prologue-akira しおせんせ
prologue-akira しおせんせ
少女漫画を読んでいると時間が流れるのは結構、早かった。そう感じたのは、コーラのような色だけだったはずの窓硝子が今じゃあ、牛乳色に変色しているからだ。暇だったので欠伸しながらそれはいつ頃に起きた変化だったのか、考察する。午前六時くらいではないか、と結論を出してみたが違う。今は冬じゃない、夏だ。夏という事はもっと、早い時間からでは?
少女漫画を本棚に戻すと、本と本の間に埃を見つけた。早速、叩きで埃を払い、ちり取りでゴミ袋へとそのまま捨てる。毎日、このように掃除を施しているか、くだらない問答をしているかが日課のように思えて、急に自分が腹立たしくなってきた。
本棚の一番下にある教科書を見つめた。その教科書達だけ折り重なって乱雑に扱われていた。だが、本来の用途を果たしていない。一度も、果たしていないので窓側に置いてある英語の教科書の表紙が微かに陽光を受けて輝いていた。その輝きは俺に教科書をとれ! と言っているようだ。教科書を手にとって、素早くぱらぱらと捲った。勿論、内容は目に入らない。そんなに頭脳明晰ならば、ひょっとしたら俺の悩みも解読できたかもしれない。本のいつまでも吸っていたい木の香りを鼻から吸い込んでみた。今までドロドロしていた自分の脳みそが掃除機を使って清掃したようにすっきりした。同時にお腹が空いているのに気が付いた。机に置いてあったダンボール箱を覗き込んだ。中にあるのは子どもが好きそうなゼリーやスナック菓子、ガムのような類だけで自分が探しているカップ麺は何処にも無かった。仕方なく、菓子でも食べようかなと思った時だった。階段を上がってくる音が聞こえる。この颯爽としたリズムの良い音は兄の楚質忍の足音だろう。
礼儀の正しい兄貴は部屋の扉の前に立ち止まると、軽くノックをした。
「章、おはよう。飯食べるだろう? 買ってきたんだ」
「うん、食べる。ありがとう、兄貴」
兄貴の口調がいつもよりもくぐもっていた。風邪でも引いたのだろうか。夏風邪は長引くと言うし、大丈夫か? と言おうと思ったがその言葉を飲み込む。自分が兄貴に心配を掛けさせているから、兄貴だって心労が溜まっているんじゃないか。
そう、自分のせいなんだ。自分なんて……。
俯いて汗ばんだ手で額を抑えた。また、目眩がしてきた。ただの目眩ではない。見ている景色が揺らいでいるように見えるのだ。その揺らぎがもっと激しくなって自分がいつも見ている景色が無音のまま、崩れ去ってしまうと考える。すると、得体の知れない恐怖が身体を縛り付けた。叫びたい衝動に駆られる。けれども、今は扉の向こうに兄貴がいるんだ。多分、いつもの度の強い黒縁の眼鏡を掛けて、色気のない紺色の背広を着て凛々しい顔立ちのとても自分の兄貴とは思えない世間一般で言うところの立派な人間がいるんだ。俺はそんな兄貴を好きだけど、嫌いだった。
兄貴は普通人になってしまったから。あいつらは何を考えて生きているのか、俺には理解できなかった。そうなった兄貴を確認すると無性に虚しくなった。世界でただ一人の自分を理解してくれる人間がいなくなるのだ。
「おい、大丈夫か? まさか、お前も風邪って事はないだろうな?」
俺が黙り込んでしまったので兄貴は戯けた調子で気遣ってくれた。機転の利く男だ。俺とは正反対だ。反射的に溜息を吐いてしまった。
「すまん、すまん。テンション高すぎたな。今帰ったばかりでさ。課長には困るよ。若いうちは経験を積まなきゃ駄目だって頑固一徹でさ」
兄貴は何が面白いのか? 普通人だけに通じる日本語で喋り出した。やつらは普通という主の奴隷なんだ。何か、リアクションを返した方が良いに決まっているのだが返せない。ただ、心底呆れていた。
「刑事っていう職業は大変だってドラマを見て解っていたのにな。実際はそれ以上に大変だ。犯人と格闘していれば良いというものじゃない。そんなの稀だ。書類仕事と簡単な雑務だよ、ほとんど。あ、悪い。悪い、学生のお前には関係ない話だったな。喰う為に大変なんだ」
喰う為に、出た! と思った。俺は顔を顰めた。何でも喰う為に、という言葉で人生の大半を費やして、彼らは自分達の大好きな社会と一体となって働きアリするんだ。
「いや、お前がうちに来たのが原因なんかじゃないぞ。逆に嬉しいんだ。高校生ともなると兄貴に頼るなんて格好悪いって思う年頃だしな」
と言い、兄貴は愛想の良さそうな笑いを浮かべた。心から自分を思ってくれる兄貴はそこで終われば、格好いいのにヘクションと叫んでくしゃみをした。締まらないのが兄貴らしくて良いと俺も笑った。だが、笑える立場にないのを思い出すとすぐに不機嫌を装った顔をした。そうするのが義務のようになっていた。良心の呵責というのだろうか、兄貴に対する。
甲高いチャイムが二階建ての家を包み込んだ。防音設備ゼロだ。だが、この家を兄貴は刑事になってすぐに購入したんだ。勇気のある行動だ。
「今朝のお弁当はカニクリームコロッケが美味しいぞ。皮がふわふわで箸で挟もうとしたら、中身のクリームが出てしまったよ。力入れるなよ、女を扱うみたいにそっとだ」
まだ、兄貴はそう喋り続けながら階段を下っていく。そして、玄関に着いたのだろう。足音が聞こえなくなった。代わりに小さな女の子の元気な声が聞こえてきた。
「お早うございます。楚質章君のお兄様ですね? 私は西肩高等学校の英語教師兼、保健教師の砂糖塩と言います。弟さんの説得に来ました」
「嘘を吐くのは止めなさい。君は……でしょ? ……、刑事さんなんだよ。……逮捕しちゃうよ」
いつもならば、有無を返さずに兄貴は教師を追い払ってくれるのだが、今日は様子が違うようだ。俺は気になって扉の前に近づいた。それでも、兄貴と教師が俺の件でどんな会話をしてるのかが解らなかった。とうとう、退学をするか? それとも彼らの言うところの真面目に学校へと来るか?(真面目に働き蟻になる勉強をするか?)の判断を促しに来たという推測を俺は立てた。答えは決まっていたはずなのにもやもやとしたものがその答えの上に掛かっている。そのもやもやとしたものは俺に偉そうに説教を立てる。
このまま、一生兄貴の世話になって暮らすのか? そんな事が不可能だというくらい君は知っているだろう。一人の人間が一生を暮らしていくにはそれこそ天文学的なお金が必要になる。まるで人生を過ごすための借金をみんな、背負っているんだ。お前はそれを全て兄貴に肩代わりさせるつもりなのか? ええ!
そのもやもやは不快な気持ちにさせた。何度も拳を作っては、解きを繰り返す。両親の家では荒れていて、今やろうとしている事は日常茶飯事だったが、不思議と兄貴の家ではそうしたくなかった。
「うるさいよ。そんなの無理だって知っているよ。けど、仕方ないじゃないか。そうしないと生きられないんだから……」
扉に背中をくっつけると、ひんやりとした。そのひんやりとした感触が冷静さを取り戻させた。独り言を吐いたのが妙に虚しく感じた。現実に住んでいる人間は社会に搾取されないと生きる事を許されない存在なんだ。それは絶対事項だ。酸素を吸いたくないから吸わないで生きると言っているようなものだ。
「馬鹿らしい」
扉を背もたれにして、俺は自分の殻に閉じこもる。意外と簡単なんだ自分の殻を作成するのは。まず、自分の両膝を両手で包む。膝とお腹に出来た隙間に頭を入れる。この時、両腕で両耳を塞ぐのが重要なポイントだ。こうする事で外にある音が完全に寸断される。隣の家からする五月蝿い赤ん坊の泣き声がぴったりと聞こえなくなった。別に赤ん坊の声は俺にとって気分を害するものではなかった。問題なのはその後に決まって、金切り声で泣くんじゃない、うるさい! と赤ん坊を敵視しているような母親の声、それがもはや、人間の出せる高音の限界を越えているのではないか、という程に五月蝿い。それにあの赤ん坊はきっと、俺なのだ。過去の俺だ。
そして、目を瞑れば、過去も、現在も、未来もない無の安らぎだけが目の前に広がる。今まで感じていた世界の揺らぎが無くなった。ここではまだ、世界は崩れる予兆を見せていない。だからこそ、神経を研ぎ澄まさずにただ、呼吸をゆっくり吐ける。事実、呼吸音は眠りに就く前の穏やかさを保っていた。それは一種の自己睡眠剤だ。欠伸をした。昨日、寝ていなくて、今日を跨いで起きているという事を急に実感した。そして、それに抵抗すべきではないと脳が勝手に決めつけ、心も賛同した。
首がかくっと予想外の降下をする。それに邪魔されて目を覚まし、目を擦った。目の前にはゴムボールが転がっていた。それは漫画やゲームに飽きた時に壁に向かって一人でキャッチボールをする為のボールだった。とても目障りだ。自分の行為がただの惰性である真実を見せつけられている気がする。立ち上がってボールを思い切り蹴り上げた。
蹴り上げた瞬間は自分を含めた全て(兄貴の普通人化現象、進むべき道が解らない迷子な自分、隣の金切り声)に対する途方もない空しさ百パーセントの怒りが自分の身体に渦巻いていた。だが、蹴ってから気付いた。その方向はやばい。ボールにはそんな俺の心情を汲み取る立派なデジタル的な機能は存在しない。ただ、力学の法則に則って真っ直ぐゴールを目指す。そう、窓硝子というゴールネットへ。
ボールは窓硝子へと躊躇いもなく突っ込んだ。爽快な音で硝子は辺りへと飛び散るのだろうと覚悟はしていたが、それ以上に臨場感のある音だった。しばらく、硝子の散らばる音が耳に残る。それが俺をいっそう、血の気が引く思いにさせた。
「どうした! おい、章! 返事しろ。まさか、自殺」
「ちょ、ちょ、貴女、勝手に人ん家に入らないで、入らないで下さい? とりあえず、章、怪我はないか!」
さすが兄貴と、もう開き直るべきなのだろうか、兄貴は持ち前の何処か抜けぷりを遺憾なく、発揮して階段を踏み外したようで転がり落ちる音が扉で隔たれた俺のいる部屋まで聞こえる。兄貴の情けない声も聞こえる。今の俺にはそれを労る余裕はなかった。歪な星形のように開けた部分からは青い空が見えた。爽やかな風が髪を揺らし、自分の異臭を嗅がされた。とてつもなく、臭かった。まるで賞味期限切れの肉を焼いて、それを豚小屋で食べているような臭さだ。嗚咽した。口を大きく開けた時、さらに悪風を吸い込んで咳き込み、嗚咽する。
兄貴が階段を上ってくるのよりも、数段軽い音が聞こえてきた。女教師のようだ。普通人らしく、面倒だけどもこれも仕事だから、という義務感によるお節介だろう。
俺は咄嗟に唇の周囲や顎を手で確認した。髭が生えている。すぐに着ているよれよれのTシャツの襟を持ち上げて、顔を突っ込む。突っ込んだ瞬間、汗臭さを通り越してゴミステーションの匂いがした。このまま、俺はゴミステーションに捨てられた殻の卵な存在として女教師に認定されるのかと足踏みをした。そうしていないとまた、窓硝子に風穴を開けてしまいそうだ。
扉に鍵が掛かっている。その事実を思い出した瞬間、心の平穏は保たれた。冷静になって辺りに散らばった窓硝子をちり取りで始末しようと思い立った。部屋の角に置いてある箒とちり取りを手に取る。
「さて、と……」
ちり取りの柄はとても、手に馴染んでいた。それはそうだ。横目でカレンダーを確認した。去年の十二月で止まっている。その月にドラマや小説なんかでありがちなトラウマを形成する程の凄惨な事件が起こったという事実は何一つない。ただ、何気なく、自分と世界とが見えない境界線で区別され、俺はそれを冷ややかな目で見ている気がしたんだ。そう思った瞬間、世界の崩壊の予兆が始まった。掃こうと腕を緩慢に動かす。突然、足元が在らぬ方向へと、机の脚へとふらついた。思い切り、右足を強打した。
虚しくなった。いつも、悲しみだけが俺という器を満たしている。だから、死にたくて仕方がない。泣きたくなったが、泣けなかった。
鍵を閉めていたはずの扉が開いて、夏みかんの爽やかな香りが俺の鼻を刺激した。その刺激はかつて、楽しかった頃の家族の団らんを思い起こさせる。家族みんなで行ったみかん狩り……もう、一度、一度で良いからあの幸福が欲しかった。魔女の呪いが解けたように涙が次から、次へとカーペットに染みを作っているのに不思議とそれはただの流れにしか感じなかった。
「大丈夫。泣きたい時に泣くのは章君が必要としているからなんだよ。泣いても良いよ、声を上げて」
その声は母さんだった。今の母さんじゃない。世界が崩壊し掛けているんだと感じる前の母さんの温もりが俺の背中を包んでいる。多分、自分の知らない人だろうに、その優しさに縋った。格好悪くて仕方ないという気持ちが涙を流し続けるのを躊躇わせた。
「ね? 理由は聞かないから」
俺の気持ちを知っている。まさに母さんだ。俺は振り向いて、
「母さん……。誰?」
母さんはやはり、そこにはいかなかった。代わりにいたのは妖精のように小柄なちびっ子だった。しかし、ちびっ子ではない。黒い虹彩には慈愛が白く燦めき、顔からは笑顔一つ見せない真剣さがあった。同情の笑顔を浮かべずに重みのある優しさを振りまく、百センチほどの存在が母さんであれば、良かったのにと思った。
黒いリボンと白いリボンで結わえた黒髪に手を差し伸べようとする自分に気が付いて、咄嗟に手を引っ込めた。自分が母さんと目の前の妖精に言ってしまった事と混ぜ合わせて俺の意識は急に鮮明になり、顔の周囲が火照るのを感じた。
妖精はびっくりしたという目を丸くした表情を浮かべたが、すぐに子ども特有のはにかんだ笑顔を見せた。妖精がただの餓鬼になった気がした。
「英語教師兼、保健室のせんせの砂糖塩です。宜しく御願いいたします」
その容姿からでは考えられないだろうという表現が尤も相応しい大人の女性の落ち着き払った声を確かに耳にした。
「嘘だろう」
俺はそう言って、扉のノブを掴んでいる兄貴の顔色を窺った。仏頂面をしていて、怒りを内面に溜めているのはここからでも確認できた。
こんな時だからこそ、なのか? 明け方にトイレに起きた事を思いだし、はっとした。
「本当だ。全く、人騒がせな弟だ。今回はお前じゃなかったから良かったけど、いつお前がそこの窓から思い詰めた顔で」
兄貴の言葉を遮り、代わりに今の自分の心からの願いを言う。
「俺は別に死んでも」口から滑らかにこぼれ落ちたその言葉を慈しむように「良い」と微笑んだ。これは心からの微笑みなんだ。
だが、普通人の兄貴には理解できない。顔を顰めて額に掛かった髪を掻き上げる仕草をしてから溜息を吐いた。わざとらしく、俺に解るように。それはくだらないという言葉を仕草で表したようなものだ。
「何が気に入らないんだ。俺が放って置いたのがまずかったか?」
「違うよ」
「それとも、両親の離婚問題か? だが、あんなのいつもの事だろう、うちの年中行事さ。それとも、そうなのか?」
「違うよ」
「学校で虐めにでもあったのか。でも、まだ、入学式しか学校に行っていないだろう?」
「違うよ」
「じゃあ」兄貴は冷静な普通人の顔を装っていたが、意志が伝わらないとばかりに苛立ち始めた。「兄貴」俺は兄貴の言葉を遮ろうとした。「なんなんだよ。お前なんか、うちの恥さらしだ」そう言ってやるのが当然の義務だ、とばかりに兄貴は俺を否定する。否定したんだ。「そうだよ、俺は」
死んだ方がやっぱり、良いんだ。死んだら、世界の崩壊の予兆に怯えずに天国なる場所で心を穏やかにして暮らせるのだろう。そこでもできれば、独りの方が良い。誰も傷つけず、誰にも傷つけられず……。
俺はカーペットの染みの黒い点を見つめ続けた。その黒い染みが早く自分を飲み込んでしまえば良いのに。しかし、何も起こらない。ただ、兄貴の興奮した鼻息と、静寂だけが意居心地の悪い雰囲気を醸し出している。両拳を握り締めた。皮膚と何週間も切っていない爪がぶち当たる。喰い込ませる。両拳に力を入れる。皮膚が破けて、血が多量に流れ出して気が付いたら天国という情景を思い浮かべる。破けろ! と念じた。だが、目の前にはカーペットの染みを横切る蟻。俺は自分の感情を御するのにも精神を使わなければならない普通人にはなりたくない。そんな冷徹な人間にはなりたくない。
誰か、俺を殺して下さい。
顔を上げる。塩せんせが兄貴の横腹を平手打ちした。平手打ちをしたにも関わらず、せんせの指先はぴんと伸びていてマニキュアを塗っていないのに綺麗なピンク色に見える血が爪の白から透けて見えた。顔にも動揺の色を見せない。
どうして、そんなに自分の決定に自信を持てるのか、解らない。このせんせは普通人じゃないけども、俺のような駄目人でもない。動揺している。
それは兄貴も同じで、腹をさすりながらただ、小さな塩せんせを見下ろしている。
「怒りの感情に任せてそんな心にもない事を言っては、めっですよ。人はみんな、誰だって落ち込んじゃう時だってあるのです。大抵は他者にはそれを見通す力はありません。けど、すずめはきっと、貴方の肩にも止まっているはずです」
「すずめ?」「すずめ?」と俺達、兄弟は異口同音した。だけど、心は違う。兄貴は見下して。俺は理解できない混乱さをただ、声にして。
そんな俺達を余所に塩せんせは神経を研ぎ澄ますように目を瞑った。とても、安らいでいる。そして、厳かに言葉を紡ぐ。
「知ってますか? 章君、章君のお兄様。人の肩を止まり木にしているとっても可愛いすずめさんが誰の肩にも一羽いるんですよ。そのすずめさんはその方の笑顔を糧に生きているんですよ」
「子ども騙しですね、塩せんせ。うちの章はもう、子どもじゃない。後三年もすれば、普通に社会に出て働くんだ」
兄貴に歪んだ笑顔を見据えて反発したくなった。眼鏡の奥にある瞳は既に俺の事を信じてくれていた兄貴ではなかった。いつだって、兄貴は味方だった。十二月から無気力になっていた俺を励ましてくれた。あんまんや、肉まんをたらふく、入れた袋を両手で抱えていつも、仕事が終わってから実家の俺と兄貴の勉強部屋へと顔を出してくれた。今も耳に残る。兄貴の言葉。
「喰うか、中華まん? 腹減ってるだろう。どれ、おお、お前、頭良いな」
その言葉の真意が理解できた。兄貴は俺を信じていたのではなく、普通人のレールを歩く俺を信じていたんだ。
第三志望である進学校の西肩高等学校合格という結果を兄貴と共に喜んでいた自分を今すぐ、有無も言わさずに殺したくなった。実際、心で何度も自分が自分に殺されたり、他人に殺されたりしているのだから簡単だ。
俺は否定できるものならば、否定して見ろ! という叫びを籠めて兄貴と塩せんせを蔑んだ目で見渡した。この二人は景色なんだ。俺は独り。
「俺のすずめはもう、死んでいるかもしれない」
「いいえ、死にませんよ。すずめさんは生命力が高いのですよ。でも、早く助けてあげましょう」
塩せんせは部屋を見渡して、机の側にあるコンビニのくじで去年当てた子ども用の椅子を俺の目の前に持ってきた。座席部分に描かれているアニメ調の麒麟にごめんなさいね、と謝ってから塩せんせはそこへと乗っかった。そして、背伸びをしてやっと、俺の目線へと自分の目線を合わせた。どうやら、これが目的だったらしく、塩せんせは満足げに頷いた。
塩せんせの目にはいつまでも見つめていたいと感じさせる可愛さがあった。まん丸い目という造形もそうさせるのだろうが、それ以前に瞳が嘘を吐いている感じがしなかった。
「学校、来られますか? 貴方が決めなさい。頑張りなさい。貴方に居場所を提供してあげる。ついでに今なら」何度も塩せんせの瞳と言葉を否定しようとしたが否定できない。俺の全ての人間は嘘つきだ論に駄目押しするように言葉は続く。「骨も拾ったげる」
真剣な口調は心に響いた。言葉を言い終えてからも俺の言葉を待っているかのように子犬のような身体には相応しくない、じっと待つという行動に徹する。
その塩せんせの一生懸命さは俺のあらゆる否定や肯定を全て打ち消して、笑いをもたらす。ただ、笑った。何も考えていなかった。易しい考えも、難しい考えも、だ。
「変わったせんせですね、塩せんせは。すいません、せんせに失礼な」と言っていた俺の言葉を遮って塩せんせは慌てて、「変わってるって悪いことなのかな? 良いと思うよ、せんせは。笑顔になれれば、オーケー。ねぇ?」と言った。
「変わった事が良いことだって? 下らない理論ですね。それは雑魚の理論。負け犬の理論ですよ。そうやって、世間から外れた人間は言い訳をするんですよ、犯罪者達はね」と塩せんせに向かって反論してから、俺を見ずに兄貴は煙草を背広から出しながら「章、俺はお前が早く、世間に恥ずかしくない普通な人間に更正するのを望んでいるぞ、じゃあな」と言って慌ただしく、階段を下っていった。
辺りを霧のような薄い静寂感が包み込んだ。塩せんせを前に俺は何を言ったら良いのか解らなくなった。去年の十二月のままのカレンダーをしょぼくれた目で睨んだ。
「誰にも期待されていないんですよ。死んでも」
言葉は続かなかった。肌に当たる空気が変わった。塩せんせは自分の肩の上空を撫でる仕草をしてから口を開いた。
「努力した? 努力してみたの? 章君、最後まで努力しない人間の涙には価値がないんですよ」
と言って塩せんせは勝手に去年のカレンダーを画鋲から外して、ゴミ箱へと投げ捨てた。まるで時間は動きましたよ、と告げに来た妖精のように。そして、妖精は俺の前に手を差し出した。
さぁ、偽りの涙を拭って努力をしてみましょう。最期まで、心が果てるまで、身体が果てるまで、と小さな腕には似合わない革製の腕時計をした右腕が語っていた。
今まで気にも留めていなかった時計の拍子の音がはっきりと聞こえる。
かちっ、かちっ、かちっ、かちっ。