act 1-akira 仲間
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眠れなかった。ただ、暗い天井を見つめていた。これが新築でなければ、天井の染みについて考察を巡らせるのだが、染み一つなかった。俺は机の上にあるダンボール箱からスナック菓子を取りだして、枕元に置いた。布団の上に俯せになって、スナック菓子を開ける。口に含んだ。
「砂糖味と塩味の甘塩具合が美味しい新感覚のスナック菓子です、とでもしたかったのか、この朝顔とかいうスナック菓子」
砂糖と塩が口の中で交互に襲ってくる。俺は砂糖、塩から連想される砂糖塩せんせの顔を思い浮かべた。思い浮かべた瞬間、股間が膨張した。俺は自分に対して嫌悪感を感じた。
俺は振り払うように股間から意識を外して、スナック菓子を食べるという行為だけに専念する。だが、このスナック菓子がいけなかった。
砂糖塩せんせの唇は砂糖味なのか? 塩味なのか? 証明せよ。そんな数学の証明問題が俺の頭に意図的に創り出した白紙空間に勝手に書き足される。しかも正解すれば、塩せんせからチュウのプレゼントと本来ならば、正解すれば得られる得点の箇所に書いてあった。
凄く、真面目な静けさに満ちていたはずの空間が塩せんせだらけになっている。俺は枕に顔を押しつけ、不思議なくぐもった叫び声を出した。
携帯電話を開くと時刻は午前三時を表示していた。淡い液晶の光をじっと、見つめていたら目が痛くなったので、携帯電話から目を離し、立ち上がる。握り締めた携帯電話からは兄貴の思いやりが伝わってきた。昨日、兄貴は俺を完全に見放すものだと考えていた。両親のように。だが、兄貴は夕方頃、帰宅するとケーキの入った箱を右手に持って、左手には携帯電話の箱を持ってまっすぐ、俺の部屋へとやってきた。俺はその時、明日学校で使う教材を塩せんせから貰った時間割を片手に準備していた。その表には、
一時間目 英語
二時間目 数学
三時間目 英語
四時間目 英語
昼休み
五時間目 数学
と書かれている。
何故? 数学と英語しかないのだろうと首を捻りながらも、押し入れの中に眠っていた黒いリュックサックに教科書、参考書等を詰めている最中だった。兄貴はノックをせずに興奮した様子で、
「とりあえず、学校に行くんだろう。まぁ、景気づけにケーキでも喰ってくれ。今の高校生は携帯電話を持つのが当たり前だろう、これ」
半ば、胸にケーキの入った箱と携帯電話の箱を押しつけられる。戸惑いながらもそれを持った。兄貴はニヒルな笑みを浮かべるとこちらに向かって親指を立てる。
「ありがとう、兄貴」
俺は携帯電話を握り締めて昨日と同じようにそう静かに言った。嬉しさと同時に何かが喪失するかもしれない漠然とした喪失感が体内を渦巻いていた。
そうだ、俺は孤独ではないのだろうか? いや、孤独なはずだ。孤独でなければならない。でなければ、この半年以上に渡る引き篭もり生活が根本から崩れてしまう。普通ではない人間は、孤独にならなければならないのだから。普通人の普通ウィルスは空気感染だ。そう、解っていながらも俺は扉を開けて学校へ行く支度をする。
鏡で見た自分の顔は貧相を通り越して、不気味だった。まるで自分が知らない人物に変身してしまったようだ。細い輪郭を覆うように髭が生え、鼻毛が五本程外に見えた鼻の穴と乾燥した唇の間にも教科書の偉人に子どもが落書きしたような髭が生えている。
「とても、俺とは思えないな」
と独り言を言いながら、一週間溜まった汗の結晶が付いている髪先を手で梳く。両手についた髪の油は指先を光らせていた。指先を鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。別に嫌な匂いはしない。いや、自分の体臭は嫌な感じがしないと昔、誰かから聞いたか、あるいはテレビ番組の情報で聞いたことがある。
塩せんせは顔を顰めずに化け物のような容姿の俺と対等に真剣に話してくれていた。心臓が早鐘を打ち、今すぐ塩せんせの事を塩ちゃんと呼んでみたくなった。
シェービングクリームを付けた男の卑しい微笑みはとても、塩ちゃんと言っては犯罪だろうという人相だ。爽やかな高校生に変身すべく、髭剃りを手にして髭をゆっくりと剃り始める。シェービングクリームが取り除かれた後はつるつるお肌が薬品の匂いを放っていた。なんだか、爽やかな匂いだ。
次は太いマジックで書いたような眉を綺麗に細く整えた。ついでに鼻毛を切る。
洗濯を繰り返して緑色が薄まったジャージを脱ぐと少しお腹が出ているはずなのに突然、山は消失していた。いつから、あばら骨がバンザイすれば、形が解るほどに痩せてしまったのだろうと考えたが明確な日時は解らなかった。その代わりに赤い粒のような小岩が首筋や鎖骨、腰の括れ辺りにあった。汗疹だ。気分が赤色信号になった。
それでも、お風呂に入るという現代人にとっては常識的行動へと移行するのは辞められない。生まれ変わった姿で塩ちゃんの前に現れてかっこいいと思われたい。
「馬鹿ですか、俺は。違う、違うだろう、俺。頭の中に幼女を住まわせてどうするんだ。あの人と一緒に歩いたら、きっと恋人とは思われずにまぁ、可愛いお子さんです事って二丁目の浜中のおばさん辺りに勘違いされるぞ。浜中さんの音夏ちゃん九歳児にお兄ちゃんのお嫁さんになりたいっていったのにその子にはなんでオーケーしたの? と咎められるだろう。俺は」脱いだ膝の所に穴が開いたジャージのズボンを見つめる。「穴があったら、入りたいぞ。今の桃色発言は」
俺は塩せんせのいる学校で学びたいと思い直して、お風呂場のノブを握り締めた。
忘れていた。世界はどうしようもなく、揺らいでいて崩壊寸前なのだ。白い湯気達の隙間から見える世界は蛍火のように揺らぎ、様々な色を俺に見せている。それは蛍火のような幻想を与えてくれるものではない。胸を締め付けられるような恐怖をくれるのだ。緑色の粒達が蟻の如く、忙しくなく蠢いている。
叫びたい。
凝視するとその緑色の粒達はちゃんとしたタイルに戻っていた。床も壁も戻っていた。俺はほっとしてシャワーの取っ手を取ろうとした。だが、取っ手も白い粒達に早変わりしていた。握った感触は自分が過去に認識している取っ手の硬質な手触りと同じだ。ちゃんと雨状の温水もシャワーから出ているじゃないか。
叫ばせてくれ。
泡だらけの両手で頭を抱え込んで、しゃがんだ。自分の長い髪の手触りや、踵とお尻がくっつく感触が世界はまだ、崩壊していないと教えてくれる。
叫ばせてくれ。こんな粒だらけに浸食された世界で普通人として生きる生活に耐えられない。朝起きて、喰って、仕事して、昼喰って、仕事して、夜喰って、少しの時間が自分の時間として残る。風呂入って、寝る。それの繰り返し。それで幸福なのか。世界は牢獄だ。
だって、あいつらはせせら笑っているじゃないか。周囲を見渡すとどいつも、こいつもせせら笑っているじゃないか。白い粒達の元シャワー君も、緑色の粒達の元タイルさんも、銀色の粒達の元浴槽ちゃんも、泡のついた白い粒達の元ボディーソープ氏、元シャンプー様、元リンス殿も、音夏ちゃんから誕生日に貰った茶色、音夏ちゃんが言うには風呂好き熊さんも……。
流れる泡水に向かって叫びではなく、黄色い粒の混じった滑りのある水が口から放出された。臓器まで流れ出てしまうような力に打ちのめされながらも、俺は必死に普通が一般的な世界にしがみついた。口の中には砂糖と塩のきつい味がする。
俺は叫んだ。
「塩せんせ、最期まで努力しないと涙を流しちゃ駄目なんですか。怖いんですよ、全てが。だって、解らないじゃないですか」
世界=全ては常に蠢いていて、自分すらも裏切ってゆく。それなのに、俺は砂糖塩=赤の他人の介入を望んだ。
黄色く濁った水が透明な水に戻るまで眺めていた。
携帯電話を見ると午前四時過ぎを表示していた。当然の事ながら、街はひっそりとしていた。途中、兄貴と出逢って昼飯代と散髪代として二万円を貰った。それは有り難く貰うが、釣りはいらないから友人と茶でもしてこいというお言葉はいらない。
静寂という名のコーヒーに耳障りな声というミルクを注いでやりたいくらい街は動いていない。このまま、街が停止していたら全ての者にとって幸福だろうな、とふと考えた。
例えば、だ。俺の横にあるシャッターの閉まった八百屋 閂、この店で午後三時過ぎに買い物に来た主婦が無職の男に刺されるかもしれない。動機は自分の顔を見て主婦が笑っていると思って刺した。だが、逆に幸福な場合もあるだろう。例えば、俺が数分前に買い物をしたコンビニで午後五時頃に金欠の女子高生が五百円分、砂糖と塩が混じったスナック菓子を買ってくじを引く権利を得た。そして、引いたら商品券一万円分が当たった。なんていう事も有り得る。だが、どっちが転んでくるか、解らないんだ。
シャッターの閉まったスーパー くるくを一瞥してから屋根が備え付けられた駅の待合いスペースに入る。すぐさま、切符を購入する。西肩高等学校のある西肩駅までの料金は三百二十円だ。たった二駅でこの高額料金はJRではなく、私鉄である為だ。おまけに大雨や台風がくると過剰に止まるのが早い。一時間に一度くらいしか普通電車が来ないという弱点を持つ。
明日から定期を買わなければならない。確か、学生証があれば、一割値引きされるはずだ。この通学の日々を俺は続けるのか?
「お客さん、前がつかえてますから早く切符を出してください」
茫然と立ち止まっていた俺に駅員は不機嫌そうな表情を露わにした。目が早く行けよ、と言っている。
「あ、すいません」
俺はわざとらしい微笑みを浮かべて相手を挑発するように一瞥をくれたが、相手は鼻で笑った。このお客様に対して生意気な駅員様は誰だ? と俺は相手のワイシャツの胸部についたプレートを睨んだ。村木と書かれてあった。
「普通だ……」
階段を上がりながら、俺はそう呟いた。むしゃくしゃしていた。このまま、普通に年をとって死んでしまうと思うと、今すぐ死んでもいいと考えた。
その考えはまるで長年連れ添った夫婦のように俺の心にまとわりついてきた。俺は俯いて、床だけを見つめる。埃が太ももにぶつかっている熱風によって、左右に動き回って俺に奇っ怪なダンスを見えてくれる。
くるっと、回ってジャンプ。おっと、着地失敗。埃選手、金メダルを逃しました! という実況が耳元に聞こえてきた。驚いて、周囲を見渡してみた。周囲には頭の天辺が禿げた典型的な中年男性サラリーマン、携帯電話を弄くっては微笑んでいるOL、疲れ切った表情が眉間の皺に出ている眠り込んでいる年配の男性しか、この車両に乗っていない。
周囲の音は昔の電車の走行音、ガタン、ゴトン、ガタッ、ゴトを未だに引き継いでいる緑色のペンキで塗りたくったボディーが皮肉な意味でかっこいい普通電車の走行音によって遮断されている。電車の中ではよくある事だと、欠伸をして空気を逃そうとした。だが、耳はくぐもったままだった。
周囲の人間は日本語ではない普通語を話しているんだ。だから、俺には理解できないんだと両耳を塞いだ。両腕で膝を付く。そして、床を見つめた。まだ、世界の崩壊現象は起こっていない。だが、自分の意識を強く持っていないと自分が消えてしまいそうだった。いつものことだと後五分程の埃のダンスを堪能しようとした。
「景色が変われば、気分は変わる」
爪先を髪に食い込ませて、心の中でそう呟いた。
呪いのように、頭に血が通うのが解るくらい活発な脳にその言葉を伝える。両足を揺すぶり始める。これを毎日、続けるのか! と叫びたい。普通人の基準を俺に当てはめるなとこの基準を定めた大人に抗議したい。脳に血が送られる度に頭がチクチクする。
床が朝日に照らされて新品のように光沢を放っている。それまでもが憎い。充血した瞳で睨み付けた。それが眼力によって消えてしまえばいい!
右肩に下方向へと押される圧力を感じた。咄嗟にその力を加える人物へと凄みを利かせる。
真ん丸とした興味津々といった感情を惜しげもなく披露している瞳と出逢った。その瞳の奥には子どもの如き無邪気さと、大人の達観した理性が入り交じった輝きが黒光する虹彩となって露わになっている。
その虹彩の向こうにある塩せんせの俺には理解しがたい心に、俺を救おうとした考えを産み出した脳に、眠気覚ましに水を飲んできたであろう食道に、塩という女性を動かし続けている未知の力が眠る心臓に、塩せんせの胸の一部になりたい。そうすれば、不快な世界にいる事もなく、ずっと、視るだけでいられる。
俺は自分の考えにはっとした。急激に何か、恐ろしい映像が浮かんだ。
何か? いや、違うな。自分は望んでいる。
塩せんせの紺色のスーツの下に隠れている小さな乳房を想像した。唾が多量に口に満ちてゆく。最高のご馳走だ。それを手にする為には自分は身体という不自由な魂の牢獄から抜けなければならない。魂とその乳房が出逢ってこんにちは、するんだ。
恥ずかしくなった。自分ではない何者かの考えだと、俺は塩せんせに愛想笑いしながら、そいつは他人だと決めつけた。鼓動が早まる。顔全体が火照る。
「おはようございます、塩せんせ」
生気のあるリアル異性の笑顔に感激しつつ、お辞儀をした。異様な程、長い前髪を掻き分けて、直した。直し終えるのを待っているのか、塩せんせはじっとこちらを見据えたまま、微動だにしない。その動かない様は縫いぐるみの猫ちゃんを連想させた。
「おはよう、昨日は眠れたかな? ん?」
塩せんせは手摺りに掴まったまま、三歩ほど、前進した。それだけで身長の低い塩せんせの存在感が鰻登りする。塩せんせの影が目の前に眩しい程、溢れていた太陽光を遮ると塩せんせが輝いているように錯覚させた。それが自分の心に巣くうわがままな影を尚いっそう、嫌悪させる。俺は口を結んでいたが、塩せんせの視線に耐えきれなかった。
「いや、眠れなかったです。緊張するじゃないですか、なんだか」
「まるで遠足前の子どものような言い方ですね、章君。緊張感があるのは良いことですよ。日々の暮らしが充実しますからね、何も考えないで過ごすより」
「新鮮だ。そんな考え、俺にはないですよ」
「人間、真っ直ぐ一方向に向かって走っていると周りが見えなくなるんですよ。だから、たまにはほら、こんな景色なんかも見てみると新鮮ですよ」
塩せんせの普通人離れした、普通人を製造する業者の立場であるはずのせんせの発言に驚いている俺を尻目に、俺の座っている座席の空席部に膝を付いて窓を開けた。
身体を包むように大気は抱いてくれた。背中をさすられている気分だった。誰に促される訳でもなく、明確な理由がある訳でもなく、俺は大気の身体を吸い込む。それを取り込んだ時、身体の怠さが取れた気がした。
塩せんせの肩に白い糸屑が付いているのに気が付いた。思い切って俺は糸屑を指で摘んだ。塩せんせは驚いて振り返ったが、糸屑を見せると猫のように興味を失ってきっと、俺が視ているのとは違う景色を視るのに集中した。俺も同じ方角を視ているのにどうして、人は感性というフィルターを通して物を視てしまうのだろう。
海は太陽の光を素直に受け入れて、自分を輝かせている。そんな海の自信に溢れた大きな身体の上に歪な島影が見える。その島影からこちらへと向かって白い点のような物が無数に蠢いている。
目を細めて、もっと窓枠へと近寄る。アイスクリームの匂いが風に乗って俺の鼻先へと入り込んだ。
どうやら、船のようだ。白い点に赤い色や、青色等の異色が混じっている。白い煙を黙々と上げている。
何気なく、横へと視線を移動されると塩せんせのツインテールと唇が触れているのが見えた。髪先が優しく唇を撫でる感触がいつまでも俺の体内で反響する。塩せんせは気が付いていないみたいだった。じっと、自分だけの景色に見入っている。
この隙にとばかりに塩せんせのツインテールを眺めた。髪先は千差万別の方向に流れているのが解る。仲間の髪と同じ下方向に真っ直ぐ流れている者もいれば、一人捻くれて道に迷っている者もいた。それが可笑しくて声を出して笑った。
「綺麗ですね。海の底に宝石が沢山、埋まっているみたいですよ」
笑った理由を誤魔化すように感想を述べた。
「思わず、宝石を探しに海へとダイブしたくなる?」
塩せんせのツインテールは振り向き様にゆらゆら、と揺れた。それと小柄な体型が似合っていて可愛い。
「はい。せんせみたいな普通の生活をしている人でも普通の話以外にそんなロマンチズムな話が出来るんですね」
「せんせはこう見えても色々経験してきた大人ですよ。周囲の人のほとんどがあの海の底にある宝石を無数に持っているんです。ただ、それを周囲の人は価値のないものだと捨てているだけですから解らない」
「哲学ですね」
「違うよ、ごくありふれた事なんだよ。章君が考えている哲学という言葉は難解なジャンルと解釈されているぽいけど、実は違う。目には見えない言葉を紡ぐジャンルなんだ。そう、考える事ができるのも宝石」
「解らない。きっと、俺は普通の人々のくだらない喧嘩を見てきたから、毎日に、毎日。だから、俺もくだらない、低脳な、馬鹿な、屑な人間になってしまったんだ。俺は俺でいたくない。塩せんせ、どうしたら今の俺を殺せますか?」
殺すという非日常の言葉が塩せんせの前ではすらすら、と言えた。理由さえあれば、目の前にいる塩せんせという奇妙な教育者は受け止めてくれると確信していた。
「君の優しい感受性まで君は殺すの?」
塩せんせはすぐにその言葉を口にした。表情には子供染みた微笑みは消えていた。堅さに帯びた表情で眉間に困ったなぁ、という皺が寄っていた。それはまだ、考えの続きを考えている人の表情だった。
「そんなの在りはしませんよ、俺は冷たい人間です」
母さんを壊してしまったから。助けられなかったから。でも、当時の自分には力がなかったのだ。それが故に俺の母は死んだ。今、実家にいるあれは母の皮を被った別のものだ。
そう考えると、拳に自然と力が入った。その拳を見つめた。そうだ、これであの紛い物をぶち壊せばいい。どうせ、世界は崩壊しようとしているんだ。
良い案が思いついた俺はどうしようもなく、顔がにやついてしまった。なんだ、簡単な事じゃないか。何故、気付かなかったんだ。
そんな俺の狂気を見透かしたように塩せんせの掌が拳に触れる。塩せんせの冷たい手が俺の考えていた事を馬鹿らしくさせてゆく。狭い考えだと無言で悟る瞳が俺を射貫く。まるでその瞳を視ていると塩せんせの優しさに手繰り寄せられているようだ。
「いいえ、君は優しい人ですよ、いつか気付かせてあげますから」
「期待してます」
不本意ながらも俺はそう応えてしまった。自分でも驚いて口を開けたまま、唖然とした。悪くないと思い始めている自分に慣れない。ただ、頭がぼーっとする。電車のガタッ、ゴト、ガタッという音が頭を通り抜けてゆく。俺はただ、塩せんせの傷や出来物一つ無い太ももをプリンみたいにすべすべで、柔らかそうだと意味無く、思っていた。
せんせのお腹が校門をくぐっている最中にぐぅ、と可愛らしい異音を奏でた。俺はくすり、と笑ったが自分もご飯はまだ、だとせんせに素直に告白した。仲間だね、良い考えがあります、と豪語したせんせに連れられて俺は今、家庭科室にいる。塩せんせが家庭科室の扉を開けた時にやっぱ、秀雄ちゃん戸締まりしていないラッキーという言葉は聞かなかった事にしよう。だが、気掛かりだった。粗末な丸い椅子に座って挙動不審に辺りを見回す。
長机の右側に流し、左側にガスコンロが二台、取り付けられている。塩せんせが背後にある食器棚から鍋とお椀二つを持って、机に置く。黒板の横にある大型冷蔵庫へと飛び跳ねる。二足歩行の兎だ。
きっと、塩せんせの大好物があるんだなと俺は興味を持ち、塩せんせの背後から冷蔵庫の中を覗いた。冷気を帯びた煙を塩せんせは咄嗟に避けて、中にある肉や卵、漬け物ではなく、ファミリーサイズのアイスカップを両手で大事そうに抱きしめる。そして、そのまま持ち帰り、鍋へとアイスカップを逆さにして、全て投入した。
俺は思わず、固まった。アイスはそのまま、お椀に装って食べれば良いと言おうとしたが、塩せんせの前歯を少し覗かせた満面な笑みという光景に割って入れなかった。鍋をコンロに置くと、あろう事か熱し始めた。
アイスは見る見るうちに溶けて、甘ったる匂いを家庭科室中に充満させた。俺は両手で口を塞ぎながら窓へと歩むと、窓を開けようとした。
「何やってるんですか、アイスの香りが逃げちゃうでしょう」
塩せんせは子どもみたいに頬を少し膨らませて抗議の目を俺に向けた。仕方なく、机に肘を付きながら、さらに掌に頬を載せて塩せんせの調理、お飯事を堪能する。しゃもじで溶けたアイスをかき回している姿は小学生と錯覚する程、常識外れな調理だ。
常識? それを俺が言うのか、と自分自身に問い、なかった事にする。
「まだ、ご飯を食べていないんでしょ。ほら、ホットアイス美味しいよ」
「せんせ、ホットアイスって意味が解りません」
と俺は手を挙げた。
「嘘。知らないの。きっと、章君がひっきーやっている間にホットアイスブームが起こったんですよ」と弾んだ声で言いながらアイスが溶けただけにしか見えないホットアイスをお椀に注ぐ。それから塩せんせはおもむろに自分の鞄からパンの耳の入った袋を取りだした。パンの耳を一切れ、手で摘む。「それでね、この砂糖の甘い味のするのに食パンの耳を付けて食べる」塩せんせは迷いなく、パンの耳をホットアイスに付けて、その中で一周掻き回してから口に含んだ。「ベリーグッ」
と一度、パンの耳を口から離す。パンの耳の肌色だけがあり、唾液と今は亡きアイスで湿っていた。その光景は俺の食欲を無くすには十分だった。
せんせはしわしわになったパンの耳をまた、ホットアイスに漬け込む。今度は長い間、漬け込んでいる。
「せんせ、そんなブーム、嘘だ」
「きっとって言ったよ、章君。ちゃんと人の話を聞かないと英語のリスニングで得点を得るのは難しいぞ。英語は耳を使って学習するんだよ。自分が言葉にした英単語、外部から入ってくる英単語。外国なんか長く行くと英語をすぐ、覚えられるっていうのは耳を使って英語を意識するからだね、自然に」
喋りながら、パンの耳を頬張る。頬が膨らんでとんでもなく、不細工な顔になった。その頬を押したら、どうなるのだろうという科学的な探求心が燻ったが、そんな事したら臍を曲げるだろう。ここで言葉を返さない方が塩せんせは食事に集中できるのだろうけど、俺は隙間なく、言葉を返す。如何にもわざとらしい真面目顔を浮かべる。
「やめて下さいよ、朝から英語漬けにするのは」
「ホットアイス食べないと駄目ですよ。朝の栄養補給はとても重要なんです。食べないと脳は眠ったまま」
スプーンで塩せんせがホットアイスと呼称している液体を掻き回す。掻き回していると、白い渦になる。バニラ味の渦巻きをはっきりと捉える。食べるよりも渦巻きを見ていた方が和む。俺はテーブルに肘をついて、さらに景気よく、ホットアイスを掻き回す。
「いや、こいつをね。俺には食べる勇気がありません」
「アイス嫌いなの。信じられないよ。子どもはアイスが大好きなんだよ。それとも現代人にありがちなサンドイッチを食してばかりで、パンの耳はあまり食べたことがない症候群?」
掻き回している手を退けて、塩せんせは食べないなら君の分を食べちゃうとも言わずにパンにアイスの液体を浸して食べる。無言で食べなくても良いのに、と俺は腹立たしさを覚えた。普通、こんな些細な事で腹を立てる人間ではない。だが、塩せんせに相手にされないと無性に焦りを感じる。
もう二度と、構って貰えないかもしれないと。張り詰めた弦のように心の平穏は危うい状態で保たれている。俺は弦をそっと、指で摘んで揺れないようにする。
「奇病ですね」
俺はせめてもの、抵抗とばかりにそう言って、席を立つ。窓枠に肘を付いて、黙々とアイス付きのパンを食べる塩せんせの幸せそうな顔を見つめる。
学校の早朝はとても、静かだ。スプーンとお椀が触れ合う交流の音楽が奏でられているだけだ。それは他人と他人が分かち合った瞬間の爽快感にも似ていた。それを奏でているのが塩せんせだと考えるとその音をずっと、聞いていたい衝動に駆られた。
この音は俺の芯まで温めてくれる。いつか、世界が崩壊した日……を忘れさせてくれる。あれ? いつだっけ、その日、その瞬間は。俺は俺を認識できなくなった。眼には背中を丸めて、地面に足が付かず、両足を仕切りに摺り合わせている。塩せんせの赤い発疹が岩石のようにごつごつした両足が見える。
だけど、それは俺が認識している全てではない。眼ではない眼が違う物を俺に見せる。それだけはやめてくれと俺は顔を顰めて、仕切りにおでこを撫で回す。
俺は俺になる。俺は俺の一部であり、俺の一部でしかないのだから受け入れろ。
今までのように忘れていたい。忘れさせてよ。
「お前が悪いんだ! だから、章が県内トップの学校に入れないんだ!」
「違うわ、章は他の子とは違うんです。脳の出来が違うから、幾ら努力したって忍のようにはなれないんです。私達にできる事は」
「そんなの外見からは解らないだろう。このままじゃあ、俺達は良い笑い者だ。楚質グループのトップに立つ私の息子が出来損ないなんて良い笑い草じゃないか!」
がみがみ言い合う父と母の声を俺は聞いていた。知ってしまったんだ、俺は兄貴に言われて頑張れば報われるんだと信じてきた。だけど、飛べない鳥は確かにいるんだ。幾ら、空に焦がれていても、俺はただ、青い空の向こう側を想像で補うしかない哀れな鳥。
割れる食器の音。止めてくれ、塩せんせの音へと交わらないでくれ!
俺は暗い廊下の壁に背を凭れて、聞き耳を立てる。俺は塩せんせの忙しなく動く唇を見つめている。
「貴方はそんなに世間体が大事なのですか」
「大事さ。このままじゃあ、章は入れて、三流の高校くらいだろう。あいつの為に金を摘むのは正直、無駄とさえ思える。忌々しい、出来損ない。家の恥さらし」
「何もそんなに怒る事、ないじゃない。誰だって不得意な」
「貧乏人の家系に育てば、それで清まされるだろう。けどな、名家なんだ。昔はああいう人間は一生、外へ出さないのが一番だった。今じゃあ、馬鹿みたいに擁護ばかりしてやがる」
「貴方、自分の子どもの目の前でそれを言えますか」
母の金切り声に混じって、ボトルが割れる音が聞こえる。多分、父が愛飲しているワイン、ロマネ・コンティのボトルだ。止めてくれ、俺の塩のいる和やかな風景を汚すな、エリート普通人。普通人さえも馬鹿にする想像を越えた理解不能な生命体め。
「ああ、言えるさ。言ってきてやろうか?」
「止めなさい」
「うるさい」
母の倒れる音がした。それからすぐに物を投げ合う音が聞こえる。もう、音が多すぎてどんな音だかも判別できない。俺はただ、自分の手首を見つめていた。切ったら、くだらない世界から、俺が不利な世界から解放されるのだろうか。だから、実験してみた。
二階の勉強机の引き出しにある彫刻刀を持ち出して、自分の掌を慎重に切った。刃を進めると、刃の後方から赤々しい血が刃を追いかけてくる。痛くない、全然痛くない。これなら死ねる。そう考えただけで泣いていた。
そう思い出しただけで赤い色が憎たらしくなった。塩せんせに付いている不細工な赤いボタン達に侮蔑の目線を向ける。心が晴れ晴れしている、今なら、俺は俺になれる。
「あれ? 塩せんせ。トイレに行きたいならそう仰って下さいよ。俺は子どもじゃないんですから。一人でも不安がりませんよ、入学式の時に一度来てますから。貴女と違って俺は子どもの姿してねぇし」
微笑んでみせた。これで俺はまた、独りに戻れる。そして、あの整然とした埃一つない部屋で膝を抱えて、世界の崩壊を眺めるんだ。
塩せんせは俺を一瞥すると、スプーンを殻のお椀にそっと置いた。そして、太ももにある赤い発疹を二、三度、平手打ちしてから、喋り始める。
「君ね、女性に対する配慮に欠けてるよ」塩せんせは喉元を鳴らした。その音には嫌悪は籠められていない。不思議だった。次の言葉を待った。「せんせを試さなくても良いよ。私は嘘を吐かない事で有名な塩ちゃんだから、大丈夫」
塩せんせは俺の頬を優しく叩くと、これでお終いとばかりに微笑んだ。印象的だった。両頬を変幻自在かのように膨らませて、唇の両横には緩やかな弓が築かれている。眼を一瞬、下へと細めた。眠そうにも見える顔だ。
そのいつまでも見ていたい微笑ましさが崩れていく。眼は黒と白の点達が蠢き、肌は肌色の点が蠢いている。塩せんせの前で世界の崩壊の予兆に絶望したくなかった。塩せんせが希望への道しるべを知っているような気がした。
「あ、すいません。何か、塩せんせには何でも話せそうな気がするんですよ」
と俺は嘯いた。まだ、自分の全てを語るなんて誰にもできないのに。きっと、神様が目の前に現れてもそうできないだろう。少なくとも、俺は。
塩せんせは処方箋と書かれた淡白な袋を手に持って中を覗きながら、弾んだ声で喋る。
「塩せんせ児童相談センターでも始めようかな。一回の相談に付き、料金は二万五千円取ります」
言い終わってすぐに塩せんせの手が前へとすっと出された。お金を載せて下さいという事らしい。
「法外な値段ですね」
と俺は普段と変わらない暗い声で精一杯、明るく喋った。その明るさは仄か過ぎて塩せんせには伝わらないかもしれないし、伝わっているのかもしれない。俺は不思議なせんせにはなれないのだから、残念な事に俺は俺だ。
両手を前で交差させて、駄目という文字を身体で表現した。そんな塩せんせの足取りは何処か、覚束ない。後ろ向きに歩いているのだから、当然なのだが、わざとそうしているのが表情から窺える。今にもよちよちと戻ってきそうな陽気さ。
「前を見ないと危ないですよ」
塩せんせの背後に教卓が近づいているのを急いで知らせるが、
「お、塩せんせはアイスを体内に入れると反射神経が五倍くらい活性化されるんですよ」
と言った塩せんせは振り向き、反復横跳びして、そのまま扉を開けて視界から消えた。
俺はそれを唖然として、見送った。だが、すぐに塩せんせの元へと駆け寄りたくなった。
「あの人の年は幾つなんだろう? 行動がまるっきり幼女」
照れ隠しのつもりで呟いたのだが、自分の言葉に再認識という不意打ちを喰らった。
あんな発疹みたいの電車の中ではなかったよな。なんだろう? という真面目な議題を引っ張り出して、俺は塩せんせ分析家をしばらく、気取った。罪悪感に蓋する為にもそうしなければならなかった。
「ここが貴方の教室ですよ、章君」
そう言って、塩せんせは横開きの白い扉を指さした。俺はその扉ではなく、プレートを仰ぎ見て苦笑いした。
「いや、ここどう見ても保健室でしょ。プレートに保健室って書いてありますよ、せんせ。惚けるの早くありませんか?」
「嬉しいですね。既に私と章君はキツイジョークを言える仲という感じですね」
鍵を鍵さんのお家に押し込みましょうと鼻歌を口ずさんで、扉を開ける。保健室へと入る塩せんせの小さな背中に突き刺すようにぼそっと声を出す。
「初めにジョークを言ったのは塩せんせですよ」
「私の発言にはジョークなんて含まれていません。私は常に本気で生きているんですよ」
「生きているって凄い発言」と俺は塩せんせに意地悪な発言を言って保健室内に入る。戸口に入った瞬間、消毒液の匂いが鼻を刺激した。思わず、鼻先近くで手を左右に動かして、消毒液込みの酸素を逃がす。「やほーい、章君」と甲高い声と共に女子としては背の高い百六十センチくらいのショートヘアの女の子がやたらとフレンドリーに挨拶した。「や、あんた。誰?」
という返し言葉と冷ややかな目線は妥当だと思う。普通人の女の子と話すのは苦手だ。奴らは決まってテレビのドラマやファッションの話をする。ファッション雑誌を見本にしているのに平気であたしは個性的だとふんぞり返って、自信満々に喋りまくるリーダー格の女の子を中心にその子の考えのみが適用される王国を創り上げる。
俺は爛々とした太陽光を背に浴びている女の子の黒い目から顔を背けた。自分の姿が女の子の目に映っているだけで不快だった。
「あたし? あたし? あたし?」と自らの顔を指を指して悪意のない穏やかな表情をした悪意在る存在が俺に近づいてくる。「近づかないでよ」
と嫌そうに威嚇の言葉を贈っても相手はその意味するところが解らないのか、近寄ってくる。既に俺の視界は先程まで何気なく見つめていた除湿器から放出されている白い煙ではなく、女の子のサンタクロースみたいな上着という絵にすり替わっている。下は白いスカートと派手だ。俺は確信した。こいつに関わると自分の精神を掻き乱されるだろう。
「そんな拒否は受け入れません。ここは塩ちゃんと変わり者の仲間達の部室なんだからね」
「え? 部室。だって保健室」
俺はもう一度、プレートを仰ぎ見る。どう見ても、保健室と書かれてある。
「俺は意味のない受け答えをした。時間の浪費だ。今までの時間が全ての浪費だったんだ。くそ」
突然、襲ってきた生きる事への空しさに溜息を吐いた。俺の状況なんてお構いなしだ。空しさに人間と同じような良心はない。
壁に保険便りが貼ってある。発行人は砂糖塩になっている。アニメ風三等身の塩せんせが白衣を着込んで聴診器を首に掛けている絵が夏風邪について、語っていた。夏という文字を見つける度に俺は俺に浪費した意味のない時間をボールみたく投げつける。その空しさを掻き消すようにポケットに手を突っ込んだ。
外では朝の鳥たちの合唱に混じって、蝉たちも合唱を始める。果たして、彼らの声が有意義な時間へと繋がっていると誰が証明できるだろう。数学にある仮定は一応、真理を満たすだけの構図をその身体に内包している。
俺はサンタクロース女に何か、言ってやろうと考えたが、それこそ時間の無駄だとその考えを俺に投げつけた。
虚脱感に襲われている俺を狐のように細い眼で見てから、顎を手に添えてなるほどと口の中で男がそう転がした。そいつは生徒らしいが、端正な顔立ちと眼鏡の組み合わせ、パイプ椅子に座っているのに品のある背筋を伸ばした感じが生徒とは感じさせない。だが、男の顔には隠しきれない悲劇の跡がこびれついている。何でもない顔をしているのに微妙に怪訝な表情が唇の形に現れている気がした。同類だから、解るのだろう。
「そいつの言っている事は全て嘘だ、少年。私は猿を飼育する為の教室という名の檻に閉じこめられたくないから、敢えてここで勉強している。生地衆太郎だ。そいつ、帰納夕張」
相手も同類と認めたようだ。
「どうも、楚質章です」
俺は深々とお辞儀した。同類ならば、なるべく話を続けない方が良い。俺達は孤独だけを愛する民なのだから。
「なるほどね。君と私とはどうやら同類のようだ。お互い干渉しないようにしようじゃないか」
生地もそう言って、一度だけ頷いた。
孤独の民の特性で例え、同じような感性を持った人間でも自分の心の殻には触れられたくないのだ。そんなのはお構いなしにサンタクロース女が騒ぎ立てる。
「何、何? あたしも仲間に入れて、シュウ、アッキー」
俺と生地は眉根を潜めた。普通人の言葉程ではないが、サンタクロース女の言葉も理解できない。俺は無視しようと決め、窓辺にある本棚へと歩み寄り、本を選んでいる振りをした。
「渾名というのは仲良くなった者だけが呼び合う一種のコミュニケーションツールだろう? 私達の親密度はそこまで達していない」
という抗議の言葉が俺の背後から聞こえる。キッパリした奴だ。
本棚には本は本でも、英語の参考書が隙間無く入っている。当然の事ながら、それに触れるのもあまり気が進まない。塩せんせを観察しよう。塩せんせが大きなCDプレイヤーを重そうに両手で運んでいた。今の時代、CDプレイヤーを愛用している人自体、珍しい。それをテーブルに置こうとしたが、置く前に力つき、光沢のある床へとCDプレイヤーを置いた。そして、小さな溜息を吐いた。俺はそれが可笑しくてにやついた。
にやついていた俺の顔を偶然にも塩せんせの目が捉えてしまい、不機嫌だと言わんばかりに頬を膨らませた。その膨らみには作為的な事柄は無く、ただ純粋に塩せんせが自分の顔で遊んでいるように思えた。
だが、見つめ合ったまま、固まっているのはきつい。塩せんせの小さな爪はピンク色をしていて、その上に白色が乗っかっている。その爪がCDプレイヤーの持ち手をかりかりと掻いていた。上下する爪は縄跳びの孤にも似ていると俺は発見した。夢中で縄跳びの軌道を見守る。塩せんせは俺の意図が解らず、首を傾げた。傾げたまま、戻さずにどうしたの? という表情で見ている。
俺は咄嗟に自分の手提げへと意識を向ける。
「せんせ、せんせに言われた時間割、偏りすぎてはいませんか? 一応、準備はしてきたんですけど」
せんせはまだ、首を傾げたままでCDプレイヤーを指さす。だから、それがなんだと言うのだと言おうとしたら、ぷっと破裂音が聞こえた。それは人の閉じた口から空気が抜ける音だと今までの人生経験から決めつける。俺はその破裂音の正体を見破るべく、周囲を見渡す。
サンタクロース女が塩せんせの許可無しにベッドに寝そべって携帯を無心に操作している。指の動きが速い。指の筋力を鍛える単純な運動といっても過言ではないほど、よく動いている。それを操作するサンタクロース女の顔には生気がない。口が半開きになっている。気味が悪い。
体重計、血圧測定器の無骨な姿を目が捉えて、次に微かに微笑しつつも片手で掴んだ本をぶらぶらと揺らす愉快な男を捉えた。俺は思わず、目を見張った。
「笑った?」「笑った?」と俺、塩せんせは同時に言った。
この偶然は俺にとって心を明るくする照明となった。
眼鏡を外し、目を擦りながら、
「君達、私がそんなに笑うのが可笑しいか?」と俺達の方を見ずに冷静に生地はそう言った。怒りの感情も戸惑いもなく、冷静な男だ。「ある意味で砂糖塩は凄い教師だよ」
そう生地は言葉を続けた。眼鏡を掛けて持っていた本を読み始めた。
塩せんせは照れて、笑顔を隠せずににんまりとした顔を浮かべた。
「凄くないですよ。今日はどれにしようかな」
と俺の目線から逃げて、薬の入った棚の上にあるダンボール箱を覗こうとするが、背伸びをしても身長が足りなかった。塩せんせの履いている兎さんスリッパの側には五歳児くらいが座るのには丁度良い椅子があった。俺はなるほど、と思った。
「せんせ、保健室でお歌の練習でもするつもりですか?」
未だに諦めずに背伸びを続ける塩せんせに質問した。
その質問に塩せんせが応える前に生地が本に栞を入れてから、静かに唇を緩ませた。
「お歌。確かに。お歌だな、音痴ですから」
と生地はあっさりと言った。
塩せんせは振り向いて何やらびっくりしていた。そして、生地に歩み寄る。先生らしい威厳はなく、如何にもせんせな感じの小さな姿が生地の肩をじっと、観察する。頷いた塩せんせの意図が解らずに、生地は固まる。俺だってそんな鼻毛が見える程の距離にまで近寄られたら困惑するし、俺だったら嬉しい。
「笑いましたね。せんせにもう一度、笑って見せて下さい。人間、笑顔がないと死んじゃうんですよ」
「また、不思議な言葉を」
俺は生地に嫉妬しているのか、自分がやたら鋭い口調で言葉を放ったのに気が付いた。だが、それを誇らしく思う。塩せんせの仲間として認識されたような気がしたからだ。室内に流れる空気ではなく、もっと不可視的な空気によって。
塩せんせが床に置かれたCDプレイヤーを凝視して正座をしていた。口元は俺とは違って恥じらいもなく、大きく開いている。開いている口から時々、綺麗に整った歯が見える。俺は正直、今ぼそぼそと歌っているしおちゃんの英語という自作の歌よりも塩せんせの口を観察するのに心を砕いていた。
しおちゃんの英語というのは日本語に直すととても、お馬鹿な女の子を描いた歌だ。みんなの目線が怖いからと逃げてトイレの中でお弁当を食べたり、別に興味のない本で自分の現実に見なければならない教室の風景を遮断したりなど、馬鹿な内容だ。
笑おうとした。笑えない。自分も半年くらい引き籠もっていたのだ。それはトイレの風景や本の文字で現実を隠そうとしているお馬鹿な行為と同じだ、変わらない空間で遮断していたのだ。
そう思うと急に自分という存在が詰まらなく感じた。呆れたのだ。だが、それを完全に受け入れる事はできない。自分を完全に否定する事は死に近いんだというのを母から学んだのだ。今のあいつではない、母に。
俺は俺を振り切って、外行きの俺を産み出す。塩せんせの肩に気軽に触れる。
「せんせ、凄い羞恥プレイなんですけど、これ」
塩せんせは肩の重みには気にせずにCDプレイヤーの演奏時間を示す緑色の光を見つめる。曲は間奏に入っていた。気の抜ける間奏だった。作曲能力が乏しいのだろう。ピアノの奏でる繊細さを表現しようとして、ピアノの音が一音転けていたりと台無しにしている。
「まだ、二番がありますよ。今度は元気よく」
とツインテールが跳ね上がる。塩せんせが立ち上がったからそう見えたのだが、この人は子どものように元気だなという感想を俺の心にもたらす。ほんわかと身体が温かい。
拍手の音が聞こえる。ベッドの方角を見ると風邪気味で喉が痛いと英語の歌を歌う前に自己申告した生地と夕張がそれを鳴らしていた。
「おい、笑うな、病人A、B」
とそれぞれを指さす。
「私がAか? アレンのAだな」と開き直る生地。
「あたしがB? ブルーのBだね」と同じく、開き直るサンタクロース女。
生地は欠伸をして、仰向けになり、分厚い本を読み始める。わざとらしく、ふむと言っている。わざとではないのかもしれないが少なくとも俺にとってはわざと、だ。
「そこ、無視して難解そうな本を読むな」と俺は再び、生地を指さす。だが、生地は雄弁に語る。「君、これはフロイトという偉い方が書いた本だ。私のバイブルだ」
ここでフロイトって誰? と今、蠢いている知的探求心という蜂に従って共にそれを満たす為に正解の蜂蜜の滴る木に行ったら戻って来られないと俺は直感した。生地という知識の木から目線を遠ざける。
俺が一生懸命、英語の勉強をしているのに、ベットに座り込んでポテトを一本、摘んでは三口くらいで食べているサンタクロース女を指さす。
「ポテト、喰うな。腹が減るだろう」
「大丈夫、朝一でコンビニで買ってきた奴だけど、欲しいのなら、分けてあげる」手に持っているポテトの感触を確かめて、どう? という表情でこちらに視線を投げかける。「萎びてるのはやっぱ、嫌い?」
「大丈夫。この音痴空間から抜け出せれば」
と俺はポテトを一掴みし、口に含んだ。油が染みこみすぎて冷たくなっていたが、美味しかった。少なくとも、ホットアイスよりは美味しいはずだ。
「人の気にしている事、言ったらめっですよ」
また、ポテトを食べようとした俺を塩せんせが腕を掴んで止める。
「はい、塩せんせ」
「うんうん、さて二番そろそろ、始まるよ」
塩せんせがそう言って微笑んだ。そして、音痴な声が保険室中に溢れる。音程を完全に外しているというのに聞いていて不快にならない。一生懸命頑張るって良い事だと感じさせてくれる。