表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/13

act 2-suzume 偽善である善を最期に

act 2-suzume 偽善である善を最期に


 爽やかな風が吹く春にあたしの提案でさっちゃんは西肩高等学校の教師を辞めることとなった。ただ、辞めさせただけではない。さっちゃんと共に歩んできた人生の中でさっちゃんの最期の仕事に相応しい仕事に出逢わせてくれるであろう人物に心当たりがあった。

 その人物、(すな)(こう)を訪ねようと言うと、さっちゃんは同意してくれた。砂港はさっちゃんの大学時代の恩師である。砂港が引退すると同時期にさっちゃんも大学を卒業するはずだったのだが、単位を一つ計算間違えした為、もう一年、大学で過ごすはめになったのは今や、あたしにとっては過ぎ去った時の一ページの良い青写真になって今も笑顔を与えてくれている。

 辺り一面、森だ。風の匂いを嗅ぐとガソリンの匂いが全くしなかった。空気を吸う度に心が軽くなった。そんな気がするだけなのかもしれないが、あたしだけがそんな気分を歓迎しているのではないとさっちゃんの姿を見ていると解る。

 整備された山道であるとはいえ、急斜の激しい坂だ。生きる屍のような肉のない身体をゆっくりと動かしてただ、ひたすら前へと進む。あたしはそんなさっちゃんの穏やかな顔を見つめて心配になった。

「少しは休もうよ? きっと、あの爺さん、いつものように木陰で本を読んでいるよ」

 さっちゃんは手摺りに手を置くと足を止めた。飛んでいるあたしに向かって手の甲を差し出す。手の甲は骨が透けて見えそうなくらい華奢だった。

「いや、あの人はそんな静かな老いを望んじゃいないさ。まだ、現役で無償の砂塾の講師をやっているさ」

 と喋るさっちゃんの口元は見ずに、あたしは手の甲を見つめる。乾涸らびているように見える手の甲の表面には無数の小さな滴が走っていた。追い抜かれたり、追い抜いたりしている汗達の徒競走はあたしに安心感を与えてくれた。

 あたしは手の甲に優雅に着地する。そして、さっちゃんの目を見据えて話す。

「きっと、もうボケ老人になっていると思うよ」

「あのなぁ、俺の師匠とも言うべき砂先生をお前はぴちく、ぱぁちく、鳥みたいに五月蝿く言って」歩き出したさっちゃんはあたしの方を一瞥すると、「お前、すずめか」と満面の笑みを浮かべた。その表情からは苦痛の色は見えない。

「あたしは立派なレディだから、そんなに五月蝿い餓鬼すずめじゃないわ」

 さっちゃんの足音はだんだんと力強いものに変化している。あたしは振り向いて、さっちゃんの付けた靴跡を見つめる。その靴跡はセメントで固められたようにしばらくは残るだろう。

 そう考えている自分を否定しようとしても否定しきれなかった。それでも、足音は深くあたしの心にまで靴跡を遺して行く。

 川に差し掛かった。清涼な水は透き通っていて、身体を水の流れに逆らうことなく、うねらせている魚達が覗けた。魚の目先を追っていくと川岸と川岸を大木の根が結んでいる光景に出くわす。あたし達はその根を通って向こう岸へと渡る。根を渡る際に木の根が撓って、一瞬、心臓も一緒に撓ったようにおっかなびっくりしたが、木の根は丈夫だった。前にもさっちゃんと砂港に教師になったと報告をするべく、訪れた際に木の根に生い茂った淡い色合いの苔に足を取られたさっちゃんを思いだした。あたしは密かに含み笑いをした。笑いが自分の中に溜まっている笑いを呼ぶような気がして硬質な声でさっちゃんにさえずる。

「妙ね。餓鬼すずめの声が以前よりも増えているわ」

「ニュースで聞いたことはないか? 最近、虐めが増えているって。昔は餓鬼代将みたいな奴がいてそいつに認めて貰えれば仲間が増えたし、その餓鬼代将は認めない相手でも人権を尊重したものだ。ある意味、器の大きい人間が就いていたんだ。だけど、今はどうだ? 砂糖塩の件を見たろう?」

「餓鬼代将みたいな人間はいないね」

「みんな、心が汚れちまったのかな。空気が人間の乗る自動車に汚染されてしまったようにな。何かが心を汚しているんだ」

 そう言ってさっちゃんは溜息を吐いてから、新鮮な空気を身体いっぱいに取り込もうと両手を広げて吸い込んだ。

「人間は自分の殻に自ら、入り込んでしまっているのよ。人間は人間の事しか考えていない。あたしは人間じゃないから人間を外から見ていると何となくだけど、そう感じる」

 空気を吸いすぎて咽せたさっちゃんの声があたしの感慨の間を用意することなく、

「例えば?」

 と催促した。

「例えば……そうね、この大空には何が見える?」

「何って? そりゃあ。雲と飛行機と青色」

 と眺めもせずにさっちゃんは適当に言葉を並べた。その空の情景は今朝の激しい夫婦喧嘩が展開されていた(たち)()()さん宅の横で欠伸をしながら、空に視線を向けた時の情景だ。

 その喧嘩を耳にしたさっちゃんは朝から情緒のないことだわとオカマ口調で言っていた。あたしは二重の意味で呆れながら、

「ブー、ブー、違うね。空には無限が広がっているんだよ。果てがないし、何処かにあたし達をあっと言わせるものが飛んでいるかもしれないよ」

「トカゲとか?」

 やはり、さっちゃんは適当に応えつつ、首を捻った。自分でもどうなのだろうと考えたらしいが口にせずにはいられなかったらしい。

 さっちゃんの足がぴったりと止まった。日差しをたっぷりと吸い込んだ眩しいばかりの笑顔を浮かべた七歳くらいの男の子や、手にプリンを持ったランドセルを背負った少女、煙草を口に加えるようにポテトを口に加えた学ランを着た少年が思わぬさっちゃんの登場に動きを止めてさっちゃんという人間を見極めようとしていた。手にプリンを持っていた少女はさっちゃんの骸骨のような肉のない顔を見て、学ランを着た少年の背後へと隠れてしまった。それでも、愛らしい瞳がこちらを見据えていた。その少女のランドセルの上であどけない顔をした雛すずめがぐっすりと眠っていた。

「どうやら、あの少女はこちらに敵意がないって事が解っているみたい。多分、大人が怖いのよ。無理もないわ、ここはそんな子達が集まる場所だし」

 さっちゃんにそう言ったが、さっちゃんの顔色は優れなかった。登ってきた疲れが見えて来たのか? だが、そうではなさそうだ。普段以上に汗も掻いていないし、今日はまだ、吐血だって珍しくしていない。

 さっちゃんの喉が鳴った。ごくり、と。何かを仕舞い込むように鳴った。皮のないに等しい顔が必死に何かを隠そうとしている。

 その視線の先には腰の曲がった老人の手を両手で引っ張っているまだ、歩くのも慎重そのものという感覚の少女だ。その光景は普通ならば、微笑ましいはずだ。だが、少女の頬には緑と黒の混ざった痣が付いていた。その痣は一種の普通になれなかった証のようなものだ。

 誰の感覚における普通だろうか? 親における普通の感覚だろうか?

 きっと、それは普通に慣れすぎた人間には解らない。さっちゃんには解るのだろうか? 少なくとも彼も普通ではないという証を持った、いや、今も持つ独りだ。その証はその人間にしか本当の効果はない。やがて、証は赤い花を咲かせる。その花は人間の血で美しく咲き誇る死という花。

 あたしは急に周りにいる人間が恐ろしくなった。さっちゃんがいなければ、きっと、あたしは飛んでいってしまっただろう。頬に痣のある少女の名札(名札には西肩小学校 一年二組 ひのざくら あいなとボールペンで雑に書かれてある)を揺らしている風に乗って何処までも。

 そんなに早く私は歩けないよ、あいなと言いつつ、幸福に満ちた笑みを浮かべている老人が砂港だとあたしは気付くのに時間が掛かった。同種族ではないので顔の判別に時間が掛かるのだ。前にその話をさっちゃんとした時、俺だってどの鳥が声優並みに綺麗な顔立ちをしているかなんて解らないよと言っていた。それを思い出してけらけらと笑う。その笑い声が聞こえているのにさっちゃんは相手にせず、砂港に深々とお辞儀した。ズボンの側面に触れている掌が微かに震えていた。

「こんにちは、砂さん。やっぱり、子どもの声だったんですね。今年はいつも以上に人数が多いですね」

「誰かと思えば、三木坊じゃないか。どうした? こんな辺鄙な山奥までよ」と大袈裟に元気よく、言った。あいなに手を引かれていた事を忘れて砂港は嬉しそうにさっちゃんの肩を叩く。何度か、叩いた後、「もう、長くないのか」と顔を曇らせてさっちゃんの目をじっと、見つめた。まるで嘘を吐くなよと言っているようだった。さっちゃんはただ、こくりと小さく頷いた。

「会いに来てくれてありがとうよ、事情は語らずとも解る。俺の友人も癌でやられたからな。痛むだろう?」

「少し痛みますけど、もう痛覚が大分やられていますから、運が良かった」相手の目がそんな事は決してないと語っていた。さっちゃんは小さく「ですね」と自分の強気までも掻き消した。

 向こうへ行こうよとばかりに手を引っ張るあいなの指を一本ずつ、解きながら、

「無理するな。何か、用があるんだろう?」

「先生、御願いがあります、ここで働かせて下さい」

 さっちゃんは掠れ気味の声ではあるが、はっきりとそう伝えた。砂港は一晩だけ、考えさせてくれと言った後に、本当にここで良いのか? とさっちゃんに言った。それはさっちゃんを思い止まらせる言葉ではなかった。いわゆる人生の最期がここで良いのか? という意味だった。それをあたしも、さっちゃんも理解していた。

 それから、砂港と懐かしい大学時代の話をつまみにして、お茶を一杯、飲んだ。さっちゃんの身体は既にお茶を飲むのでさえ、ゆっくりと時間を掛けて飲まないと身体が拒絶してしまう。帰宅後、さっちゃんは灯りを付けずに独り、瞑想に耽っていた。それは絶望の暗闇に身を置く行為ではなかった。ただ、暗闇に何か、新しい気配がやってくるのをじっと、待っていた。その気配は午後、八時に訪れた。

 突如、甲高い音が鳴り始めた。その音達が産み出す曲は誰にだって覚えのある曲だった。そう、君が代だ。

 カップラーメンの殻を手で投げ飛ばし、トンカツ味の汁が唇に付着したがさっちゃんはまるで気にしない。昨日、食べた沢庵の入ったタッパを蹴り飛ばした。タッパは見事、ゴミ箱にゴールする。その次の黒い物体を蹴ろうとしたが、それは探し求めていた電話だった。寸前の所で蹴りは入らず、受話器を取る。

 誰もいない空間に向かって頭を下げた。そして、一言。

「存じております」

 と厳粛に言い、そっと受話器を置いた。一呼吸、置いた後、さっちゃんは教師生活一年目の時と同じように夜が明けるまで小学校一年生から高校三年生に至るまでの算数の流れ、数学の流れを大好きだったお酒を飲み干すように飲み干した。あたしはさっちゃんに一度、話しかけてみた。

「病気が嘘のようだね」

 言ってしまってからしまった! と後悔した。だが、さっちゃんは数学の世界に召喚されたままだった。当然、聞こえるはずがなく、なんだかほっとしてしまった。


 朝が明けて、突然、さっちゃんは眠っていたあたしに構わずこう言った。

「やっぱり、戦闘服は必要だよな」

「変身して、怪人を倒すんですか? さっちゃん、昔みたいに」

「そうだな、昔みたいなノリでもオーケーな感じだ、今は」

 寝ぼけていたせいもあるのだろうか、さっちゃんは小学校の頃クラスメートに無理矢理、怪人の役しかやらせて貰えなかったのをすっかり、忘れていた。

 さっちゃんの様態が今日は健康体と同じくらいに保たれているのにびっくりしつつ、今あたしは久しぶりに排気ガスを含んだ雲の立ちこめる空を飛んでいる。

「数学なんて、お子様ランチが一番嫌いな教科ナンバー一じゃない。ある意味で昔みたいになりそう……」

 気分がげんなりしそうだった所にあたしの知っている人物の後ろ姿を見つけた。今は信号を待っている。白いリボンと黒いリボンで短いツインテールを構築していたとても可愛らしい少女である砂糖塩だ。

 可愛いとは表現してみたが、いつも下を向いて歩いている為、身近な人間でさえ塩の顔をまじまじと見た事のある人間はいないのでは?

 そうこうしている間に砂糖塩は歩き出そうとした。だが、自分の靴の紐に足を引っ掛けて転んだ。

「漫画ですか、砂糖塩。天然萌え?」

 と言った途端、賢い健全な提案兼面白い提案を思いついた。そうだ、砂糖塩もさっちゃんの人生計画に巻き込んでしまおう。見たところ、砂糖塩にも何やら、事情がありそうだ。平日にも関わらず、学校に行っていない。そして、制服ではなく小豆色のジャージを着用している。

 元生徒がこんな状況なのを見かけたさっちゃんはきっと、優しい怪人に変身するはずだ。

 風を翼で感じてその風を利用して、一気に下降する。空気が身体にまとわりつく度に景色が変わる。高いビル群が目の前から無くなり、今見えるのは紙袋を片手に提げた眼鏡を掛けた女性が洋服屋の扉を開けている所だった。

 チャンスと思い、あたしは急いで扉を潜った。潜った後、すぐに扉は閉まった。あたしは振り返り、壁のような扉の憮然とした姿に恐怖を感じた。口をあんぐりと開けたまま、店内を飛び回る。確か、さっちゃんはこの洋服屋、(じん)(べい)で戦闘服を購入すると意気込んでいたはずだ。

 清潔感の漂う同じように見える紺色のスーツがずらりと木製のハンガースタンドに掛けてある。

「いないなぁ。さっちゃん。もう、何処言ったのよ!」

 普通は店内で叫ぶのは行儀の悪い事で人間だったら許されないだろう。しかし、あたしは可愛い、可愛いすずめさんなので大丈夫だ。店内にいるあたし以外のすずめさんも騒いでいるではないか。それに大抵の人間にはあたし達の姿を知覚できないだろう。千年以上、多くの人の肩を渡り歩いているすずめから聴いた話では、今の人間に私達が知覚できないのは本当に生きていないからだよと聞かされた事をあたしはふいに思い出した。

(本当に生きるって何よ? そうか、さっちゃんがあたしを観られなくなったのは……)

「どうだ? ちびか、俺、かっこいい」

 突然の活き活きとした声であたしの思考も、店内にいるお客さんも店員も、その肩にいるすずめ達もさっちゃんに注目した。当の本人はその事には全く気が付いていない様子で、アロハシャツを誇張すべく、白い布地の上にある富士山と女性の横顔の模様をあたしの嘴に寄せた。咄嗟にその模様を噛んだ。ゆっくりと顔を上げて、さっちゃんを睨んだ。

「何で片言なんですか。何でアロハシャツなんですか。センスという言葉を否定に用いるのもセンスに失礼なくらいアホな格好」

 あたしにそう言われて、さっちゃんは急に顔を真っ赤にした。どうやら、周囲の視線に気が付いたようで携帯電話を取り出し、耳に当てた。

「馬鹿だな、俺。携帯は携帯してるだけではなく、正しい使用法を心得ていなきゃ、意味ないね」

 と妙に説明口調になった後、一呼吸の間を置いてから、

「有り得ない格好しなきゃ、戦闘服じゃないだろう」

 不平不満を漏らしながら、さっちゃんは試着室へと消えていった。

「そんなさっちゃんは教師時代、戦闘服はスーツだ。アイロンを丹念に掛けたスーツだと力説していました。鏡の前で」

「わかったよ、これならどうだ?」

 試着室のカーテンが開く。高校生が春って怠いよね、暖かいし、空、青いしよぉ、と欠伸を上げながら見上げそうな青空そっくりの色があたしの目の前に現れた。その青空を唇で噛みきりたい衝動に襲われた。その青空がスーツの形をしているからだ。

 あたしは他のにしなさいと言おうとしたが、その寸前にさっちゃんの足の近くに置かれたこの店の紙袋を見つけた。

「買ったの?」と低い声でさっちゃんの表情を確認する。だが、それは無理だった。黒いサングラスが目を覆っていた。「変態」

「それよりも砂糖塩がこんな時間にジャージ姿で歩いているわよ」

 あたしはサングラスを取って照れ笑いしているさっちゃんに知らせた。さっちゃんは急に真面目な面持ちになった。痩せ細りすぎたさっちゃんの笑顔は顎骨の丸みを帯びた形が解り、不気味だ。しかし、真剣な表情はそれが堅苦しさと絶望を外に発散させて似合わせていた。

「やっぱりな。どんな学校に転校してもあの子は良い意味でも、悪い意味でも目立つ子なんだ。日本のことわざにあるだろう、出る杭は打たれるって」

 やはり、あたしの予想通り、さっちゃんは急いで塩を探しに洋服屋から出てくれた。あたしはさっちゃんに言いそびれた事があったが、思いつかずにさっちゃんの掛けたサングラスを肩に止まって眺めていた。首を傾げても出てこない。重要な、ことなのか?

 塩が転んだ横断歩道を通り過ぎて少し、歩いた所にある狭い路地で塩を見つけた。屋台の行列に並んでいた。その行列は老若男女、様々な年代で構成されていた。彼らが待ちわびているのはアイスクリームだった。

 アイスを食べる人々の歓喜の声に負けじと塩にさっちゃんは呼びかける。

「よぉ、頑張ってるか? この時間帯だと塩、さぼりか?」

 塩は震えた声で誰ですか? と呟いた。それは声として現実に発せられたのか? と少し考えるくらいの音量でしかなかった。

「思い出した、サングラスを取りなさい。塩が怯えるでしょ」

 塩にここのアイスクリームはテレビで特集が組まれたほど、アイスクリームの種を沢山載せてくれると評判のお店だと聞き、ちゃっかり自分の分も頼んださっちゃんは自分もアイス好きなのだと嘘を吐いた。

 あたしは空を飛びながら、あの雛すずめを探してみたが何処にも姿はなかった。栄養を与えてくれる人間からは離れない習性をあたし達は持っているのに。それでも本人が生きているのだからまだ、大丈夫なはずだ。きっと、あたしにも知覚できない存在になってしまったのだろう。なんだか、虚しくなってあたしは声を出して密かに泣いた。

 公園のベンチに座り、アイスを食べるサングラス中年男とジャージ少女の組み合わせは異様だった。どう良心的に観ても教師と生徒には見えない。

 話を聞くと予想通り、自分のクラスに居場所が無くなり、学校に行けなくなったらしい。

「でも、お母さんに頑張るからって、言っちゃったから……」

 塩はアイスのコーンを食べ終わると、両手を摺り合わせ始めた。掌からは無数の発疹が覗けた。あたしはさっちゃんのパソコンの画面から塩の情報を覗いて知っているのだが、塩は寒冷蕁麻疹という体質なのにどうして、冷たいコーンを手に持ち続けるリスクを冒してまでアイスを食べるのだろうか? とその光景を見入っていた。

 何かを耐えるようにじっと、下を向いている塩の視線の先には鳩達が公園の利用者から貰ったパン屑を突っついていた。よく観ると仲間同士、そのパン屑を分け合っている。

(珍しいのかな? でも、あたし達の間では普通なのに。第一、仲間同士で争う理由もないしね)

「せ、せ、せんせ、こそ。こ、この時間帯はがっ、学校に」

 ポケットティッシュで口を二、三度拭いた後、塩がそっと口を開いた。相変わらず、人の目を見て話そうとはしない。

「俺か。知り合いが経営している塾の先生になったんだよ、流石に身体が辛くてな」塩が自分の掌を何度も叩く音を響かせている中、塩の旋毛に向かってさっちゃんは話し始める。「塩、お前、このままで良いのか? お前を見ているとただ、流されて生きているみたいだ」

 さっちゃんの声が槍のように尖っていくのを察した鳩達は我先にと、人が汚した白黒混じりの雲に向かって飛んだ。後に残ったのは食べ残ったパン屑だけだった。

 塩は急にさっちゃんの方を向いた。その顔つきは虐めに遭うような顔ではなく、丸みを帯びた実年齢よりもずっと幼顔の可愛らしさを保っていた。太陽の光を浴びて頬の白い産毛達がまだ、母の温もりを求めて手を伸ばしている姿が確認できた。そんな塩の目はさっちゃんを力強く睨んでいた。目の充血が真剣さを物語っている。

「仕方ない。雑魚には流れに逆らう余力なんてありません」

「それでも生きる為には逆らう力も必要だ。例え、癌であっても必要なんだ。その逆も必要だけどな。けど、それは生きるっていう意志でちゃんとコントロールされている」

 塩は目を擦り、解らない問題に疑問を持つように一つの単語を繰り返す。

「癌?」

「ああ、せんせは末期癌だ。もう、骨まで転移している。痛すぎて、精神を安定させるお薬を飲まないと死にそうになるほど、苦しい」

「なんで! そんな事を笑顔で言うんですか! それって死んじゃうって事じゃないですか? あたしのパパだってそうだった。十五分後にトラックに轢かれて死んじゃうのに。笑顔で熱を出して学校を休んだ私に」鼻水と涙が垂れてきたのをジャージの裾で拭いてから「私に、わ、わ、わ、落ち着け」とどもりながらも自分を鼓舞する。「私に子犬さんの縫いぐるみを買ってきてくれるから元気にしてろよってほっぺにちゅうしてくれたのに。パパの顔が無くなってた。お人形みたいな顔だった。あんなのパパじゃない。笑顔で死を語らないで」

 目を瞑って早口言葉で喋る塩の姿を見てさっちゃんとあたしは顔を見合わせた。今までの塩の根暗さからは考えられず、ただ唖然とする。

 塩の鼻水を啜る音だけが日常を生み出す車の走行音、忙しなく歩く人々の靴音よりも耳に残り、信号機のとおりゃんせの寂しい音でさえも悲哀さをあたしにもたらした。

 さっちゃんはただ、激昂した顔を真っ正面から見据えていた。その顔は迷いの無さが与える平穏さを保っている。

「俺は君の父さんに比べるとまだ、運が良いんだ。だって死を自分で決められる。それなのに笑えないで死ぬのか? 俺は最後まで生きたい。お前はどうだ? どんな明日を描くつもりだ? 塩、お前は昔の俺に似ているんだ、その気があればお前を俺の人生で最期の生徒にしてやる」

 気軽にさっちゃんは言って、手を差し出した。塩の瞳がその手を見つめる。骨が今にも皮膚から突き出てきそうな枯れ枝と表現できるだろう手をまじまじと見ていた。

 塩の肩にぼんやりとした小さな影が浮かび上がる。さっちゃんとあたしは塩が言うだろう答えを待つ。風が吹き荒れる方向を変えた時だった。

「私は新しい明日を歩きたい」

 と塩ははっきりと言った。そして、差し出されていた手に触れて、堅い握手を交わす。

 影がその決意を待っていたように喜びの声をさえずる。

「そうだよ、塩。笑顔は君の宝物だよ」

 黄色い羽毛に包まれたすずめになった影は塩の前を飛んでみせた。それはまるで自分はここにいるよと証明しているようだった。塩はそっと、すずめの方に指を近づけさせた。指に気が付くとすずめはすぐに身体を休めて、小さく笑い声を上げた。

「貴女は誰?」

 と塩はさっちゃんの肩の上で羽根の毛繕いをするあたしに気が付いて言った。間を置かずにすずめの方に視線を向けると「貴方は」と混乱したように声がひっくり返っていた。

 何かに気が付いたように塩はすずめの羽根に触れる。

(良かったね。待った甲斐があったね)

 塩の笑みがすすめの痩せ細った身体に栄養分となる光の雪を降らせる。その雪を浴びながらもすずめは口を大きく開けて摂取した。あたしはその光景を見つめているのだが、しっかりと見えない。何やら、白く曇っている。

「涙もろくなったな、あたし。年を取ったってことね」





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ