prologue-shio 私の渾名は雑魚です
prologue-shio 私の渾名は雑魚です
昼休みの喧噪を私は鑑賞する。二000年十二月のカレンダーが黒板の上にあった。黒板の隅に私の名前、砂糖塩とクラスメートの男の子の名前が書いてあった。学生服を着た大柄な男の子がそれを見つけると血相を変えて、すぐに黒板消しを掴むと、それを乱雑に消した。
「おい、誰だよ? 雑魚と俺の名前を並べた奴? 気味の悪い女と一緒にするなよ。ちび病が移るだろう」
そう言ってにたにたと周囲を見回す男の子。そして、そのにたにた菌が広がる。談笑をしていた女の子や、次の授業の宿題をやっている男の子もみんながにたにたしていた。私の反応を知りたいのか、眼鏡を掛けた真面目そうな、いや、実際真面目な女の子 末浦詩補 (すえうら しほ)が私の顔を覗き見る。その手には乗らないと口を真一文字に結ぶ。
でも、そんな事をしたって無駄なのだ。
「おい、こいつ。人形みたいだよ」そう言って詩補はみんなの反応を窺う。みんなはふざけるな、お前の目は節穴だろうと道端にぽつんと存在する犬の糞を嗅いだように顔色を変える。だが、これは彼女たちのこれから楽しい、楽しい雑魚遊びの始まりだよという開演の決まり事なのだ。詩補は溜息をわざと吐いてから言い直す。「でも、駄作の人形な。頬に赤い岩みたいのが付着してるし、気持ち悪い。似合いもしないのにオタク受け? なツインテールっていうんでしょ? でも、頭が悪ければ、ろくに相手をされないよね、貴咲君」
遊びに誘われた黒板に名前を書かれていた貴咲は一瞬、ほっとした顔を見せた。雑魚の仲間入りにされると内心、怯えていたのだろう。だが、その心配はない。日本の何処を探しても雑魚という渾名がぴったりな女の子は私しかいないのだから。そして、私以上に珍しい存在もいない。なんせ、高校二年生にもなって私の身長は未だに百一センチなのだから。近所では可愛いと言われて示し合わせたように私の頭を撫で回す。それが嫌で仕方がないのだが、嫌われるよりはマシだ。嫌われると面倒だ。そう、今みたく、残酷な興味心に晒されてしまうのだから。
「なんか、喋ってくだちゃい。お姉ちゃんは怖くないですよ」
赤ちゃんに喋り掛けるように詩補は言った。私の白いリボンで結えた方の髪を持ち上げると何の前触れもなく、新聞を切り抜く為に使われた鋏を隣の席から調達して、髪を切った。黒いリボンの方と白いリボンの方で結ばれた髪でツインテールを成していたのだが、歪なツインテールになった。それでも、近所では可愛いと言われるだろう。あいつらは小さければ、なんだって可愛いんだ。例え、雑魚であっても。
普段なら我慢できるはずの蕁麻疹の痒みが私を襲う。まるで痒みが両腕や、両股等にくっついているようだ。足の側面にくっついた蕁麻疹の赤い岩粒が構って欲しいと何度も痒みを脳へと送ってくる。掻きたくて仕方がなかった。ここで席を立てば、楽しい雑魚遊びの要素が広がるだけだ。どうしようもなく、彼女達にばれないように股と股を摺り合わせて痒い箇所と箇所を摺り合わせた。机の下に両掌を隠して互いに摺り合わせる。これは私が開発した画期的な痒み改善法だ。摩擦熱を起こすことによって痒みを緩和させようという試みなのだ。寒冷蕁麻疹を発病してから八年にも及ぶ共存生活で培われた蕁麻疹との交流の成果と言えよう。蕁麻疹だって熱という食料物資が欲しくて仕方ないのだ。
「雑魚の髪の毛、いる人? お、まなまな、いるって顔をしている」
詩補がクラスで一番、勉強が得意なまなの机に私の髪を一掴み置いた。髪は生物の教科書に落ちた。
その間も私はその光景には何の感情も動かされずに、寒冷蕁麻疹との内閣首脳会議に神経を注いでいた。
「うわ、止めてよ。ノートが汚れるでしょう」
という発言をしているのにまなは私の髪を掴んで隣の男の子の手提げへと入れようとするが、短距離走の選手並みの瞬発さを発揮した腕がすっと伸びて、髪を掻っ攫っていく。その席の男の子 草木俊次が横目でまなを睨んだ。誰にも聞こえない声で、あるいは声を発していないのだろうとも推測できるが、口を小刻みに動かした。
「こっちに寄越すなよ。お前、この前、雑魚とやりたいって言ってたよな。これ、やるよ」
前の席にいた男の子の襟を掴んで制服へと入れようとするが、必死にその男の子は逃げ回る。
ついには席を立ってその男の子 鍋渇は俊次の腕を掴み、凄む。それに対して、俊次も昔の漫画に登場するヤンキーみたく眉毛を無理矢理、曲げて凄む。
私は擦り擦りしながら、痒みではない暖かさに包まれていた。全身がぽかぽかして、周囲の遊びには不参加を未だに決め込んでいた。どうやら、一週間前の雑魚虐めのような展開になる様相を呈してきている。あの時は朝から見つからない五足目の私のスリッパが男子トイレの便器からサルベージされて、そいつが遊具になった。サルベージをしたのが教師ならば、帰りの会で塩のスリッパを男子トイレに投げ込んだ奴は誰だ? と一言言って終わっていただろう。実際は俊次がサルベージをしてしまった。雑巾に包んで貴咲の鼻筋へと押しつけようとする悪ふざけから喧嘩に発展してしまったのだった。私は、というといつものように寒冷蕁麻疹と電話会談していた。
彼らも学習したのか、次に私が彼らを見た時には肩を汲んで笑っていた。示し合わせたフェイクなのだろう。
「冗談じゃない。そんなの有り得ないよ。捕まるだろう、五歳も年離れた子とやるのは」と鍋渇。
「鍋渇、上手い。お前、最高。鍋渇、ナイス発言」と俊次。
俊次の言葉を皮切りに鍋渇コールと三三七拍子の拍手が巻き起こる。だけども、私には関係ない。これから、寒冷蕁麻疹と午後の昼食会がある、忙しい。
徐々に全身に血が通ってきた。これならば、窓枠を揺らしている冬の猛風にも打ち勝ってる。
唐突に詩補が自分の掛けているだて眼鏡をわざとらしく、上下させてお前の事を備に観察しているぞという仕草を私に見せる。そして、目に映る私が不愉快だとばかりに卑しい笑いを浮かべる。
「もじもじ、してトイレに行きたいんじゃないの? 小学生だけあって一人でいけないんでちゅか。安心しなさい。もう、トイレん中に閉じこめたりしないからね」
「お前、そんな事したのか。真面目みたいな顔して鬼畜みたいな所業を平気でする女だな。お、怖い」
と貴咲が両肩を手で覆って寒気を表現する。そして、やや後方へと後退りする。ピエロのような愉快な微笑みをわざとらしく、私に見せつけていた。私に何を期待しているのだろうか? リアクションを期待しているのならば、無駄だ。寒冷蕁麻疹との交渉経験で痒みは何かと相殺できるという事を学んだ。例えば、今のように熱を加える事によって相殺する方法も一つだ。同じように人という生物を、喋らない物質に改竄してしまえば、何も感じない。
今、私の目に映っているのはどいつも、こいつも不細工なブリキの玩具だ。相当、古い代物であるから、動く度に耳障りな音を発する。けれども、人間様が玩具程度に怒る理由はない。雑魚という位にある私でも一応は人間様だ。
私は誰にもばれないように唾を飲み込んだ。そう、思わなければ、という気持ちが焦らせていた。まだ、完全にそう思えていない。早く自分に暗示を掛けるのだ。私は数学の教科書を机から出して、黙読し始める。本当はそんなの読みたくなかった。
今日の雑魚遊びはあっさりしたものだった。私は数学の教科書とふやけたノートを取り出した。ノートは今朝までは新品同様で猫の写真付きの可愛いノートだったのに、昼休みが終わり頃にトイレから戻ってきたら、猫は凸凹の陰鬱な顔に成り果ててしまった。私は俯いて、それをじっと見入ると、私の肌と同じだと気が付いた。そうやって発見の喜びへと持っていこうとする自分を違う自分が褒めた。
よし、よくやったぞ。さすがはしおちゃん。本当に我慢強い子だ。家でも弟の面倒をしっかりと見ているそうじゃないか。関心だ。そんな君が小学生であるはずがない。
数学のせんせである三木三郎せんせが教室に入ってくる前に今日、提出予定の二次関数の課題をチェックしようとノートのページを捲る。
だが、表紙と一ページ目がくっついていて、二ページ目が一ページ目になったノートにたった五分で早変わりしていた。私は動揺した。宿題を出さないと自分だけが注目される。当然、三木せんせに何か、言われるに決まっている。私は何か、喋らなくてはならない。
嫌だ、喋りたくない。緊張するとどもってしまう。また、雑魚の性能を発揮する。そして、私という人間は否定される。痛い、私自身の全てが痛い。
必死に二ページ目を凝視する。だけども、そこから透けて見える一ページ目の文字は逆さになっていて、染みすぎて判別不可能の箇所さえある。私は急にトイレに言い来たくなった。尿意のメーターが急激に横へと振れた。どんどん、尿意が私の心を水浸しにして、私は窒息してしまう。雑魚はえら呼吸さえも出来ない魚だ。
まだ、時間はあるとシャーペンを強く握り締めた。芯を出そうとノック部分を押す。何度も押すが、空砲だった。おかしい。昨日、芯を買い忘れて焦っていた私に弟の袈裟が恵んでくれた芯が一つも無くなっている。床に見せしめとばかりに芯が粉末状になっているのをすぐに見つけて、妙に落ち着き払ってこれも雑魚遊びの一環なんだと納得した。
だが、それはじわじわとやって来た緊張感によって追い出される。
三木せんせが歩く足音が聞こえてきた。それがこの教室の前で止まる。ゆっくりと扉が開かれた。白髪と黒髪の混じった髪の三木せんせを茫然と見上げる。