばっちゃんのか細い声が私の心に今まで経験し得なかった恐怖を与えた。急いで振り返ると、ばっちゃんの姿は無く、玄関の扉の閉まる音がしただけだった。

 今、考えれば、ばっちゃんは幼い私に死というのも本当に理解させたくなかったのだろう。だが、ばっちゃんの努力は結果的に無駄だった。私はその一年後、死の意味を知るのだから。

 翌日、ばっちゃんが遠い天国へと行った事を母から聞かされた私は仕事へと出掛ける為にパンストを掃いている最中の母の肩を叩く。

「何、塩。お母さん、もう行かないと」

「ばっちゃんはいつ帰ってくるの? ねぇ、ねぇ、ねぇ」

 何度も肩を叩いて答えを催促したが、答えは返ってこなかった。

 ばっちゃんがいなくなった家は寂しかった。思えば、私は独りで留守番をしたことがない。いつも、ばっちゃんの膝の上で絵本を読みながら両親の帰りを待っていたからだ。

 幸福の子であり、過ぎた。だから、私はしんとした部屋で昨日の残りのドーナツを泣きながら食べた。

「ばっちゃん。ばっちゃん! 意地悪しないで、詩温のとこにおいで! ねぇ、おいで」

 幾ら、叫んでも来ないのを私は知っている。でも、幼い私は知らない。

「ばっちゃん、ねぇ、おいで」

 泣き声は枯れて、咳き込んでいるのに止めようとしなかった。きっと、それを見かねたのだろう。一羽の雛すずめがドーナツの箱の隅から眼前に姿を唐突に現した。

「塩ちゃん。ばっちゃんが言っていたでしょ。塩ちゃんの笑顔が宝物だって、だから」

 喋る奇妙なすずめの言葉を遮って雛すずめをそっと両手で包んだ。ふわ、ふわしていた。あんまり、ぎゅっとし過ぎると雛すずめに嫌われてしまうのでテーブルにそっと、降ろした。

「すずめさん、お名前は? 塩は塩っていうの」

「まんまですね。僕の名前はね」急に雛すずめが口を閉ざしたので私はどうしたのだろう? とテーブルに手を突いて身を乗り出した。「ありません」と雛すずめが陽気に言った。

 名前がないのは可哀想だと無邪気に考え、

「んじゃ、すずめさんね」

 とにこやかに笑った。

 思えば、私は常に独りではなかった。すずめがいつも、私の肩に止まっていたのだから。

 そう確信してもっと、違う夢を見ようと思った矢先、

「塩ちゃん! 午前五時ですよ、起きて下さいね。ねぇ、塩ちゃん!」

「まだ、私は寝足りないのです。もう少し、幸せな夢を見たい」

 ふわふわの毛布にしがみついて、すずめにそう言った。毛布を鼻の上まで被せて堅く目を閉じる。

「寝ぼけないで下さい。忘れたんですか、()()(ざくら)あいなさんと約束したでしょ。お弁当を作って来てあげるって。ちびっ子の癖にちびっ子の心を無下にする気ですか?」

 私は薄く目を開けて、目の前にいるすずめの頭を掴んで低く唸った。

「今、五時」

「ごめんなさい。ちびっ子って言っちゃいました、塩ちゃんのこと」

「言ったの?」

「あ、はい」


 勿論、私の事をちびと呼称する存在には罰を与えなければならない。それは人間であろうと、すずめであろうと、例え、地球外生命体であろうと罪には罰は付きものだ。それが今現在の人間の一般的な倫理観だ。これは理性でコントロールされているのか? と誰かに洗濯物を干すロープに逆さの状態で吊されたすずめを指さして私に問うたとしたら……。私は勿論、ですと応えられない。そんな哲学的な思惟に耽りながら鍋を掻き回す。掻き回す度に味噌汁の白い煙が位置を変える。味噌汁の煙が鼻の奥に潜って、日本人の愛する甘い香りが私の脳を刺激する。

 しばらくして、火を止めて大きな赤い水筒に入れる。

「塩ちゃん、許してよ、口を聞いて下さいよ」

 逆さにされるよりもすずめは自分と口を利かない方が嫌だったらしい。でも、ここで口を利いたら私はおつむの可哀想な子か、心が病んでいる子として然るべき処置を台所にあるテーブルに肘を付いてこちらを観ている母にされるだろう。

「お母さん、天ぷらの具は何でも良いんですか?」

 ボールに入れられたえび、薩摩芋、ちくわ、人参、ウィンナー、アイスを眺める。アイスをどのようにして、天ぷらにしたら良いものか? と私は顎に手を当て頭を捻る。

「ええ」と母は席を立ち、私の両肩に手を添えた。「でも、アイスは駄目よ。あいなちゃんはまだ、小さいんでしょ。小さいうちはバランスを考えた食事にしないと」

「塩用にはアイスを入れます」

 とそこは退かない気持ちで言ってみたが、アイスクリームは母の握った銀のスプーンによって掬い上げられ、お椀に入れられた。

「駄目。貴女のアイスをあいなちゃんが欲しがるかもしれないでしょ。お姉ちゃんでしょ、我慢しなさい」

 と言いながら、私があっと低い無念の意を含んだ嘆声を上げるのも虚しく、アイスクリームの入ったお椀はラップに包まれた。そして、明日の塩のおやつ用と油性ペンで書かれた。私が三年分のお年玉を貯めて購入した小型の冷蔵庫(アイスとデザート用の冷蔵庫)にしまわれる。

 結局、天ぷらは人参とちくわだけになった。生のお野菜嫌いな子どもはいるが、天ぷらにすると食べてくれる子どももいる。あいなが後者の子どもである事を願いながら私はコアラの形をしたお弁当に人参の天ぷらとちくわの天ぷらを慎重に詰める。手が小刻みに震えた。

「よし、天ぷら、オーケーです」

 私は拳を高く挙げて雑魚でもできるんだと感激した。もっとも、流しの底にあるべちゃべちゃの皮を被った人参やちくわは記憶から抹消しておこう。苦笑いをしつつ、薩摩芋を皮むき機で剥こうとした。

「お嫁さんはこんなのを使わずに包丁で器用に皮を剥くスキルを保有しているんですよね?」

 母は頷いて、実際に薩摩芋を掴むと、包丁を器用に皮の上で滑らせた。ただ、滑らせただけなのに薄く繋がった皮が途切れることなく、母のスリッパの上に落ちた。それを手にとってみると、一つの道のように真っ直ぐ、皮が続いているのを確認できた。

 私は皮の中に陽の加減によって同じ白い繊維でも薄いのと、濃いのがあるのを発見するとそれを道の先端まで追うべく、目線を走らせた。また、その濃いのと、薄いのとにも濃いのと、薄いのとがあり、目線が走る度に世界の深さを知る。物体はその物体にしか持っていない色がある。そう私の思考にすっと新しい考えが入ってくる。

(雑魚にもいろんな雑魚がいて私は雑魚の中でも愛される雑魚になれる)

 という感慨が浮かんだ。すぐに心の暗闇に沈んでいく。

「こら、遊んでちゃ、駄目でしょう。そうしていると赤ちゃんみたいよ」

 私の手を母は掴んで、薩摩芋の皮を私から奪ってすぐに流しに捨てる。いつの間にか、母は薩摩芋を小さく切り終えていた。私はばつが悪くなり、

「私、こんなだったの?」

 と母に笑ってみせた。母は薩摩芋を私の右手に握らせて、包丁を私の左手に握らせた。顎を動かして、やってみなさいよと促された。

 包丁を動かす度に薩摩芋の身に包丁が触れて、皮に身が付いたまま、流しに落ちていく。包丁の刃を入れる位置を変えて、自分なりに試行錯誤してみるがやはり、母のようにはいかない。自分が苛立たしい。

「ええ。人と大分変わっていたのよ」と私の問いからしばらくして答えが返ってきた。私はそれがあまりに突然だったので茫然とした。変わっているって良いことなのか? それとも悪いことなのだろうか? という自分の二通りの回答に板挟みになり、包丁を動かせない。「ん? どうしたの? まさか、それがマイナスな事って思っているの、塩?」

 俯いて、包丁と凸凹になった薩摩芋を見つめていると私の髪を小さい子をあやすように撫でる。母は笑った。

「何で笑うの、お母さん?」

「御免ね。あまりにも世の中を知らないお子様だなぁって懐かしく思えて。天才とか、奇才って言葉があるでしょ。まるで特別な人の事を表す名称のように使われているけれども、私達が忘れているだけなのよ。常識から離れた思考をするってことをね」

 凸凹になった薩摩芋の皮を母は意図も容易く剥ぎながら、そう言った。

「仲間外れになる」

「そ、だから誰も常識からは離れられない。だから、天才とか、奇才とかの人口は少なくなるんですよ」

「塩、怖がっちゃだめよ。自分の意志の通らない考えはいつか、自分を生きていない人間に変えてしまうんだよ。だから、自分の人生は自分のものなんだから精いっぱい、自分でいなさい」

 私は母の言った言葉を吟味する。自分の考えがなくなってしまう事に気が付かない自分になるのが急に恐ろしくなった。

「はい」

「御免ね、つい、こんな朝には似合わない話をしてしまったね。あれ? お母さん、炊飯器のスイッチ入れたっけ?」

 テーブルの上に置いてある三台の炊飯器のうち、一台を指さして、母は私に尋ねた。

「何、言ってるの、お母さん。まだ、薩摩芋入れてないよ」

「そうじゃなくて、朝ご飯の方よ」

「入れてないよ、お母さん」

 炊飯器を開くと、白く濁った水の中に米が浮いていた。なんだか、とても楽しそうだ。米にもし、顔があるとしたら終始、顔の皺を寄せてにこやかな世間話でも他の米仲間としているのだろう。


 目の前にいるあいなは私が遅れた理由が朝食を食べる為に、白いご飯が出来上がるのを待っていたから、と知ると、昨日の夜に降った雨粒がくっついている草を蹴った。無数の滴が孤を描くように舞った。

「で、だから、遅れたの? お姉ちゃん。馬鹿じゃない? 脳みそ、変えれば?」

 と言っているのにあいなの手は私の手を力強く握り締めている。初めて会った日に遊んであげて以来、彼女は私の手を離そうとはしなかった。まるで本当の妹みたいに甘えんぼだ。

「ご飯を諦めて、お姉ちゃんに賞味期限が切れて緑色のカビが生えたパンを食べろって言いたいの?」

 あいなの顔の痣は右頬にあったが、もうすっかり良くなっていて今では目立たないくらいになっている。私の目線は頬にあったのだが、すぐにあいなは私の瞳に視線を合わせようとする。少し、可愛がってやろうと、二階へと続く外階段の泥濘に私は自分の視線を合わせた。

「違うわ。カップラーメンを食べれば良かったじゃない」

 と言いながらも、予想した通り、あいなは私の視界を自分の身体で塞ぐ。あいなの格好は何故か、私と同じく青い色のジャージだ。色は偶然だが、私服としてジャージを着用しているとあいなに言った事があったのでそれは偶然ではないだろう。

 私の心にある可愛いものを抱きしめたいゲージが振り切れた。危険を察知したあいなは素早く移動しようとするが、私の腕からは逃れられない。

「捕まえた。やっぱり可愛いね、あいなは」

「脳みそ、変えれば?」

 言葉の割には嬉しそうに微笑んでいた。私に微笑んでみせる度に笑窪の上に乗っかっている痣が私の受けた虐めなんて生易しいものなのだと否応なく、理解させようとする。

 けれども、世の中の不幸に順位なんて付けられるのだろうか? 私はそう自分に問いを出した。何だか、腹立たしくなった。それを誤魔化すべく、あいなの横腹に腕を通して持ち上げるとそのまま、外階段を慌ただしく駆け上がった。

 私の耳には幼い笑い声と、背後から聞こえる三木先生と砂先生の声。

「おい、ここまで登ってくるのに体力を使い切ったんじゃあ、なかったのかよ」

「良いお姉ちゃんができて良かった、良かった」

 そんな出来事から始まった砂塾での今日もやはり、やる事と言ったら勉強が大半だ。いつもならば、教室と同じような部屋でやるのだが、前日に降った雨によって雨漏りをしてしまったので使用不可能だった。そこで座敷で勉強をすることになった。畳だからといって正座で座ったのが間違いだった。足が痺れた。お尻に触れる踵が自分の踵とは思えないくらいゴムのような弾力のある物体でしかない感触が伝わってくる。

「お姉ちゃん、足崩せば、あいなみたいに楽ちんだよ、この方が」

 そうだねと同意しようとした時、あいなは急に立つとわざとらしくふらついた真似をしてみせる。

「お姉ちゃんは正座なんて大丈夫な大人なんだよね」

 完全に遊んでいると思った私はそれに応えずにあいなの計算ドリルを引ったくると、あいなの欠点を探すべく、覗き込んだ。

 一+二=三 脳みそ入っての? こんな問題、誰でも解けるよ(あいなの計算ドリルより)

「あいなちゃん、一番最初の問題は雑魚からに決まっているでしょう」

 そう言った自分の言葉に胸が痛んだ。だけどもこれは私じゃない。

「けども、解けるのが当たり前の雑魚って意味ないよ」

 あいなは座り直すと、私の数学問題集を手に取り、ページを捲り始める。

 熊さん÷鮭=生存していくのには苦労してるんだなぁ(砂糖塩の数学問題集より)

「勝手に問題作って、意味不明な回答をしているお姉ちゃんよりはマシだよ。これじゃあ、正規の問題の正答率は怪しいものね」

 妙に威張った口調であいなは言った後、私からあいなの計算ドリルを奪うと、「砂先生! あいな、三十二ページ全部、解いたから、採点して! これで今日の熊さんスタンプはあいなのものだ!」

 と走って、他の生徒を教えている砂先生に採点の催促を始める。

 熊さんスタンプとは塾生で一番、頑張ったものに特性の台紙に押されるスタンプで、それが二十個集まるとご褒美が貰えるという塾生に大人気のシステムだ。私は自分の台紙を見下ろした。真新しい台紙にまだ、一個も熊さんスタンプは押されていない。

 ここでも雑魚なのだろう、私は……と真っ白な自分の頭を軽く叩く。

「塩ちゃん。塩ちゃんはやれば、出来る子だよ、ファイト!」

 すずめが私の肩に乗って羽根を羽ばたかせて応援し始める。まだ、身体を支えきれない両足が覚束ない足取りだ。それでも愉快に踊っているようにすずめは魅せた。踊り終わった後に低くすずめは鳴いた。

「ありがとう、すずめ。私、頑張る」

 と私は勢いよく、考えずに叫んだ。周囲の人間が私の方を仰ぎ見る。苦笑するしかなかった。

「大丈夫? 熱あるの、塩ちゃん? あたしの栄養ドリンク分けてあげようか?」

 と私の隣に座っていた同年代の少年、西田秀雄がアリのマスコットをぶら下げた青い鞄から瓶を取りだし、私に渡そうとする素振りを見せる。私は急いで手を降って、いらないと示した。

「いや、大丈夫。それ全部飲むんですか、今日?」

 塩のアイス毎日運動に通ずるものがあると勝手に解釈してしまった。だから、私は聞いたのだ、同じ一年を通して欠かさず好物を美味しく食べちゃおうという信念の持ち主なのだと私の目が隅々まで西田少年を観察する。西田少年の膨らんだお腹は栄養ドリンクの成分でできているに決まっている、西田少年の間の抜けた眼光は常に目に見えぬ栄養ドリンクを見ているんだ。さぁ、どうだ!

 西田少年のふくらした顎がこくりと動いた。私は嬉しくなり、そうかと呟いた。人見知りの私がまだ、塾に来て間もないというのに他者と会話をしているとその時、初めて実感した。これも嬉しかった何でだろう?

 何で私はこんなに近くにある温かい世界に手を伸ばそうとしなかったの? 私は自分の掌を眺めた。その手は青白く痩せ細っていて、肌荒れが全くなかった。

 私は深い溜息を吐く。突然、私の視界を遮ったノートに私の息達は跳ね飛ばされて私の顔へと帰ってきた。生暖かい風が顔に吹いた。

 ノートの内容は二次方程式の応用問題だった。私は求められずに適当に答えを書いた。当然ながら、赤い×印が記入されていた。その上にある二次方程式の基本問題は計算間違いした一問以外は全て、正解だった。

 いつの間に採点したんだろうと思っていた私の視界の白い壁は取り除かれて、三木先生が赤ペンを持って気むずかしそうな顔をしていた。だが、愉快に眉毛を吊り上げていた。

「駄目だなぁ。基本はできているんだけど、応用ができていない。良いか? 塩。全部、答えられる必要はないんだ。応用でもパターンのある、よく出る問題は押さえるんだ」

「そんな、で良いんですか?」

「世の中はなぁ。理解した振りが大切なこともあるんだよ」

「さっちゃん、熱血教師なのか、やる気のない教師なのか、どっちなのよ、全く」

 と三木先生の肩に止まっていたちびかが呆れて言った。それに対して、三木先生は解っていないなぁ、ちびか君とばかりに首をゆっくりと横に振る。何処か、ちびかを馬鹿にしている素振りだった。

「構造を理解するっていうのは簡単そうで難しいんだ。例えば、塩はここに在るんですか? って言われたらどう答える?」

「え、え、え、とですね」

「困るよな、そりゃぁ。それと同じだ。自分の解る限界までは理屈で良いけど、後は適当で良いんだ。みんな、同じ人間だからね」

 いつの間にか、三木先生の言葉に周囲のみんなが注目している。こんな状態で発言なんてできないと思ったが、心に生まれた反発心が暴れ出して、外に出たいと食道を突き破らんばかりの勢いで声になって這い出てきた。

「でも、先生。塩は雑魚です、雑魚は!」

 砂先生が三木先生の顔を見て、何か目で合図を送る。三木先生は頷いた。

「違うな。それは学校の連中が広めた渾名だろう? それがお前の全てではない。先生は昔、太っていて風船ガムっていう微妙な渾名がついていたんだよ。でも、今の俺は風船ガムか?」

「風船ガムというより、骸骨先生です」

「言うようになったなぁ」と周囲の失笑とあいなの馬鹿笑いに混じって囁くように三木先生は言った。「すい」すいませんと言おうとしたのに三木先生の言葉が始まって断念した。「でも、その通りだ。人はな、変われるんだよ、良くも悪くもね。自分の可能性を信じない奴は悪い方向に、信じる奴は良い方向に。どっちが徳かは解っているよな?」

 三木先生は白い台紙に青いスーツのポケットからさり気なく取りだしたスタンプを押す。

「先生、その台紙なんですか。そのスタンプ、悪趣味」

 私の目には鬼の角を生やしたちびかスタンプが怒りの形相で佇んでいた。嘴からは、さっちゃん! 部屋を散らかさない、片付けなさいと吹き出しが出ている。

「デビルスタンプ。これを集めると俺のプロマイド写真が手に入る。手に入れたくなかったら勉強しろよ」

「はい」と一秒の返し。

「おい、そこは否定するところだろう」と戸惑いの二秒の返し。

「だってね、過去にも、現在にも、未来にもアイドル的な要素が」

「未来くらい希望的に語ろうよ、塩君」

「脳みそ、ハエ集っているの? 燃えるゴミの日に出す?」

 とあいなはデビルスタンプを三木先生の手から奪うべく、三木先生の脇をくつぐった。数秒の後、あいなはデビルスタンプを手に入れた。あいなは手の匂いを嗅いで、おじちゃん臭いと楽しく毒舌を吐きながら、私のノートにスタンプをぺた、ぺた、押し始めた。

 私のノートは一人の小さな怪獣によって壊滅状態……でも昔、水でノートを台無しにされた時とは違って優しい気持ちになれた。この子はただ、無邪気なだけなのだから。この子の無邪気さを受け入れられなかった学校という機関は本当にこの子の為に全力を尽くしたのだろうか? 私の拳に力が漲った。


 そんな春は案外、呆気なく過ぎていった。そして、夏もすぐに通り過ぎていった。振り返れば、何のたわいのない思い出に、何のたわいのない幸福に私は浸かっていた。あいなと西田少年と私の三人で過ごす事が気付けば当たり前になっていた。主にあいなが提案し、私と西田少年は渋々、了解するというお姫様とその従者的な関係だった。オオクワガタが高く売れるらしいとテレビでやっていたからと昆虫採集、牛乳パックでイカダを造って海で沈没、浜辺で貝拾いしてその場で焼いて食べて食中毒で救急車と何処の子どもも経験した事のあるような馬鹿をやった。その傍らで地道に努力して私の成績はともかくとして、勉強意欲も上がっていった。それには理由があった。私の努力を認めてくれる三木先生の容態が日に日に悪化していく中、私はどうしても先生に長く生きて欲しかった。三木先生の最期の生徒である私にできることは、貴方の指導は間違っていませんでしたと笑って送り出せるような成果を先生に送ることだった。それはきっと、淡いピンク色の桜よりも誇りを忘れずにいつまでも死していく魂に振り積もっていくと確信があった。そんな思いを抱きながら、私は真っ赤に栄える落ち葉を踏み躙っていく。

「先生! もう、デビルスタンプは貰いませんよ。塩、全国模試の過去問題が少し解けるようになりました。勉強するって楽しいですね」

 と私は叫びながら、塾の扉を開いた。

 夏を過ぎてから三木先生はここに寝泊まりをして、いつも動かぬ石のようにリビングの椅子に座っていた。もはや、肉という肉はなく、髪はすっかりと抜け落ちて髭さえも生えていなかった。肉がなくなった肉体は皮と骨だけになり、配線のように細い血管が透けて見えた。先生の吐く白い息だけがまだ、生きていると知らせていた。肩に乗っているちびかはこの頃、いつも羽毛に頭を蹲らせて眠っている。

 やっと、目の前にいる黄色いジャージ姿の私に目の焦点があったように間を置いて、何度も頷く。それは三木先生が塩の事はまだ、解るぞと私に知らせているようだった。

「よくやったなぁ。その調子で頑張れば大学に行ける。塩? お前の夢はなんだ?」

 と希望に溢れた言葉を言うのに顔は癌の骨転移による痛みで表情を無くし、魂が辛うじて身体にしがみついているようだ。

 私は前から考えていた。拳を作ったあの日からずっと、考えていた事を言えなかった。

 深く息を吐いて、吸うことさえも困難になった人間がやっとの思いで紡いだ言葉を無下にすることがないと、私の夢はそう断言できるだろうか?

 良くも悪くもね。自分の可能性を信じない奴は悪い方向に、信じる奴は良い方向に。どっちが徳かは解っているよな? と昔、先生が言った言葉が私の唇を震わせた。

「教師になることです。そして、先生みたいに駄目な生徒をさり気なく導いてあげる先生になりたいです」

「なれるかな? 現実はつらいぞ」

 と言ったきり、先生は目を閉じた。

 その短い言葉にどんな歴史があるという問題が出題されたとしても今の十代の私には理解できない。理解できるには先生のように後、二十年以上、生を彷徨う事が必要なのだろう。私は先生の安らいだ子どものような寝顔を見て、首を振った。多分、違うんだ。いつか、答えが欲しい。





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