act 1-suzume 脅迫感
act 1-suzume 脅迫感
さっちゃんは以前としてあたしには気付かない。元気を取り戻す為に校舎一階の売店で牛乳を買うと、それをストローを使わずに一気に飲み干した。そして、殻になったパックをすぐ近くのゴミ箱に放り投げる。いつもならば、パックは美しいグラフのような曲線を描いてゴミ箱に入るのに今日はそうならなかった。
「元気を出してさっちゃん、調子の悪い日だってあるわよ。あたしだって今日は綺麗にさえずり歌を歌えないなぁって事あるもん」
顰め面をして、背広の腕部を捲り、自分の血管が浮き出る程に痩せ細った腕を見る。
「これじゃあ、上手く入る訳ないよなぁ。朝の日課もとうとう、変えなきゃいけないのかもなぁ」
そう言って、さっちゃんは冷たく白く光る床からパックを拾い上げて、ゴミ箱に入れた。
さっちゃんが教師をしている西肩高等学校は県内でも有名な進学校だ。二年生までに基礎的な勉学を形成し、三年生になると一年を掛けて受験の対策をする。三年生は学習レベル別にクラス分けが成されている。さっちゃんが担当するのはその三年生の数学だ。癌が発見される前のさっちゃんはこのシステムについて異議を唱えていた。学年主任に対して、
「子ども達の可能性は隔離できるほど、浅いものではありません。もっと、我々は子ども達の可能性を信じてあげるべきなんですよ。私達、教師は工場で製品を作っているんじゃない。人間と常に対話をして成長を促しているんですよ。それさえも傲りかもしれませんが。御願いします、今の制度を廃止して、もっと子ども達の可能性を信じてあげて下さい」
と熱弁を振るったり、毎朝早くに出掛けては生徒会の子ども達が自主的に行っている校門前の清掃にも参加していた。まさに熱血教師を絵に描いたような存在だった。その熱血ぶりを癌は食べ尽くしてしまった。そして、さっちゃんの命を今もしゃぶっている。
抜け殻になってしまったさっちゃんは階段を一段、一段、踏みしめて行く。廊下を歩いていると向こう側から、校長が手を挙げて近寄ってきた。さっちゃんはお辞儀する。
「君みたいな優秀な教師が我が校に勤務してくれているのは非常に喜ばしい事だが、そろそろ自分の身体の心配をしたらどうだろう?」
校長はまるで生徒に諭すようにゆったりとした口調でさっちゃんに語りかける。さっちゃんはあたしにしか、解らない一瞬間、むっとした表情を浮かべたがすぐに柔和な笑みを顔に貼り付けた。
「休むのは死んでからでも遅くないですよ」
「君のような教師がそんな冗談を言うと、冗談に聞こえないから困るよ」
目頭に薄い水滴を浮かべて校長は太った腹から言葉を懸命に捻り出した。校長先生の肩にいる丸々太ったすずめも涙を流している。
「冗談だから、冗談に聞こえないんですよ。真実の重みは言葉では語れません。そう教えてくれたのは栗元せんせ、貴方でしょ?」
「おやおや、これは一本取られたかな。国語教師が元教え子の数学教師に言論で負けるようではいよいよ、私も引退かな」
「ご冗談を。では僕はこれから授業があるので」
そう言葉をやり取りしてさっちゃんは栗本校長と別れてまた、歩き出す。ふらつくように歩いているさっちゃんは歩くのにも顔を仏頂面にして歩いていた。あたしにはさっちゃんの様態が手に取るように解る。そうしなければ、自我を保っていられない、とさっちゃんは声に出来ない悲鳴をいつも、上げている。
ぴんと伸びていたはずの背中がいつの間にやら、猫背に逆戻りしていた。さっちゃんもその事を気にしているようだったが、歩むのを止めなかった。すれ違う生徒達にあらん限りの声で言う。
「おい、あと少しで一時間目が始まるぞ。忘れているものはないか、チェックするんだ。意外と心を忘れているかもよ」
「せんせ、寒い」
とノリの良い貴咲がそう言葉を返した。気楽な宿り木にいるとすずめも気楽な性格になるらしく、せんせ、寒いと真似をしている。
あたしはさっちゃんの頭の天辺から前後をきょろきょろと見回す。見回していると、ツインテールを元気のない犬の尻尾のように垂らした女子生徒が俯き歩いてくる。このままでは明らかにさっちゃんの背中に追突コースだ。
あたしはそれを考えただけで少しむっとした。咄嗟に叫んでいた。
「さっちゃん、避けて。危ないよ」
だが、あたしの声は未だにさっちゃんに届かない。翼を必要以上にばたつかせて苛々した。抜け落ちた茶色い羽根がさっちゃんの頭の天辺に乗っかって河童の皿のように見えた。あたしは喧しくさえずり笑った。
その間にもあたしのさっちゃんと、暗そうな餓鬼がごっつんこするイベント発生が回避できない状態になってゆく。せめて、目にするものか! とあたしは目を背けた。
「お、と」
さっちゃんの戸惑った声があたしの耳に届く。あたしは思わず、さっちゃんの方を向いてしまった。
「あ、あんた、あたしのさっちゃんに何してんの」
頭がさっちゃんの背広に埋まっている餓鬼には当然、言葉は届かないので餓鬼の肩にいる小さな雛すずめに文句を言う。だが、雛すずめは目を細めたまま、動こうともしなかった。あたしは不思議に思い、雛すずめの様子を見つめる。
一方、餓鬼は震える足をゆっくりと後退させて、俯いた頭をさらに俯かせる。根暗という表現を通り越して滑稽だ。
「す、すみ、すみ、す、」と緊張して青ざめた顔で何度も頭を下げ直す。今年の冬は温暖だというのに両頬は血色が良く、赤いあめ玉を貼り付けているようだった。「すみません。床の染みを数えていたので」
とぼそっと言い直した。
さっちゃんは中腰になる。そうしないと、餓鬼の目線に合わせられないからだ。餓鬼の身長は百センチぐらい、さっちゃんの身長は百九十センチ、比べると餓鬼はまるで小人さんだ。何やら、両腕を一生懸命、擦り合わせている。さっちゃんの目を見ようともしない。それでもさっちゃんは優しく対応する。
「ああ、大丈夫だ。それよりもちゃんと前を見て歩かないと、血染めのツインテールちゃんになっちゃうぞ。電柱にぶっかって」
と三十三歳独身男はウィンクをする。さすがにそれはないわぁ、とあたしは背筋に寒気が走った。それにすら、反応せずに餓鬼は何かに怯えるようにきょろきょろと後ろや窓の外を見回す。それに呼応して、両腕を擦り合わせる動きが速くなる。
どうやら、餓鬼は小心者のようだ。あたしは溜息を吐いて、餓鬼を宿り木にしている雛すずめに声をまた、掛ける。
「何、あんた、元気ないじゃない?」
今度は微かに、だが、頷いた。小さな嘴が何かを欲するように小刻みに動いている。黄色い羽毛がぶるぶると震えていた。ボタンのような黒目があたしの母性本能を擽る。可愛いじゃない。
雛すずめは口を動かしていることから、お腹でも空いたのだろう。
「喋れないの? 少しあたしの力を分けてあげるから元気、出しなさい」
あたしはそう言って、餓鬼の肩に止まる。雛すずめに口移しで自分の体内にあるさっちゃんが元気な頃に蓄えて置いたさっちゃんの笑顔の光を胃から喉へと移動させる。そして、雛すずめの喉へと無理矢理流し込んだ。嘴を離すと、嘴と嘴の間には透明な唾液の橋が掛かった。朝の白い陽光に輝いて線が泡立っているのが認識できる。あたしは恥ずかしくなり、きょとんとしている雛すずめから目を逸らせた。逸らした先には餓鬼の唇が目に入った。ルージュを引いていない唇には御握りの海苔が付いていた。
雛すずめがゲップをする品のない音が聞こえた。餓鬼も餓鬼だが、この雛すずめも相当、ずれている。あたしは首を捻った。そう、世界に対する免疫を全然持っていないのだ。
あたしは雛すずめを廊下に設置してある水飲み場まで引き連れてきた。世界に対する免疫がない子どもを放っておける程、冷たい女ではない。宿主がまだ、年端もいかない少女とあらば、何としてでも改善しなければならないあの根暗ぶりを。そうしないと悲しい結果になるとあたしは知っている。宿り木である主と主の笑顔を糧にして生きるすずめのペアを腐るほど、見つめ続けてきたあたしはおどおどしている雛すずめを目で威圧する。雛すずめは蛇口から流しへと足を滑らせたが、慌てて羽ばたき、蛇口にしがみつく。
「ごめんにゃさい。私の名前はすずめ」
舌足らずにすずめはそう挨拶した。あたしはそれに鼻を鳴らしてこちらの方が上だと知らしめる。
「まんまじゃない?」
「しょうがないです。僕と塩ちゃんが最後にお喋りしたのは小学二年生の頃です。塩ちゃんのパパが交通事故で亡くなる前です」
あたしは目を細めた。また、このパターンだ。何処にでもある不幸だが、その不幸は谷底よりも深いのだ。愛する者の死が自分の死をも連れてくる。笑顔を無くした人間は自分では知らず、知らずに不幸を呼び寄せ続ける。そして、自分に絶望しきる。丁度、今のさっちゃんのように。あたしは俄然、知りたくなった。あたしと目の前でめそめそと泣いている雛すずめはいわば、同じ立場なのだ。互いに解決法が見つかるかもしれない。
西肩高等学校にしばらくの間、宿主が留まっているのを日々の単調な暮らしから知っているあたし達はそれぞれの主の状況について話す。何度か、チャイムが鳴ってその度にまだ、青臭い餓鬼達が水を飲みに来たが、あたし達は気にせずに話し続けた。話すに連れて雛すずめも事の重大さを再認識したようで、号泣し続けていた。
「あんた、もしかして、その時から」
「絶食です。ですけど、塩ちゃんを死なせたくないから、僕はまだ、頑張ります」
と雛すずめが弱々しく宣言した。だが、その言葉が本当に達せられるはずがないとあたしには確信できた。
「あんた、そんな事すれば、宿主と道連れよ。新しい主を」あたし達は自由にいつでも主を裏切れる。あたしは熱の籠もった目線ですずめに促す。だが、すずめはあたしに爽やかにさえずる。「できますか? 貴女にはそれが?」
そのさえずりはあたしの心へと難なく、侵入する。そして、あたしだけの幸福の記憶を呼び覚ます。小学生のさっちゃんがグランドを走っていて、大きな石に躓いて転んだ映像があたしの心へと浮かび上がる。擦り剥いた膝小僧をあたしに名誉の負傷とばかりに誇らしく見せつけた。膝小僧の肉が一箇所裂けていて、肌色とピンク色の肉が少し覗いているだけだった。見る見るうちにピンク色の肉と肌の境目から血がピンク色の肉の中心へと目指してゆく。それをさっちゃんと二人でじっと眺めていた。虫の音が辺りから聞こえてくる中、血は生きているように肉を染めてついには征服した。さっちゃんはそれにみとれて、
「生きてるって不思議だよね、ちびか。こんな赤い液体が人間に必要な力を身体中に回してくれているから僕は走れるんだね。という事は、僕の笑顔はちびかにとって血なんだね。僕、ずっと笑顔で居るよ。大好きなちびかの為に」
「誓いの口づけをしてくれるかな、さっちゃん。ずっと、お互いにその言葉を忘れないように。さっちゃんが笑顔じゃなくなったらきっと、あたしもさっちゃんを助ける。きっと……あたしの声がさっちゃんの血になるから」
あたしとさっちゃんは唇と嘴を触れあわせた。ずっと、互いに幸福であるように、と。
あたしはすずめにさえずる。
「ううん、ごめん。あたしにもできないな。あたしとさっちゃんは生きる為に必要な血液同士なんだよ」
雛すずめはあたしの言葉を肯定するように頷く。
「僕、そろそろ行くよ。塩ちゃんが心配だから」
そう言って雛すずめは跳び去っていった。元気よく宿主のいる場所へと向かうべく、広げられた羽根は慌ただしく空気を操作している。その姿に死という言葉を連想できなかった。だが、確実に死は全てにあるとあたしは知っている。それは普通のことだから。普通には誰も抵抗できない、と溜息を吐いた。白い溜息は深々と降り積もる色のない雪の色と似通っていた。
ストーブのない教室は寒々としていた。あたしは分厚い自前の茶色いコートがあるからへっちゃらなのだが、さっちゃん達、人間はやせ我慢をしているようだ。前の席に座っている女子生徒なんか、バスタオルで太ももの露出を隠している。そのバスタオルにはすずめが寝そべっている。なんともみっともない光景だが、さっちゃんは見て見ぬ振りをしていた。
一人の女子生徒が号令を掛けて授業は始まった。窓を激しく叩く風に負けないような声は今のさっちゃんに出すのは困難だった。何度も空気を飲み込んでから大きく口を開ける。
「よし、今日の宿題を後ろから集めてせんせの所に持ってくるんだ。忘れた奴はお尻、九百回叩きの刑だ」
それでも声は病を患う前の正常時ほどしか発声できない。声は後ろに行けば、行くほど尻窄みになってしまう。さっちゃんの声が聞き取りにくいとみんな、理解しているような静けさの中、か細い声が教室中に広がる。
少し間を置いて、
「せんせ、セクハラです」と喧しい女子生徒の声。「かっこいいせんせ」と茶化す男子生徒の骨太な声。
さっちゃんは顔を顰めつつも、それをばれないように笑顔で包み隠す。教卓から両手を離そうとはしなかった。両手に体重を掛けて自分の身体を支えている。さっちゃんは物をこのように上手く利用する事を覚えていたがまだ、自分の健康状態を否定して今まで通りを必死に貫こうとした。額に汗を滲ませながら、恐る恐る振り返って白いチョークを握り締める。震えるチョークの軌道は、二次関数の応用、という言葉を描き出した。
息を吐く。白いチョークは指から逃げて、床へと落下する。粉々に散ったチョークの身体が床に散乱した。それを取ろうとゆっくりと膝を曲げる。その緩慢な動きは老人のようだった。
生徒達が不思議そうにさっちゃんを見ているのに気が付くと、さっちゃんはにやりと笑った。生徒が後ろから前へと順調に宿題をバケツリレー式に集めているのを自分の教卓へと集まるノートの数で判断する。だが、一列だけまごついているようだ。
あたしはその列を観察するべく、飛んだ。期待通り、面白い光景がそこにはあった。塩が俯いて自分のくしゃくしゃになったノートを提出しようか、しまいか、と迷って右手を慌ただしく動かしていた。その表情はここを切り抜けなければ自分はどうにか、なってしまうという絶望感に満ちていた。その大袈裟な絶望感が滑稽だった。あたしは思わず、笑ってしまった。
さっちゃんに向けて独り言を言おうと思い立ったが、そのさっちゃんが塩の机へと近づく。塩の机の端に両手を置いて自分の体重を支えてから、作り笑顔を浮かべる。
「ん? 塩。お前、ちゃんと提出しなきゃ駄目だろう。それ、ノートだろう」
ノートを指さされたという事に酷く驚いて、塩は自分のノートを両腕で包み隠す。両頬は相変わらず、真っ赤だ。
「せんせ、そ、そ、れ、れ、れ」とどもる塩の言葉を遮って「落ち着け、塩。深呼吸」とさっちゃんは塩の瞳を見てそう言った。塩は目を背けてから、深呼吸をする。両手が一緒に小刻みに上下していた。まるで不必要なギミックの付いた玩具のようだ。深呼吸をし過ぎて咳き込みながら塩は早口で言う。「昼休みに池のとこで宿題の確認して、たら、たたったたあ、たら落としちゃいました」
案の定、どもって塩は嫌悪感に苛まれる。俯いた塩の手はだらりと垂れ下がる。ノートをその隙に奪い、塩が青ざめた顔でこちらをじっと見据えるのを無視してさっちゃんはノートを捲ろうとした。一ページ目と表紙の裏がくっついている。さっちゃんは眉根を潜めた。ぐるりと教室中にいる生徒を見回した。
さっちゃんは生徒達を疑いたくないのだろう。だが、ノートには凄まじい悪臭を放つ言葉が殴り書きされていた。その雑さに書いた人間の性別までは判別できない。ただ、あたしには漠然と解る。これを書いた人間は悪意を感じていない。楽しい、楽しいゲームだと考えている。
何故って? あたしは彼らに認識されないから、彼らの隠れた表情を容易に盗み見られる。クラスの生徒達はさっちゃんの目がある場合は真面目そうな能面を被り、目がない場合はすぐににやりとした楽しいコメディでも見ているような弛んだ表情を浮かべる。彼らの肩にいるすずめまでもが塩を笑っている。
言葉の暴力は酷いものだ。
なんでまだ、学校に来てるの? ちび。ちびは小学校で駆けっこでもしてれば? ちっちゃいからって男子にいい顔できるって思ってるの、馬鹿じゃない。死ねよ、死んじゃえ。屋上から飛び降りれば簡単に死ねるよ。いつも、俯いて小刻みに動いて気持ち悪いんだよ、お前。
どうして、そんなに他者の存在を否定するのだろうとあたしはその言葉の一つ、一つに問い質した。凶器は凶器でしかない。そんなのは解りきった常識だ。だが、常識ではない他人の心へと土足で踏み込むような者は確実に存在している。それは誰にでもなれるのだ。あたしが先程、塩を笑ったように。
さっちゃんはその文字を一つ、一つ、確認すると、塩の頭を撫でる。
「なんだ、ちゃんとやってきたじゃないか。もう、出さなきゃめっ、だぞ」
さっちゃんは塩のおでこをデコピンして可愛らしく言った。その派手なパフォーマンスが功を奏した。周囲の陰険な生徒達は自分のやった事を忘れてまた、せんせ、気持ち悪いですよ、と言葉を口走る。
全く、人間というのは心に怪物を飼っている。その怪物が容姿故に普段ならば、可愛いと称されてクラスの人気者になれるはずの少女の心を粉々に食い散らかしている。やがて、少女は自ら死を選ぶのだろう。それは時間の問題だ。遅かれ早かれ、皆死ぬというのに。塩は俯きながら微かに唇を動かす。
もう、やだ。自分なんて消えてしまえばいい。
夕焼け空、今日という陽が落ちてゆく。さっちゃんの肩に乗ったあたしはさっちゃんに元気を出して貰いたくてさえずり歌った。歌には特に意味はない。言葉ではない鳴き声に愛しい感情を載せて可愛らしく、歌う。
さっちゃんは普段ならば、バスを待つ西肩バス停の古びた木のベンチには目もくれずに歩き続ける。取り憑かれたように溜息を吐いては、立ち止まり歩き続ける。
あたし達が見つめる世界はいつも、生の活気に満ちていた。
散歩を楽しむ老夫婦が自転車に乗りながら携帯電話で友達と話している若者を訝る。だが、若者はその表情をちらっと見て、またへらへらして友人と話を続ける。その光景を老夫婦以外には咎める者はなく、みんな個々の生活を営む。そこには働き蟻のような一生懸命さは掛けていた。何処か、みんな生きるという事に打算的だ。そんな人間達の肩に乗るすずめ達はいつも退屈そうに欠伸をしていた。
さっちゃんは、笑顔で明日、どうする? と明日の計画を立てる男子高校生を一瞥すると髪の毛を掻きむしった。空中に白髪がふわりと飛ぶ。その白髪はさっちゃんの心を苛立たせるのには十分だった。それでも、さっちゃんは夕方の活気ある精肉店のコロッケの匂いや八百屋の威勢の良い叫び声を柔らかな目で追わずにはいられない。
それはまるで死という静止から唯一、逃れる術であるかのようだ。
草の葉が絡まったフェンスは昔と変わらない。フェンス越しに見える風景、グランドで遊ぶ小学生達。みんな、笑顔でちっぽけな泥の付いたバスケットボールをパスし合っている。あたしとさっちゃんが知ってのとおり、西肩小学校のグランドにはバスケットゴールはない。だが、子ども達はそんな事実こそがちっぽけと考え、今、彼らが必死に追いかけているボールこそがいつか子ども時代の思い出として鮮明にいつまでも心に閉まって置かれる。
今のさっちゃんのように。
さっちゃんは立ち止まり、金網をぎゅっと握り締める。慢性的に感じる肉をつんざく癌による痛みではない。自分の心に宿るアルバムが自分の死によって消滅してしまう確かな未来の光景がさっちゃんに在らぬ種の痛みを呼ぶ。
それでも、人は日々を止められない。いや、人だけではない。あたしだって止められない。生きているっていう事は自分への脅迫にも似ている。
だから、さっちゃんは教師らしい言動をするのだろう。
「どうして、あの子があんな虐めを。何か、原因があるのか、でも。俺には関係」自分の残っている日常を否定するように金網を殴りつけるさっちゃんの後ろ姿は痛々しい。さっちゃんが意図したわけではなく、その体勢が一番、身体に負担が掛からないらしい猫背になっていた。グランドの外周を必死に走っている男子生徒を見つける。赤白帽が太陽に照らされてつい、光で帽子の輪郭を誇張させている。目がそちらへと奪われる。「マラソンの練習か……。俺も頑張って走ったな」
さっちゃんは目を閉じて眉間に皺を寄せる。
「嫌だ! 俺はこのまま、死にたくない。何もしていないじゃないか。最期くらい、息を切らしながらゴールしても良いじゃないか」
さっちゃんは目を開ける。屈み込んで嗚咽しながらも、目に涙を滲ませながらも透明な瞳の膜は力強かった。
そんなさっちゃんを久しぶりに見たあたしは思った。徒競走の練習の時のように自分を奮い立たせて起き上がったのだ。
あたしは紅色に輝く陽の下でただ、茫然と立ち尽くして涙を流すさっちゃんに初めて認識された日の一言目をもう一度、厳かに言う。それはさっちゃんとあたしを繋ぐ友情でもあり、愛情の象徴だから……。
「最期まで努力をしない人間の涙には価値がない……」
「ちび、ちびか!」
さっちゃんは目を目玉と表現できるほど、開いてあたしの姿に驚いていた。目の端々には赤い線が見えていた。
激しい感情が荒波のように言葉を連れてあたしの口元へと流れ出す。
「もう、遅いよ。いつも、あたしはさっちゃんの側にいたんだよ」
嬉しい。当たり前の感情がこんなにも愛しく思える。あたしはさっちゃんの肩に清ました顔で飛び乗った。だけど、失敗してしまったようだ。視界は薄白な幸福のカーテンに閉ざされている。
あたしの歓喜のさえずり歌はさっちゃんの耳にだけ、聞こえる。さえずっている間も何を話し合おうか、という計画案で頭は一杯だった。