act 1-shio 何処へ行っても雑魚
act 1-shio 何処へ行っても雑魚
遠くからリコーダーの音が聞こえる。私は目を閉じてその音に神経を集中させてみた。リコーダーの音だけが静寂を刺激している。私が今座っている場所は便座ではなく、切り株なのだという雰囲気にさせてくれる音だ。薄目で現実を把握する。白い板に引っ掻き傷のようなものがいっぱいあった。恐らくは老朽化した痛みが傷となって所々に出ているのだろう。だが、とてもお弁当を食べられる雰囲気ではない。廊下とトイレの入り口に扉一つ隔てていないので、廊下の外気がトイレの個室まで伝わってくる。私は寒さに一瞬間、全身が震えた。蕁麻疹はまだ、出てきていないので温かくならない。蕁麻疹が発生すると体温が上がるのが体感できるくらい、ぽかぽかになる。痒いけど。
四時間目だが、ここでお弁当を食べる以外、選択肢はない。小学生一年から虐められている私にとってトイレは唯一、学校で心を落ち着けられる他人の目地獄砂漠のオアシスだ。 虐められた原因は些細なものだ。小学校一年の夏、私はいつものように水は怖かったが、友達と一緒にいたいと思ってプールの授業を真面目に受けていた。プールから上がったら、腕にほんの少し、痒みを感じた。自分の腕を見ると、赤い粒が自分の腕にくっついていて泣き虫だった私は泣き出した。その時は仲の良い友達が私の手を引いて保健室に連れて行ってくれた。私はこの時ほど、同年代の子に友情を感じた事はなかった。季節が変わるに連れて、私の蕁麻疹は酷くなっていった。小学校二年生の頃にはあまりの不気味な肌の変化の為か、児童の保護者達は口を揃えてこう言った。
「あの子と一緒にいちゃ駄目よ。あの子、心が壊れているから」
私はその言葉を仲が良かった友達の情報提供によって知った。友達はいつもと変わらない笑顔でこう言ってくれた。
「私と塩ちゃんはいつまでも友達だから。だから、蕁麻疹は移らないって私、知っているし、その傷跡は心が壊れているからじゃあないって知っているから。私、塩ちゃんを応援するよ」
私は自分の惨めな姿を思い起こす。涙が溢れそうになった。でも、私はあの瞬間から泣き虫を卒業したんだ。長袖に入りきれない手の甲には私自身の爪が描いた白い直線がチョークのようにはっきりと刻まれている。それは一箇所ではなく、無数に身体のあちらこちらにある。流石に顔にはない。私も女の子なので我慢した。引っ掻き過ぎて自分の血を見るのは日常茶飯事だった。ここ最近になって蕁麻疹との戦争から、共存への道を模索する段階へと移行したばかりだ。争いからは不幸な出来事が多く発生するという事は学年ビリの雑魚にも理解できた。ともかく、私は優しい友達にこう応えた。
「ありがとう、まなちゃん。私、頑張ってみる」
だが、そんな友達もみんなの側へと行ってしまった。当時はとても理不尽に思い、もう泣かないと自分に誓うまで泣いた。両頬の涙の通り道が完全に消失した今では解る。結局、この世の中は派閥の集合体なんだ。より発言力の強い派閥に入れば、そのメンバーは派閥の他者への影響力によって守られる。人がより強い派閥を求めて流れるなんて、構造は至極当たり前なのだ。それを独りでひっくり返すなんて時間の無駄だ。結論として、私は孤独を求めて、小学校四年生の頃からずっと、トイレで昼食を採っている。給食だったら、私はきっと、食事を採る際も彼らの悪意に晒されなければならなかっただろう。
彼らの悪意は馬鹿にできない。隙を見せれば、すぐにスリッパのような目に合う。だから、常に通学鞄を持ち歩いている。コート掛けに吊した通学鞄から、猫の写真柄の風呂敷に包まれたピンク色のお弁当箱を取りだした。それを膝に置いた。弁当箱が膝の上から落ちないように慎重に再び、通学鞄へと手を伸ばして食パンの耳が入ったビニール袋を膝に置く。
弁当箱の中身を開けると良い按配に液体化したバニラアイスが入っていた。私はバニラアイスに鼻を近づけて息を吸う。甘ったるい香りが鼻孔へと注いだが、余計な匂いまで入り込んできた。塩辛い嫌な匂いだった、多分尿の匂いだろう。私は激しく咳き込んだ。
バニラアイスの泉に食パンの耳を何名か、入浴させる。私は思わず、
「良い湯だなぁ。食パン殿」「そうですな、年寄りの身体を骨身まで温めてくれますよ。思わず、天国に逝きそうじゃあってなぁ」
と独り言を言った。そして、食パンの耳を少しずつ、自分の大きく開いた口へと導いていく。後数センチで塩ちゃんの口へとダイブ。
「逝くな、そっちは地獄だぞ、食パン殿」
そんな言葉は虚しくトイレの個室内に響き渡り、食パンの耳一切れは私の口へと収まった。食パンの耳の適度な堅さは十分な食感を生じさせ、バニラの甘さはほんの少しの幸福というスパイスをパンの耳に添えていた。まるで両者は仲の良い夫婦だ。だが、私は夫婦というフレーズをあまり信用していない。例え、二人が恋愛結婚の末、夫婦になったとしても所詮は違う人間だ。相容れない、理解し合えない。
私はパンの耳を歯で細かく、切断した。そこには機械的な歯の動きしか存在しない。それが終わったら飲み込んで胃へと運ばれていく。それをただ、黙々と繰り返し、気が付けばパンの耳は一切れも無くなっていた。膝の上に乗っかっているお弁当箱を覗き込むとまだ、バニラアイスが残っていた。私は通学鞄から長いストローを取り出すとバニラアイスの液体へと近づけて、ストローを咥えると一気に空気を吸い込んだ。空気と一緒にバニラアイスがストローの頂上を目指してじわじわと登ってきた。バニラアイスは私の口内へと簡単に入っていく。しばらくすると耳障りな音が聞こえてきた。もう、幾ら吸い込んでもバニラアイスは私の口に訪問してくれない。二度とお日様を拝めないという情報が何処かから漏れたのだろうとにやつきながら、お弁当箱を見ると彼らの姿は何処にもなかった。見事、全員が私のお腹へとご招待されたのだ。
リコーダーの音がいつまで経っても聞こえないのに気が付いた。腕時計で時間を確かめると時刻は十一時五十分。授業が終わるのは十二時十分だ。私はほっとして息を吐いた。吐く瞬間、濡れたトイレの床が目に映り込んだ。
床の黒い汚れと汚れの隙間に微かに存在する白い床の上を用心深く、周囲を見回しながらゴキブリは触覚をしきりに動かしつつ、のろのろと歩いていた。
「ゴキ太郎、上を見ろよ。人間様がお前を殺そうと足を上げているぞ」
私は足をゆっくりと上げた。薄黒い影がゴキブリを覆い尽くす。ゴキブリは驚くべき速さで薄い影から遠ざかり、トイレの個室の扉と濡れた床の隙間を通り抜けて行った。その姿を自分と重ねた。ゴキブリだって危険を察知すると逃げるというのに私はまだ、敵が多く生息する学校に通っている。あまつさえ、敵の生息地でご飯を食べているとろさときたら、愚かにも程がある。
だけども、私には逃げられない理由がある。静けさが私にそっと問いかける。
「貴女は何でそんな所にいるの? 母子家庭で財政的にも大変なのに貴女の為に母親と父親の役割を果たしているお母さんに失礼だと思わないの? 雑魚? それは貴女が努力しないからでしょう」
努力なんてできるはずがない。弟が仕切りに話しかけてくるから、勉強に集中できないんだ。私は指の爪を噛んだ。安心した、自分はこんなにも自分に真剣なんだ。
廊下から運ばれてくる冷たい風が私に厳しい言葉を投げかける。
「弟が憎いなんて言うんじゃないだろうね。そうだとしたら傑作だよ、どんな物語よりも塩ちゃん物語は傑作だよ。人間の本質を実によく表しているよ。風のおじちゃんは塩ちゃんよりも長く生きているから人間って奴が如何に狭い認識しか持っていないって知ってよ。人間はね、自分を否定する存在に対する認識がほとんどで、それ以外の認識はほとんど、無頓着なんだよ。ほら、考えてみなさい? 君は何で虐められるのかな?」
背筋がぞっとした。自分の腕に蕁麻疹が我が物顔で蔓延っているのが見ずとも、痒みで解る。私は指の肉を歯で千切ろうとした。千切れちゃえ。
「違うって事は自分を否定される可能性がそこに微かでも存在するってことさ。淘汰される自分っていうのがリアルで見えちゃうんだよ。君も彼らに淘汰されるよ。まだまだ、彼らの攻撃は様子見に過ぎない。おじちゃんは塩ちゃんのファンだから警告したんだよ。逃げるか、淘汰するか? 早く選びなさい、塩ちゃん」
私は我慢できずにスリッパを脱いだ。スリッパの上に足を置いて痒みのある足の指先を掻いた。掻く度に気持ち良さと痒さが交互に訪れる。
頭がぼーとする中、風のおじちゃんが言っている事は偽りがないと気付いた。いや、風が喋っているはずはない。きっと、これは自分の心が自分に決断させる為にもたらした時間なんだ。私は思い浮かべた、あいつらが私に行った所業を。
あいつら、私のなけなしのお小遣いで購入したスリッパを五足も台無しにしてくれた。学校指定の緑色のラインがスリッパの周囲を走っているだけの無地のスリッパは一足、三百五十円もする。五足で幾らするのだろうと、指を動かして頭の中で計算する。そう、千五十円もする。違う。私は自分への苛立ちを覚えて、それを靴下に隠れた肌へとぶつけるように掻き掻きした。
ちくっとした痛みが脳内に広がった。ちくっとした痛みが靴下に隠れた肌に広がり、赤い花びらを咲かせ始めた。私はその堂々とした靴下の白に浮かび上がる赤い色に心を奪われた。
「もう、何もかも解らない。解らないからみんな、赤く染め上げちゃえば良い」
と私の唇は小刻みに震えていた。
もう、我慢できなくなっていた。まだ、叩かれたり、殴られたりされた事はないが、叩く振りを何回も同年代の人間から受けた。あいつらは私がぎゅっと、目を瞑るのを見て決まって笑うんだ。人間の理性のある声ではなく、野鳥のように節操のない金切り声をあげるんだ。そんな笑いを聞かされるだけで細い首を絞めてやりたい衝動に襲われる。もし、想像上でも殺人は罰せられるというのならば、私は歴史上の誰よりも罪深い人間だ。だって、親友だったまなをもう、何千回も殺している。絞殺、刺殺なんて生易しい。バラバラに切り刻んで、焼き肉用の垂れにまなのお肉を浸して美味しく頂いた事さえもある。今更、現実でできないはずはない。
風がトイレの個室の窓硝子を揺らしている。その音が耳障りだ。硝子を素手で割ってやりたいが、今周囲に騒がれると殺せなくなる。私は鞄をぎゅっと抱きしめながら、自分に言い聞かせる。
「割っちゃ駄目」
授業の終了を告げるチャイムが廊下中を満たすと同時に静寂を追いやるように人間達の楽しそうな安堵の声が辺りに響く。私はそれがいつも以上にうっとうしく、感じた。だが、一生トイレの個室で殺意を溜め込んでいる訳にもいかない。全ての感情には捌け口が必要だ。私はそれを求めて、ゆっくりと扉を開けた。
「何処へ行ってたの、雑魚。授業に出てこなくちゃ、学校にいる意味なんてないでしょ。やっぱり、雑魚らしく、じめじめとした場所でいじいじしていたのかな。ねぇ、雑魚?」
トイレから出てきた私の背中に笑みを含んだまなの声が触った。私は相手の顔を見ないで言葉を発すればどもらないと思った。そこで廊下の壁に立て掛けたまま、置き放しの箒に向かって声を発した。
大丈夫、箒は逆立った男性にありがちな短髪をしているけども、人間じゃない。
「わ、わ、わ、わ」
私はどもったが、向かい合っているのはただの箒だ。ほっとした。
「わ、わ、わ、わ、わ? 可笑しい。日本語くらい、ちゃんと喋りなよ。頭、大丈夫?」
実際の話し相手であるまなが冷然と言った。
その冷たい風を含んだ言葉が私の怒りを外へと一気に突き出させた。ただ、その怒りに任せてまなの肩を両手で突き飛ばした。
「わ、わた、私は雑魚なんかじゃない!」
突き飛ばされて尻餅を突いていたまなに叫んだ。突然の事にまなはただ、無感情な瞳を私に向けていたのだが、その瞳が私を矮小な存在と馬鹿にしている気がした。違うとは解っていたが、違うという意見を怒りが色鉛筆で塗りつぶしていく。その色鉛筆の色は赤い色だった。脳内にあるぐちゃぐちゃに赤い線に埋め尽くされた画用紙を現実に欲しくなった。私が欲している。私は目に痛みを感じながらもはっきりと周囲を見渡す。先程、まなの代役を務めてくれた箒氏では役不足だ。せいぜい、まなの頭にたんこぶを建造するくらいのしょぼい仕事しかできない。もっと、優秀な人材が必要だ。雑魚には相応しくない人材が。
生徒会にして欲しい事を書いて下さいという用紙とアンケート箱を私は机から追い出すべく、手でなぎ払った。アンケート箱はダンボールに緑色の画用紙を貼り付けただけの質素なものだった為、少し運動エネルギーを与えただけで向かいの壁まで転がっていった。白紙のアンケート用紙は景気よく、宙を舞って綿埃達が行き交う床へと落下した。きっと、綿埃達は目を丸くした者もいたし、潰されて巻き沿いを喰った者もいただろう。だが、私は彼らの日常を破壊できた事に満足している。
だって、私が私を褒めている! 褒めてくれたんだ、やっと。
ほら、耳をすませば聞こえるでしょう?
「やれば、できるじゃない。雑魚なんて呼ばれる必要のない女の子って事をあいつらはこれで思い知ったでしょう。ほら、ごらんなさい。貴女が創った世界の変動を」
私はただ、すっかっとしていた。いつものように廊下で別のクラスの生徒や先輩、後輩などと話していた性格も、行動パターンも違う人々が私の方を向いて非難の眼や、好奇の眼で私の姿をその眼に映している。私に注目している。ただ、雑魚でしかない砂糖塩じゃないんだ、私は。
机を掴んで軽々と持ち上げて、振り下ろす真似をしてみた。
「止めなさいよ、危ないでしょ?」
両手を前に突きだして抗議しているまなは私の眼には触覚の映えたゴキブリのように見える。いつもなら、ゴキブリのように私の視界に入っては感に障る言葉や行動をしてきたのに今や、私に竦み上がって動けないでいる。
私は笑いも、怯えもしなかった。ただ、机を持ち上げている。
「おい、止めろよ、雑、えーと、おい?」と男子生徒のまだ、声変わりしていない声高な声が耳に入って私の理性に金属バッドを振り当てた。ぐらついた。「知らねぇよ、あいつの名前なんて、雑魚でよくねぇ?」と女子生徒のけばけばしい声が私の理性を殺した。
だって、言っちゃいけないんだよ?
私はゴキブリ、雑魚に属する生き物に鉄槌を下す。机を自分の頭上まで上げた。不思議と両腕の限界を感じない。何でもできそうだ。
「違う。私はさ、さ、とう、し、しおだ」
見せしめに私の目の前にいる雑魚の頭に目掛けて、机を投げつけるべく、腕を振り下ろせと私に命令を下す。
「やめて、塩ちゃん!」
その言葉を聞いて止めた。塩ちゃんと呼んだ雑魚を凝らして見つめると、それは昔、よく遊んでいた友人の面影を残していた。飾りのない黒縁眼鏡を掛けて、ぼさぼさの髪をした論理主義者のまなの顔になっていた。感情論に対して反応するのが苦手なまなの顔らしく、涙を瞼に溜め込んで口をぎゅっと噤んでいる。
その論理的な親友だからこそ、言えた言葉が私の胸にまた、灯りを灯す。
「私と塩ちゃんはいつまでも友達だから。だから、蕁麻疹は移らないって私、知っているし、その傷跡は心が壊れているからじゃあないって知っているから。私、塩ちゃんを応援するよ」
仲直りをすれば、またあの言葉を言ってくれるかもしれないという何年も前に諦めた妄想がふいに蘇ってきた。
まなちゃんと。あの頃の優しかったまなちゃんともう一度、お友達になりたい!
だが、現実には遅すぎた。私の指先から机の重みが一気に消えていく。まなの頭上へと目指しているのが簡単に予測できた。
私は机を再び、掴もうと必死で眼を凝らして机が描くはずの放物線を見つめる。先回りして掴まなければならないと一度だけ、自分に言い聞かせた。
冷たい風よりも早く、脳が判断する最善の放物線よりも早く、私の手の本能が放物線を鮮やかに描く。
掌に重みが加わった。まなの悲鳴が轟く景色を私は眼に焼き付ける。焼き付ける必要はないのだが、身体に流れる血は眼が司る視覚と、腕から指先に掛けての神経に集まっていた。浅い溜息をしながら、茫然として机を持ち上げたままの私と、両腕で自分の頭を保護しているまなの視界が互いに通い合う。同じように恐怖の色を濃く残している青ざめた表情は互いの緊張感を和らげるのに充分だった。
私達はただ、歪な笑顔を浮かべ合っていた。
しばらくして、鎖骨まで伸びた髪と耳まで伸びた髪のツインテールをまなはじっと見つめていた。
「塩ちゃん、ごめんね」
「なんで謝るの。悪いのは私だよ。まなちゃんを殺そうとした私だよ」
私は周囲の景色が慌ただしくなるのを気が遠くなるような感じがしながらもしっかりと見据えていた。これから起こるのは殺人未遂を犯した者への嘲りと罰に違いない。
生徒達はまなと私の名前、雑魚という固有名詞を使いながらそれぞれの立場と考え方を全面に出して近くにいる親しい人と喋り始めた。それは混じり合い、もう誰が何を言っているのか、判別できない。その音は先生達が走ってくるのを確認すると次第に萎んでいった。まるでスピーカーの摘みを急激に落としたように。
「何であんなことしたという事は聞きません」
夕暮れを背にして西尾教頭が弛んだ頬を震わせながら私にゆっくりと喋る。この独特の喋り方、ブルドッグ法はこの先生がわざとやっている話法でもないし、この話法の名称を先生自身は知らない。緩慢な足運びで質素な会議用の机をぐるぐると歩き回っている。
生徒達が言い出した話法、ブルドッグ法という言葉に相応しく、スキンヘッドと額の中央部に時折、皺が寄る。その皺がブルドッグの皮膚の弛みと似ている。私は直視すると笑い吹いてしまそうなので、窓硝子に映り込んでいる蜜柑色の太陽の光を見つめた。
「どうして? って顔をしていますね。貴女は我が校にとって不必要な生徒だからです。親御さんを説得して何処か、違う高校へと移ってもらいますよ」
どうして? という顔なんてしていない。ただ、自分が中心にこの話が進められていないような遠さを覚えていた。それを先生達は知りようがない。雑魚は人間じゃないもの。 向かい側に座っている三木先生は私の視線に気付くと窶れた頬を緩ませて微笑んでみせる。僕は君の味方だぞとその笑顔は語っているが、雑魚は人間じゃないから完全に理解しようがない。
「教頭、そんな言い方は、生徒には」と短く三木先生は掠れた声。
「勘違いしてませんか、先生? 私達は慈善事業をしている訳ではないんですよ。私達は所詮、利益を求める一団体でしかない。一般企業はお金ですが、私達は優秀な生徒を保有して良い意味で世間に活動が認められ、その結果、県からお金を頂く。ね、利益ありきでしょう」
ブルドッグ似の教頭は立ち止まって、間抜けな表情を精いっぱい、引き締めて悠然と言った。だが、どうみてもブルドッグでしかない。私が雑魚だという事実と同じように。
ブルドッグは疲れてその場に惚けるブルドッグのように机を突っ伏して私ではなく、何処か遠くを見つめている。雑魚は物置のように本棚が四方を固めている狭い生徒指導室で身を縮ませているに相応しい存在なのだ。視線をブルドッグへと向ける。
「話が脱線しましたね。とにかく、貴女はこの学校から去って頂く事になるでしょう。心配は要りません。世間に貴女の悪評が公表される事はありません。信用第一の時代なんですよ、学校もね」
そのブルドッグの言葉が終わるか、終わらないかの時に隣のパイプ椅子が床と擦れ合い、歪な音を奏でた。私はそちら側に目を向けるとまなが充血した目でブルドッグに威嚇していた。
「先生、塩をこの学校から追い出さないで下さい。追い出されるべきは私なんです。自分の安全の為に塩を見捨てた私なんです。塩は兎みたいに大人しくて甘えん坊な性格なのに私が無視し続けたせいなんです」
「そんな事実は確認できていません。数人の生徒からそれとなく、砂糖塩についての情報を提供して貰いましたが、どれも悪評ばかりですね。授業に出ない事もしばしば、あるとか」
私を一瞥した。教頭はワイシャツのポケットをまさぐったが、お目当ての煙草箱がないと拍子抜けした顔を大袈裟にして、小娘の言葉には動かされない意思表示をした。雑魚にもそのブルドッグ戦略は見え見えなのだから、まなには当然見えているだろう。私はこれで誰も反対意見は言えずに終わったなと思い、机の影に隠れている膝を見つめた。膝の上にあるちっぽけな手の甲を無言で睨む。
「たった一度の失敗で塩を追い出すおつもりなんですか。そんなの大人のやり方じゃない」
厳しい口調と一緒にまなの拳が机を震わせる。空気中に漂い始めた埃達が太陽の光に照らされてその白さを私の前に見せる。それはまなの感情を表すかのように純粋だ。私は吐こうとした溜息を飲んだ。
教頭はスーツに付着した埃を払いながら、空いている席に時間を掛けて座った。
「大人のやり方? まなさん。貴女は優秀だからご存じと思いますが大人はもっと汚いやり方をするんですよ。同じが大好きなんですよ。出る杭は打たれるということわざがありますが、それこそが社会の真理なんです。この学校という組織も一つの社会です」
「教頭、そんな事は生徒に言うべきではありません」
と口出しして、泣き突っ伏しているまなを擁護しようと席を立った。まなの肩に触れようとする三木先生の手をまなは払った。
私には理解できない。どうして、雑魚なんかを庇うの、まなちゃん?
私の視界はいつの間にか、熱を帯びていた。
「現代の生徒達は自分だけで世界が回っていると思い込んでいるからこそ、出る杭になっているからこそ、能力の低下が著しい。出る杭は処分しなければなりません。砂糖塩、警察に通報しないだけでもありがたいと思いなさい。貴女のした事は殺人未遂です」と教頭は言葉を切ると咳払いをした。「もうすぐ、親御さんが来ます。砂糖塩にはとにかく、この学校から去っていただきます」
教頭は三木先生の顰め面を見ると、首を横に振った。
「それなら、私も学校から」
と小さな子が泣き喚いた末に出す崩れた声にも似た声で訴えかけた。
「まなちゃん、駄目。これは私の罰だから。私だけで背負い込むよ、私は雑魚だからまなちゃんみたいな優秀な子の邪魔をしちゃいけないんだよ」
私ではない私が言葉を発した。こんなに優しい喋り方でどもりもしない私なんて私ではない。私の視界は水っぽい。頬に手を添える。そんな事せずともそいつの正体は知っている。涙を私は初めて否定したかった。これは自分を哀れむだけの涙だからだ。
それ以来、私はまなちゃんと会っていない。結局、何もかも遅かったのだ。
バス停の停留所まで私とお母さんはお互いに無言のまま、歩いた。罪悪感で押し潰されそうだった。
もっと、頭が良かったら? 雑魚にはならなかっただろう。
もっと、人間を虐めるのが上手かったら? 雑魚にはならなかっただろう。
もっと、運動が出来たら? 雑魚にはならなかっただろう。
何もないから雑魚になったんだと頭が痛くなった。堪えきれずに、バス停の停留所付近のベンチに腰掛けると口を開いた。開いた時、口の中が渇いている事に気が付いた。
「お母さん、御免ね。パートを抜けさせちゃって」
その声が妙に自分の耳に近いような気がした。
「良いのよ。お母さんは信じているから。その髪は虐められて切られちゃったんでしょ? 気分を変えて次の学校で頑張るのよ」
同じようにベンチに座っていたお母さんの顔には皺が目立ってきていた。目元の隈も化粧で隠さなければならないくらいに濃くなってきている。私はお母さんが最近、胃薬を飲み始めた事を思い出して泣きたい気持ちになった。
「無理だよ。私は人間じゃないから」
と私は私に言い訳した。その言葉は自動車の走行音に消された。ほっとした。
私はまた、頑張り始めた。西肩高等学校から集然高等学校への転校は私が考えているほど、ドラマテックな展開ではなかった。書類一枚と一度だけ、学校が休みの日に集然中学校の校舎を見学したくらいだ。三木先生のご厚意で私が虐められっ子だった事は、集然中学校の教師 瀬能明世に伝えられていた。明世先生が私の担任の先生なった。
一月に入ったという実感を感じさせてくれるような白い曇った窓を一枚一枚眺めながら、私の心は深みへと沈んでいく。きっと、私はまた、失敗する。
「塩さんは西肩駅から集然駅まで電車通学なんですね。私も実はそうだったんですよ。初めての電車通学はわくわくしましたね。何度も定期を確認しては電車に乗っている間、手にずっと持っていましたよ。塩さんはそんな感じになりません? こうわくわくという感じになりません?」
背の高い癖のある髪をそのままにした風貌の男性教師、明世先生が私の緊張を解くためにフランクな喋り方をしているのだと知っていた。だが、私は今、とても忙しい。うんとだけ、女の子らしく静かに頷く。太ももの裏辺りに痒みが発生してきた。どうやら、緊急の蕁麻疹達の会合があるようだ。私は彼らを接待するべく、指先で一生懸命掻き始める。強すぎてはいけないので時々、遅く掻く。
「来年は受験だからね。頑張って行こう。勉強でも、運動でも。勿論、恋の相談にだって乗るぞ」
明世先生の抑揚のある声が廊下中に響いた。私は思わず、竦み上がった。その姿が自分の喋り方が生徒に受けたのだと思わせたのだろう。彼は満足した表情で私の前を歩いていく。二年三組というプレートのついた教室へと私達は入った。
そこには同じような顔をした人間が沢山座っていた。どの人間もお行儀良くしているがみんな、表情はとても生き生きしている。
それでも、私の全身を痒みと緊張が同時に雪崩れ込んできていた。そんなに一辺に来られては塩コミュニティーセンターの収容許容量を越えてしまう。
「みんな、おはよう。今日も元気に飯喰ってきたか? 先生は焼き魚を食べてきましたよ」
「はい、先生」
とみんな、訓練されたように声を揃えていた。私は太ももの痒い箇所を懸命に平手打ちしながらそれに違和感を感じた。鈍感教師と嘘つき生徒達の構図が目に浮かぶ。
しばらくして、新しいお友達として私が紹介された。
「さ、さとうし、しおです、宜しくおねがいし、し、し、し、ます」
この挨拶のお蔭で私は集然学校でも雑魚になった。当たり前だ。違う生物同士で共存するのは難しいんだ。
人間とゴキブリの共存が成り立ちますか? と私は集然高等学校のトイレに住まうゴキブリ達と話し合う日々が始まったのだ。