act 3-akira 変革の天秤
act 3-akira 変革の天秤
塩せんせの気持ちを知ってから俺は正直、浮かれていた。だが、塩せんせを負ぶって塩せんせの家に帰るとそこには鬼がいた。箒を槍のように構えてあいなは俺よりも年下な女の子の癖にガミガミとした海獣声で叫んでいた。
「あたしのお姉ちゃんを置いて、英語の発音すら上手くできなそうな馬鹿は早くお家に帰って勉強しなさい」
「あいな、章君は努力しているんです。その努力を認めてあげて下さい」
塩せんせの暖かな息が耳に吹き掛かり、あいなよりも優位にいるように思えた。塩せんせだって確かに自分を擁護してくれている。思わず、にやついた。
「あんた、脳みそ、腐ってんの? あんたよりもあたしの方がずっと、頭が良いんだよ。それをお姉ちゃんも理解している発言をしているでしょ。努力してるんですだって。慰めよ、慰め」
淡々とした口調に冷めた視線も乗っけて俺に現実を知らせてくれたあいなは無理矢理、塩せんせを俺の肩から降ろそうとした。塩せんせは必死にしがみついて不満そうに反論する。
「もし、恋愛という授業項目があったら、残念ですけど」と一度区切った後、「落第です、あいなちゃん」
くすくすと小さな子どものように笑い出して、俺の背中に顔を埋めた。埋めただけでは飽き足らない様子でそわそわと両足を動かし始めた。
そんな塩せんせの無邪気さに相乗りして笑おうとした。あいなの瞳から大粒の涙が零れたのを見て止めた。表情を歪めたまま、泣かせてしまった理由を探した。残念ながら自分には思い当たらなかった。第一、あいなというどことなく、無理をしているような印象を受ける少女の心の内が解らなかった。
「大丈夫。私は章君の事、好きだけど、あいなも同じぐらい大好きだから。あいなを独りぼっちにさせないよ。独りの痛みは私だって知っているから」
背中の重みが消えて、温もりも消えて俺はまた、孤独に戻った。泣いているあいなの元に駆けつけて塩せんせはあいなの頭を優しく撫でた。そして、ぎゅっと、抱きしめた。
その光景を俺は外野から見つめている。いつも、自分がいる位置にまだ、いるんだ。小学校の授業参観日に一度も両親は来てくれなかった。それなのに漠然とした期待を持って、授業中、何度も振り向いた。その度に両親に裏切られた気持ちを積み重ねた。いつしか、何も期待しなくなってしまった。
塩せんせはあいなの耳元で何かを囁くと先程から俺に対して放っていた禍々しいまでの雰囲気をたった、一吹きの溜息で掻き消すとつまらなそうな顔に戻った。尤もこれが本人の素の表情なのだろう。何となく、肩の力が抜けているような気がする。
それを俺は食い入るようにいつもの位置から観察している。だけど、違う。今は期待していた。俺を君達の輪に入れてくれるのを。
「ほら、あいな。誘ってあげて」
「お兄様、あいながお勉強、教えてあげるから塩お姉様の家でお茶をしましょう」
仲間に入れてくれるのは嬉しいがお勉強、教えてあげるが余計だった。何となく、あいなという少女の性格が解ってきた。要するにただのお姉ちゃんっ子の餓鬼なんだ。
「違うでしょ、あいな。お勉強はいいの。あ、あ、よくない。よくない。学生は勉強第一なんだ。でも、たまにはリラックスすることも大切であって」
塩せんせの声はどもっていた。いつも、すらすらと淀みなく、喋る塩せんせが混乱してあたふたと周囲を回っているのを見て俺は唖然とした。
「とにかく、私が章君の事が大好きだから付き合いたいから、知りたいから、お茶を口実に話したいのです」
「お兄様、幻聴ですのでどうぞ、お引き取りを」
あいなが棒読み気味に喋った。俺が反論しようと口を開いたのに、その口に蓋をするように背後から塞いだ。腰を両手で押して敷地内から出そうとしている。だが、びくもしない。
「塩せんせの言っていること、違うだろう。それにどうでもいいけど、掌が俺の唾液」
その言葉を聞いて、あいなは低い悲鳴を上げながら背後へと飛び退いた。まるで彼女が被害者のようだ。呆れるしかなかった。目をぎらつかせて、あいなは俺を見ている。だが、無視して塩せんせを鑑賞する事にした。
塩せんせは相変わらず、可愛らしい。黒いスーツのポケットに林檎のバッジがさり気なく、付いている所が子どもらしい容姿と一致している。何処か、ほんわかな空気を醸し出していたが、今ではそれが全面に現れている。
顔を赤らめて、わざとらしくそっぽを向いている塩せんせは自分のツインテールを何度も指で弄っていた。
「あいなは一生、お姉様と二人の世界を築いて暮らすんです。お兄さんは草葉の陰から見守っていて下さい」
塩せんせの姿を自分の身体で隠すように仁王立ちした。そして、あいなは手を外側に振ってあっちいけと示す。塩せんせに免じて先輩への無礼は許してやろうと寛大な気持ちを今まで保ってきたがもう、限界だった。その指先一つ、一つの動きが苛立ちを増やす。
「もう、切れた。何だよ、この頭でっかちな百合餓鬼は。子どもは寝る時間だ。さっさとママンのとこに帰れよ」
お返しにお前の家はあれだ! とばかりに溜息を吐きながら、道路に捨てられたゴキブリ用の小さなお家を指さした。
あいなはその場で足を振り下ろして威嚇した。どうやら、これが本格的な俺達の開戦の合図のようだ。
良いだろうと顔を引き攣らせながら、俺は自分の感情に身を任せる事にした。
「うっさい、ひっきーはゴーハウスだ、この引き篭もり」
その事実を何故、あいなが知っているとびっくりした。その間を狙って棒読み型の言葉の剣は俺の心を恥辱という血で花を咲かせようとする。
「あたしのリュックサックにゲロを吐いたゲロ男」
「塩せんせ、貴女、俺の個人情報を」
「御免なさい、個人情報を流出させちゃいました。大丈夫、妹なら悪用しませんよ」
振り向くと塩せんせはそっぽを向いたまま、石ころに喋った。石ころに喋る塩せんせが可愛くて思わず、顔がにやけてしまった。それでも、言わなくてはならない事は言うべきだ。
「いや、もろ、悪用してるんですけど」
「ご町内の皆さん、こいつは!」
喉が張り裂けんばかりの声をを突然、あいなが出したので急いで俺は口を塞いだ。
「止めろ、腹黒生物。何を言うかは知らないけど、嫌な予感がする」
この記念すべき日はあいな怪獣のおかげで塩せんせとの甘いトーク属性を付与できなかった。だが、それが良かったのかもしれない。俺が帰宅するときにあいなは照れくさそうにこう言った。
「章君、これでお兄さんだね。だって、塩せんせと付き合うんでしょう。章君が同意してないけど、実質的にそんなようなものでしょう? だったら、これから楽しく応援してあげるよ」
お兄さんとか、そういうのはともかく、他者よりも劣っている自分にも友情がまた、一つ増えた気がした。それを幾つか、紡いでいったら自分は他者と同等に成長できるのだろうか? と暗い夜道を照らす満月の光をずっと、仰ぎ見て歩きながら考えた。
頭はぼーとしている。理由は二つある。
理由その一、午前三時にあいなから電話が掛かってきた。これだけならば、いつものように迷惑なことしないでくれよ、腹黒生物と愚痴を一つでも噛ましてから受話器を荒々しく置いた事だろう。だが、あいなという生物の生態はそんな優しいものではない。
「章、友達ができるのは大変、兄貴としては嬉しい。この頃、学業も頑張っているし、兄貴としてこれも嬉しい。だがね、婚約者はまだ、早いぞ。おい、おい、この章ちゃん」
悪乗りしている兄貴から無理矢理、受話器を奪い取るのに五分も掛かった。さすがは殺人事件を主に担当する刑事、憎たらしい俊敏さだ。という訳で今も兄貴の脳内では中学三年生の礼儀正しいあいなが俺の婚約者となっているらしい。そのあいなが受話器の向こうから叫んだ。
「脳みそ、ちゃんと働かせて聞いて。今日から三連休でしょう。だから、お姉ちゃんと景色の良い場所で日頃の疲れを癒しにいこうと思って。お姉ちゃんが章君も誘いなさいって」
牛さんの絵柄のパジャマを着たまま、微睡み立っている俺は塩せんせと一緒という事しか頭になくてすぐに行くと返事をした。
理由その二、今の状況が自分の理性を麻痺させているのだ。電車の席は四席あり、俺、あいな、塩せんせ、生地、夕張とそれぞれで座ると一席足りない。生地が気を利かせて一人で良いと言ってくれたが、塩せんせがそれに待ったを掛けた。そして、徐に履いていた真新しい白いスニーカーを脱ぐと、俺の膝の上に飛び乗った。そんな経緯があり、今塩せんせがお腹を膨らませたり、萎めたりしながらゆったりと呼吸して眠っている。塩せんせが落ちないようにお腹に手を回しているので、その命を紡いでいる酸素を摂取する動きがまじまじと解った。
塩せんせの髪を優しく撫でてあげると塩せんせは寝言でお母さんと呟いた。
「アッキー、塩せんせに対して馴れ馴れしくなったよね。付き合ってるんでしょう?」
「違うよ、サンタクロース女。俺の恩人だから。塩せんせがいなかったら、俺はここにはいなかった」
「私もだよ、アッキー。私はね、お母さんを乳ガンで亡くして……祖母が経営している和菓子屋 夕張に引き取られたんだ。母子家庭だったからね。そこしか行く場所がなかった……。こんな小さなせんせが私を救ってくれたんだ」
「それは俺が聞いて良いのか? 夕張」
「うん、良いよ。塩せんせの過去も少し見えてきて、私の一番目の男友達 アッキーの恋に貢献できるならね。それに過去はもう戻せないから、時々思い出すことでしか消化できない」
ショーケースにはいつものように甘そうな和菓子がずらりと並んでいた。和菓子屋夕張の二階に私と祖母の暮らす生活スペースがある。いつも、あんこの匂いが二階の生活スペースにまで漂って、胸がむかついた。朝食には必ず、和菓子が付いてくる。私はそれをいつも、美味そうに食べる演技をするのだ。
にこにことしながら、何度もどら焼きを噛んだ。本当はあんこの粒が歯茎に付着する違和感や、どら焼きの生地の柔らかさが嫌いだった。だが、和菓子について反論するといつも、面倒な事になる。何処が駄目なのかや、その解決策を求められるのだ。だから、一週間もしないうちに反論する事が得策ではないと知った。それを環境への適応というのだろう。でも、私は完全に和菓子屋夕張での生活に適用できなかった。
誰にでも、譲れないものがある。私にもある。
「そのサンタクロースみたいな衣装はいい加減に止めなさい。みっともないじゃないの。学校に行くなら制服を着なさい、ほら」
階段から降りてきた私の服の袖を祖母が掴む。いつものように眉間に皺を寄せて嫌悪感を隠そうとしない。紺色の着物がより一層、厳しい面持ちを際だたせている。
「嫌だよ、服なんか何だっていいじゃない」
「駄目よ、校則でちゃんと決まっているでしょ。制服は気持ちを入れ替えて集団行動に向けさせる為に存在しているんです」
「制服がなきゃ、集団行動できないなんて馬鹿」
通せんぼする祖母を乱暴に退けて、暖簾を抜けて祖母の声から逃れるように飛び出した。
道路に出た時、小さな女の子が目の前を横切ろうとしているのに気が付いたが、急には止まれず、女の子を突き飛ばしてしまった。
何の抵抗もなく、女の子は可哀想に転んでアスファルトに膝をぶつけてしまった。すぐに体育座りになり、擦り剥いた膝を憎々しげに見つめている。ツインテールの髪が悲しく風に遊ばれている気がして私は自分が前方不注意だったのを激しく後悔した。
「痛い。お尻を打ったし、ホットアイス入りの水筒が転がっていく」
女の子が痛みに顔を歪めながら顎で指摘した先には水筒がころころと生き物のように転がっていく姿が見えた。咄嗟に私はその水筒を追いかけた。だが、水筒は速度を増していく。私は本気になって、踵を地面になるべく付けずに飛ぶように走った。水筒を手で掬うように取って止まった。丁度、目の前をオートバイが通過し、身体に接触しそうになって冷や汗を掻いた。尤も、長袖のもこもこしたサンタクロースの衣装では熱すぎる太陽の日差しもあって、全身が熱い。おまけに息が整わずに吐き気がした。明らかな運動不足だと呟きながら私は上り坂を上がって、きょとんとしている女の子の手に無理矢理、水筒を持たせた。
「御免ね。お姉ちゃんが悪かったよ」
語気を強めて面倒くさそうに言った。私は疲れているのに、女の子は暢気にも擦り剥いた膝に大袈裟な大きい絆創膏を貼りながら欠伸をしていたのだ。少しは感謝の意を表して欲しいものだ。
「ちびって失礼ね。私は今日から西肩高等学校の教師、砂糖塩ですよ。もしかしたら、君の担任になるかもね」
すらすらと言葉を積み木のように並べたお利口さんな女の子を眺めた。黒いスーツを着ているというよりは着せられていると表現できるくらい不格好だ。側面が凹んだ水筒の他にはリュックサックを背負っている。リュックサックの肩ベルトには名札が結わえてあった。砂糖塩という名前を読み取ると息を吹き出した。
塩は少しむっとした表情を浮かべたが、すぐに苦笑いして印籠のように免許証を私に示した。年齢の箇所には二十六歳と記載されているが、隣にある写真は幼い顔立ちだった。
「嘘……。免許証偽造。最近の小学生は凄い技術を持っているんだね。感激」
そんな出来事が一時間前にあり、入学式で塩が嘘を吐いていない事が判明した。壇上に新任の先生として塩せんせが紹介されたのだ。やはり、背が届かないらしく、パイプ椅子からマイクを手で持って生徒達に挨拶をしていた。周囲の先生もそれを了解しているらしく、厳かな表情で生徒達を監視していた。残念ながら、友達になれる子と遭遇できなかったので一人で笑いそうな愚かな口を塞いでいた。その分、鼻で息をしていたので鼻息が荒かった。いや、鼻息で笑っていたのかもしれない。
サンタクロースの恰好をしている私が何のお咎めなしに居られるはずはなく、入学式が終わって早々、廊下で先生に呼び止められた。呼び止めた先生は見るからに頑固そうな黒縁眼鏡を掛けた中年だった。
「進学して早々、こんな服でくる馬鹿がいるか! ここは進学校なんだ。レベルの低い事で注意させるな」
先生はこう言ってから、この生徒をどう罵倒してやろうかと考えるように顎に手をやった。私と先生の間に入るようにすっと、塩せんせが私の前に立った。
「ちょっと、待って下さい。この子にも何か事情があるんでしょう。私が話を聞いても良いですか?」
「貴女が、ですか?」
「はい。砂塾出身の砂糖塩がです」
塩先生は同僚に朗らかとした口調で応えた。私と塩せんせを横目で見送る。先生は明らかに砂塾という名前に畏怖の念を抱いて何度もその単語を繰り返し呟いていた。
私は首を傾げた。自分に宿った好奇心には抵抗しきれずに、私は塩せんせの後から階段を登りながら聞いてみた。
「ねぇ、塩せんせ。砂塾って。あの先生、それを聞いた途端、びびっていたよ。あれ、傑作だね」
「砂塾というのは普通に馴染めなかった子達が勉学に励む塾でした。ただ、その中で自分が普通の世界で生きていく為の術を身に付けるそれだけの趣旨だったんですけど」
塩せんせは全く足を止めようとせずに淡々と私に説明してくれた。ですけど、という含みの意味はこの時、解明されなかった。後になって、塩せんせのちょっとした言葉の端々をパズルのように合わせていくとどうやら、砂塾の卒業生の何割かは有名人として社会で活躍している事実に辿り着いた。
塩せんせが屋上に続く扉を開くと、元来とは違う屋上の光景に私は目を見張った。コンクリートの床ではなく、土と草で覆われていた。木々が生えていて、さらさらと風に揺れては爽やかな音を奏でる。
「せんせ、木に登るなんて危ない」
突然、木によじ登り始めた塩せんせに向かって叫んだ。しかし、聞こえていないのか、塩せんせは捲れたスカートからジュニアショーツがまる見えなのも構わずに上を向いて集中していた。顔には無邪気な微笑みが浮かんでいる。それを見ている私が穢れた存在なのでは? と感想を持つ程、少女的無垢さに輝いていた。
あっという間に木の枝に腰掛けると私の方を向いて叫んだ。
「大丈夫ですよ。風は強くありませんから。隣、どうですか?」
「はい」
言った瞬間、自分に対して心の中であんな恥ずかしい事を私もするのか、と私の中にいる返事した何者かにブーイングを送った。だが、両足は太い幹へと近づいていった。
私は木登りを舐めてかかっていた。塩せんせのような小さな容姿でも登れるのだから背の高い私ならどうってことない。意味不明な自信に満ちていた。だが、何度も足を滑らせて落ちそうになった。
やっとの思いで塩せんせの隣に腰掛ける。塩せんせは目を瞑り、こう言った。
「ねぇ、こう目を閉じて風を感じていると自由な感じがしません?」
私は目を瞑ってみた。
何だ、暗闇とただの耳障りな風音ではないか、と反論しようとした。だが、それは言葉には変換されなかった。
見えてきた、自分にはなかったはずの感動がじわじわと芽吹いてくる。
幼かった頃、母親に連れられていった近所の公園の風、乳母車に乗って私は草の茎と茎を闘わせていた。右の草さんが勝ったよ、左の草さんが勝ったよと絶えず、母親に報告した。その都度、母親は良かったね、夕張ちゃんと微笑んでいた。
私は笑っていたんだと思う。不安も何もなく、タオルケットの敷かれた乳母車の座席で。
それと同じように目を瞑ると不安が消えていく気がした。
「はい。します」
強い確信を持って私は答えた。そして、目を開けた。目を開けると、広々とした空間感が広がっていた。
眼下に広がる灰色のビル群や、豆粒のような自動車を見ているとそこまで一っ飛びで行けるのではという考えが浮かんでくる。
「でも、それは私達が風の意志とは別にそう感じているだけで、風はそうしたいから吹いているんじゃないんですよ」
「そう言われると不思議だけど、そうですね」
「それと同じでさっきの先生は貴女がだらしなく校則に違反していると一方的に考えていて絶対意見だと信じている。でも、違うよね?」
「違います、反抗したいわけじゃないけど……理由までは」
俯き加減にあからさまに苦悶した。すると、塩せんせの掌が伸びてきて、私の手の甲と重なった。塩せんせの掌の方が体温が高いのか、温かさが伝わってきた。
「心が痛むんでしたら、無理に言わないで下さい。きっと、いつか、痛みは晴れて貴女はまた、一歩、自分を発見するはずです。人間は自分を視るのが一番、痛いんです。だから、風のように歌えない。あーあーってね。さぁ!」
さぁ! と勢いよく肩を叩かれたので落ちそうになった。だが、楽しくて仕方がなかった。なんて、無垢な行動を取るのだろう。
「あーあー」という塩せんせの声に続いて、「あーあー」と私も叫んだ。
「せんせは強い人なんですね。自分を視るのが一番、つらいって言えないよ。私は解ってるのに。こんなサンタクロースみたいな恰好をしても、母さんは帰ってこないって知っているのに。私がサンタクロースの恰好して待っている。けど、電話で、電話で、つらい思いさせて御免ねって言ったきりで。私、警察に電話して一緒になって探したけど」
すらすらと言葉を言えていたのに段々と言葉が喉の奥で混雑している。代わりに涙が流れてきた。目が痛い。それ以上にうん、と相槌を仕切りに打ってくれた塩せんせにまだ、私の痛みを伝えたかった。悔しい……。
「手遅れだったんだね。まだ、その記憶を上手く消化できないんだね」
塩せんせは私の肩の上を撫でながら、優しい口調で言った。そして、囁くように言葉を続けた。
「私、校長先生に掛け合って保健室で勉強できるようにしようって考えているんだ。身体だけじゃなくて心だって治癒するまで時間が掛かるからね。そこでなら、サンタクロース、オーケーだけどどうかな?」
「良いんですか? 簡単に決めて」
突然の提案に動揺して、私は塩せんせの横顔を眺めて聞いた。横顔を見るとやはり、どうみても幼く、丸みを帯びた頬は可愛いとさえ思う。保護欲をそそる可愛さなのだ。
「なんか、先生の言葉って重みがあって魔法みたい」
そう言われて塩せんせは結わえられた髪を撫でて喜んでいた。
「うん、俺と同じ意見だ。眠っているコアラみたいに可愛らしいせんせが魔法使いに思えてしょうがないよ」
塩せんせの顔を覗き込んでから答えた。塩せんせは全く起きることなく、お腹をぽりぽりと時々、掻いて眠っている。
「魔法に章君も掛かってるんだね。だったら、変わるよ、君も良い方向にさ」
変わるかな? と俺は視線を塩せんせの肩に佇むちびかに合わせた。ちびかは力強く頷いた。
「あんた、昔の塩に似ているから絶対、変わるよ。自分の弱さを見つめているもの」
塩せんせに連れられて山に近い、駐車場へとやって来た。これから山へ登る為、しばらくはトイレ休憩ができないので各自、休憩するようにという塩せんせの号令で俺達は駐車場に散らばった。駐車場の近くには売店があった。その売店には御菓子やお弁当が売っていた。塩せんせと俺で弁当と御菓子を購入することになった。
「聞いてきましたよ。生地は鰻重。夕張はあれば夕張メロン、なければ、サンドイッチ。俺はこれ、食べようと思います」
「あ、私もこれ頂きます」
二段も展開されている海苔弁当のうち、同じ海苔弁当に狙いをつけた俺と塩せんせの指が触れた。俺は遠慮してどうぞとその海苔弁当を手渡した。塩せんせは急に陽気に笑った。
「変な章君。こんなにいっぱい、あるんだから遠慮しなくて大丈夫なんだよ」
「塩せんせの指の方が先にその海苔弁当に触れてましたから」
俺は苦笑いして、他の海苔弁当を手に取った。海苔弁当は三百五十円なだけに量が少なかった。これから山登りをするのだからお腹が空くに違いない。海苔弁当の側にあった。カレーライスにも手を伸ばした。こちらは四百円だ。
「お腹、痛い痛い痛いになっちゃいますよ。そんなに欲張りさんになると」
自分のお腹を両手で支えて塩せんせは戯けてみせた。だが、塩せんせの篭にはスナック菓子が二袋、入っていた。
「お腹が痛くなりますよ?」
「スナック菓子は三時のおやつに食べるから平気です」
そんなちゃっかりした塩せんせと買い物を終えて、談話をしていたらあっという間に時間は過ぎていった。その時間を引き裂くようにあいなが叫んだ。
「お姉ちゃんとあたしの案を合わせた姉妹合作の章君幸福大作戦。大成功に間違い無しの場所へはここから徒歩一時間掛かるよ。張り切って行こう!」
自分が一番、偉いのだとばかりに胸を張って、この山道を整備した政治家 吉乃枝拓蔵の銅像の横に立っていた。はしゃいで吉野枝氏の禿頭をハンカチで磨いていた。俺は太陽の陽の光を眩しく感じ、目を細めていた。雲一つない天候なので天然ワックスのおかげで輝いているから無意味だと、その考え自体が無意味な感想を持った。
一方、生地は早く降りろというような非難を露わにしていた。
「その幸福大作戦とやらの為に午前三時という本来ならば、まだ睡眠学習中の俺を叩き起こしてくれたのか? 怠い山登りもおまけ付きか」
げんなりした表情で生地は山道入り口の立て札のある坂を見つめた。憂鬱そうな溜息は生地がどれだけ山登りが嫌なのかを物語っていた。
「おや? もしかしてもしかしなくとも生地ちゃんはまだ、おねむなんですか? ほう」
やはり、あんな打ち明け話を聞いてもサンタクロース女はサンタクロース女だった。嫌がり、在らぬ方向を向く生地を追いかけてはまた、生地の顔を窺うというのを何度も試みている。
そういえば、宿泊する場所が一体、何処にあるのか? 教えてもらっていない。道すがら、何度もあいなに聞いてみたのだが、答えてくれなかった。もう、きつい傾斜の道を歩き続けていた。そのせいか、みんなは終始、無言のまま、地面を見つめている。俺も蟻さんを何匹も見た気がする。そんな状態であいなに聞いてもやはり、返事は塩せんせと二人きりラブラブはできそうにないとこだよと茶化されるだけだ。
そこで塩せんせに聞いてみようと思い、みんなから三十メートルくらい後から両膝に手を添えて中腰で歩いてくる塩せんせを見つめた。塩せんせに対しての目線は全く気付かれなかった。そこで半ば、自棄になって叫んだ。
「塩せんせ、塩せんせ」
「はい、質問ですか?」
掠れる声で応えても塩せんせは毒気のない笑顔を浮かべた。その瞬間、小枝に足を取られて泥に両膝を付いてしまった。塩せんせは髪の毛を泥の付着した手で触れながら愛想笑いを浮かべて口を緩慢に開いた。
「駄目ですよ、キスは学生のうちは、絶対しませんよ。不健全です。せいぜい、二人で同じ皿のホットアイスを食べるまでしか許可しません」
キスよりも持続する時間を想像すると顔が真っ赤になった。それにとどめを射すかのようにサンタクロースの衣装を着た悪魔が肩をそっと、揉みほぐした。
「高校生の男子君、我慢できるかな」
悪魔はそう告げると頬に息を吹きかけて走りだした。当然、俺はさらに顔を真っ赤にさせながら、追いかけた。泥で塩せんせに褒めてもらおうと思って購入したブランド物のスニーカーを台無しにさせながら、悪魔を追いかける。さすが、世界中にプレゼントを配る好々爺の衣装を着ているだけあって、素早い。
川岸に追い込んだ。川の流れは緩やかで渡れそうだが、あの悪魔も女性だ。恥じらいがあるはずだ。ほんの一掴みの塩くらいは……。
女性だ、という事実を忘れているといっても差し支えはないであろう荒々しい呼吸で、普通は登れそうもない岩場を軽々、飛び越えていく。
だが、悪魔から普通の少女に戻った夕張は滑って岩場から落ちる。呆けた表情が善意を刺激した。助けようと手を差し出そうとした。
「駄目。自殺に見えるような事をしては駄目! 忘れたの、今の貴方はいつ死んだっておかしくない。極力、死の要因は避けないとね」
いつの間にか、中空から見守っていたすずめが甲高く叫んだ。咄嗟に手を引っ込めた。夕張はその手を掴もうとしていたのに引っ込めたのだ。自己嫌悪に陥って、俺は夕張の姿をじっと、見た。眺めたのではない、見たのだ。
小石に当たって白い飛沫を上げる水と岩の対峙に混じり、その世界の循環をねじ曲げるように夕張はいた。浅くて、ほっとしたと胸をなで下ろしていた。衣装の赤がさらに濃くなっていた。水によって十代のしっとりとした夕張の肌が際だっていて、俺は一瞬、全身が熱くなった。
塩せんせの肌をそこから想像してしまった。幼い容姿からも想像できるように押したら高級クッションのように柔らかいのだろう。それを枕に眠ったら安心して眠れそうだ。
「あ、やっぱり、二十一世紀の美少女夕張様の柔肌を見つめてエロい事を考えていたな」
勘ぐるように卑しく笑ってみせた夕張にむっとした。
「違うよ。俺は塩せんせの肌について……あ」
時既に遅し、と俺はただ、生まれ立ての子鹿のように震えて陸へと上陸してくる夕張を茫然と見ていた。夕張は髪を掻き上げて、優しく肩を叩くと同情の言葉を贈った。
「大丈夫。塩せんせの肌はいずれ、全て君の物だ。あたしによく似た好々爺が十二月のとある日にプレゼントせずとも君の物だろうさ。だけど、塩せんせの肌に辿り着くにはかなりの鉄壁のガードを潜り抜けなければならんぞ」
説得力ある言葉に俺は頷いた。もしかして、女の子にしか解らない女の子攻略法を水揚げされた若布のようにずぶ濡れなサンタクロースは贈ってくれるのか、という眼差しで言葉を待った。
「無理矢理、ゴールを狙え。良いか、駄目だからといって諦めるな。とにかく、走らなければ、サッカーボールはゴールに入らないんだ。ナイスプレーを望むよ」
「いい加減だな」
その言葉にサンタクロースは強く頷くとこう付け加えた。
「だって、あたしの人生じゃないからね。ただ、塩せんせの笑顔を見るにはどうしたら良いかを考え続けて実行すれば良いと思うよ。これは本気のアドバイス。放って置いたら、嫌われているのかなって思われちゃうよ」
塩せんせ達のペースを気にせずに夕張と追い駆けっこをしてしまったのが急に気になった。後ろを振り返り、その姿を確認しようとしてもいなかった。
前方からあいなが俺の名前を叫んでいた。びっくりして、向こう岸を覗き込むと塩せんせ達がいた。向こう岸に渡る橋がないのにどうやってと驚いた。
「無駄な体力の浪費をせずにどんどん、こっちに来い」
素っ気なく言った後、生地は開いたままの本に視線を戻した。気のせいだろうか、口元が緩んでいる気がする。
「よく本なんか開いて岩場を登り切ったな、いつの間に向こう岸に着いたんだ? 塩せんせまでも」
飛び移れそうな岩場を目で探しながら、本の世界へと帰還してしまった生地ではなく、塩せんせに聞いた。
塩せんせは向こう岸に渡った後、座れそうな大きな石を見つけて腰を下ろしていた。前屈みになり、地面に息を吹きかけているような姿勢になっている。その姿勢が小さなハムスターが身体を丸めているように見えて愛おしい微笑みを俺の内に呼んでくれた。
「章君は視力幾つかな、お姉ちゃん?」
塩せんせが言うはずがないと感じた俺は助け船を出そうと思った。だが、塩せんせが浅く頷くと空を仰ぎ見て考え始めた。
「確か」と塩せんせはツインテールを弄りながら、記憶を探っている。「ちょっと、塩せんせ」と俺は止めようとして手を伸ばしたが、その手が塩せんせに届くはずはない。何メートルも先なのだから。全く我ながら間抜けだ。「視力は両眼とも二でしたよ、好成績です。この頃、生徒さんは目を大切にしていないようでして、生地君なんか……。個人情報は漏洩させては駄目でしたね」
舌をちらっと出して、俺の方をせんせ、間違えちゃうとこだったよと保護欲を誘う敵意のない瞳で見つめる。
「俺のも個人情報……」
と低く愚痴を零した。可愛らしさに免じて許してしまう自分はすっかり、塩せんせの虜だ。
「章君、あれは何かな? お姉ちゃんに教えて欲しいなぁ」
あいなが馬鹿にする含みを込めた声で言った。細い指の先を辿っていくと巨木が橋の役割を果たしている箇所にぶつかった。川の緩やかな流れを塞き止めるのではなく、隙間があるようだ。
「橋です」と些か、羞恥と苛立ちを込めて言った。「英語でいうと!」と何だか、楽しげに塩せんせが両手を挙げた。弛みのない綺麗な脇が見えて嬉々とした。その感情的な勢いを殺さずに微笑んで、「ブリッジです」「ちなみに章君がこの前のテストでbridgeをbradgeに改造した箇所だ」
と俺の言葉に注釈を付けるようにあいなが要らない文章を叫んだ。
「何で知っているんだ」
律儀にもツッコミを入れながら、苦労して登った岩場を降りている自分が情けなかった。荒い息を口から吐いている俺を透き通った水中に住む小魚達はきっと、せせら笑っているだろう。
だが、嫌いではなかったこういう他人と過ごす風景が。塩せんせに会う前は兄貴から提供して貰った一室で孤独な自分を愛でていた。ああ、可哀想だ。ああ、可哀想だと心で道化を飼いながら、何処か満たされていなかった。本当は孤独が嫌いだった事に気が付かず、兄貴の無償の愛も当たり前だと思っていた。
目を擦っている塩せんせの両肩を包んで優しく、
「こら、塩」
と褒めた。俺をここまで変えてくれたのだからお礼を言えて気持ちがすっきりした。
「そうですよ、章君。ここは学校ではないんですから、塩と呼んで下さい。できれば、詩温の方がもっと嬉しいです」
「詩温って塩せんせの芸名?」
塩せんせの頭部がシャツに触れていたがもう、気にならなかった。その距離感が安心できた。
「そんなようなものですね。もう、十年以上前にその名前で呼ばれるのもなくなってしまったんですよ」
木々の影に重なった塩せんせの笑顔が陰っているように思えた。気のせいかもしれないがどうしても慰めたい。俺は塩せんせより一歩前に出て、行く手を遮った。
「そんな事、ない。俺、呼びますよ。詩温って」
俺は塩せんせを熱っぽく見つめた。それが有耶無耶にしていた付き合って欲しいとの同等の意味を示しているのを互いに理解していた。
ちびかがすずめの羽根を小突いて、連れだって飛んでいった。余計な気を利かせてくれたのだろう。いつの間にか、前を歩いていた生地達の足音が聞こえなくなっていた。気配もない事から置いていかれたようだ。夕張の微笑みが浮かんだ。渇いた口の中でサンタクロースがくれた時間ってねと言葉を噛み砕いた。
しんとした音のない世界が二人を見つめている気がした。急に顔が真っ赤になった。なんて恥ずかしい事を言ってしまったのだろう。
塩せんせは背伸びして何かに気が付くと眉を潜めた。身長が足りないという事実に辿り着いて、はにかんだ。塩せんせの両脇に両手を当てて、そのまま強引に持ち上げた。
目と目が合う。全身に高揚感が猛威を振るっている。
唇と唇が知り合おうと近づく。息と息が出逢った。だが、いつまで立っても幸福の感触は訪れない。あれ? と首を傾げた。
その瞬間を狙ったとばかりに温かい感触が額に宿った。しばらくの間、注がれていく熱は詩温こと、塩せんせをもっと好きにさせてくれた。
「不意打ちですよ。言いましたよね、貴方の可愛い雑魚の詩温ちゃんは」
「キスは俺が卒業するまでお預けですか、詩温」
「詩の一節を愛おしく、諳んじるように私のマニアさんになって下さい。そうしたら、本能が理性を駆逐するかもしれませんよ、えい」
塩せんせが大らかに笑い、丁度近くにあった木から葉っぱをもぎ取って俺の頬を優しく叩いた。
この時から自分の心に一匹の可愛い雑魚ちゃんが泳ぎ始めた。小さいのにきょろきょろと泳ぎ回っては愛想をみんなに振りまく愛すべき雑魚ちゃんだ。
「はい、最終地点に到着。懐かしい我が故郷」
あいなが指さした先には屋根の上に草が生い茂っている古びたログハウスがあった。何やら、妖精さんが住んでいそうな家という感想を持ったのは繋いだ手による感情の高揚がもたらしたものだけではない。本当に明るい光が射している。窓が光を反射して眩しく光っているのが近づくにつれて解った。
「故郷? ここは塾だろう。看板にもそう書いてある。少し、稚拙で読み難いが」
まだ、若木の香りの漂う看板に生地の指摘があった通り、砂塾と辛うじて読める字で記載されていた。それを確認した後、生地は看板に寄り掛かり、本をまた、読み始めた。
「それ、書いたの、私。やっぱり、字が汚いですか? 指先が震えていたのでまさかとは思ったんです。もしかして、この絵、塩せんせに見えませんか?」確かに看板の右下に小さく、人間らしき丸みの帯びた輪郭と蕎麦のような髪、点の目玉などの印象的な特徴の絵が描かれていた。あいなは嬉しそうに「塩せんせ?」と確認しようと塩せんせの方を向いた。
丁度、俺と目が合ってしまった。互いにあっという低い声をもらした。心なしか、あいなの声には侮蔑の色が混じっている。そんなやり取りなんぞ、露知らず、背伸びした塩せんせの頬が肩にぶつかった。どうやら、頬と頬を合わせたいらしい。その意図が塩せんせの無言で意思疎通できた。あいなの目線から逃れるのが失礼に当たると逸らさずに、ゆっくりと塩せんせをお姫様抱っこした。
「詩温は可愛いな」と半ば、投げやりに言った。呼応して、頬に塩せんせの頬熱が伝わる。「章君も可愛いですよ」
あいなは口を噤んだまま、塩せんせの頭を軽く叩き、俺の足を勢いよく踏んづけた。叫びそうになるくらいの痛みが走ったが塩せんせの手前、恰好をつけたかった。そんな男の悲しい性をあいなはせせら笑う。
「章君も可愛いですよ」
とわざとらしく、言うのも勿論、忘れない。本当に嫌味の天才だ。
風で塩せんせのフリルが二段付いたスカートが捲れないように俺はさり気なく、スカートの裾を持った。なんて、紳士的なんだろうと自己賛美を脳内に贈り、気分は昂揚していた。
ふと、森の方に視線を感じて向くと通学用鞄を肩に背負っている女の子と目が合った。にこりとその子は無邪気に微笑んだ。
「お兄ちゃん、エロいね」
俺はその言葉に茫然とした。塩せんせはそれを聞いて腹を抱えて笑う。台無しだ、紳士が台無しだ。
夕張が勢いよく少女の所へと飛んで行った。任せてとばかりの真剣な表情をしていた。これはフォローが期待できる、どうやらサンタクロースは完全に味方のようだ。
「少女よ、大人になれば、解るよ。人間、異性を気に入ると頭の回路が混乱するんだよ。まるで数学のテストで正しい答えを誤って消してしまった子みたいな頭になるんだよ」
「へぇ、それ、ださいね。ちなみに私の名前は三津なな」
「よしよし、君は賢いあたしの二代目になるだろうさ」
ななの憐れみの光沢を失った瞳が冷や汗を呼び起こした。俺は後退ったが、効果のない事にすぐ気が付いた。一つの考えが浮かんだのだ。あいなは砂塾を故郷と言っていった。ということは、あいなの嫌味さを伝授された塾生がわんさか居るはずだ。
今目の前にいる少女に騙されるなと本能が警告を鳴らす。セーラー服を着た黒い髪の地味な少女に映っているが錯覚だ。身体と心は一致しないっていう例が俺の掌の上にいる。
親しげにななと握手をしている塩せんせの横顔をじっと、観察した。やはり、一致していない無邪気さと社交性が存在している。
「ドンマイ、章君」と励まして欲しいから見つめると誤解を受けた。「はい、詩温」
「何か、無性に腹が立つから着いてこなくてもいいぞ、章」
「根暗な顔して嘘を吐くなよ。俺達、友達だろう」
「友達? そんなものいないよ。やがて、消える物質にどんな意味を見出せと?」
ログハウスの階段を上がりながら、俺の方を向こうともしなかった。声の調子から生地が憤慨しているのが解った。まるで迷惑だと今にも言いそうだ。
塩せんせが耳元で降ろして下さい、ちょっと行ってきますと囁いた。その顔は悩みのない笑顔から毅然とした女性の顔に変わっていた。どちらが本当の塩なのか、解らなかった。ただ、突然の二面性に従うだけしかできなかった。何か、解らない力の作用が働いて腕を動かしている気がした。
「消えるからって全てに対して目を閉じていては駄目ですよ。少なくとも貴方はもう、以前から目を開いて見ていますよ、沢山、沢山、美しい物を。どうです、心当たりありませんか?」
生地の服の袖を掴んで強い口調で塩せんせは問うのだった。
「僕は見る度、まみに申し訳ない気持ちになりますよ。自分から僕の盾になり、刺されたまみの苦しげな顔に悪い気がする。僕は逃げたんだ、その隙に」
急に振り返ると生地はかっと目を見開いて、塩せんせを憎しげに見つめた。だが、生地は俺の方を悲しげに見つめると頭を下げた。俺はそれが悲しかった。昔の俺ならば、悲しくはないだろう。今は塩せんせっていう心を語る事のできる大切な人に出会ったから、悲しい事を悲しいと感じる感情を手に入れた。生地にとってはかつて、生きている世界に存在していたまみちゃんなのだろうか? きっと、そうだ。前に俺に対して、お前、兄さんに愛されているね。全く、羨ましいものだという言葉が蘇った。
だから、生地の謝罪を無視して俺はみんなを見回して喋った。
「目的地に着いたぞ。さぁ、これでお昼ご飯にありつける。もりもり、食べて。それから普段では味わえない体験をエンジョイしちゃおう」
明らかに空元気だったが、俺のウィンクに塩せんせが、あいなが、夕張が、ななが、そして、生地までもが笑ってくれた。
「お前は俺とは違いお茶目だな。だが、悪くない。それでも気が合う」
腹を抱えて笑い始めた生地の瞼に少し涙が溜まっているのに気付いたのは俺だけだろうか?
「あの張り切っているエロ兄には悪いんだけど今、みんなで海辺の清掃に出掛けているんですよ」
申し訳なさそうにななは言った。
「ここって塾よね? どうして」
夕張がいち早く、みんなが気になっている事を非難の色なく、好奇の活き活きした声で訪ねる。全く、一時は俺と追い駆けっこを催したというのに元気だ。やはり、好々爺の世界中さえも駆け抜ける源は赤い衣装にあるのだろう、きっと。
「週に一度、地元の老人会と一緒にボランティアで色んな所の清掃をしているんです」
思い出したと掌を拳で叩いて、塩せんせはみんなを代わる代わる見ながら言った。
「自然を大切にしようって事か」と感心したように言う生地。
「それもあるけど、せざるを得ないの。捨てられた思い出は哀しいでしょ?」
俺は俯いてななの語気の荒いその言葉を反芻する。捨てたい思い出があると思っていた。それは主に父親との思い出だ。いつも忍兄貴と俺を比較して脳無しとレッテルを貼る。それは仕方のないことなのに。両親の会話からばれた俺の俺さえ知らない秘密、他人とは違う脳、それは俺が普通と異端の境界線にある人間だってこと。とにかく、そのような思い出を消したいと。だが、それがあったからこそ、塩せんせの温もりを知れた。
確信している、捨てられる思い出なんて一つもない。思い出、一つ、一つが俺なんだ。
「俺らも手伝わせてもらえないだろうか?」
深呼吸の余韻の力を借りて、すっとその言葉は内から外へと吹き出た。
「章君、それよりもご飯よ、ご飯。もう、午後一時だよ」
夕張が俺の両肩を揉んで懐柔しようとする。
「駄目かな? みんな。俺には信じられないんだ、捨てる事のできる思い出があるなんて。だから、この目で確かめたい」
塩せんせも、生地も、夕張も、あいなも、この言葉できっと、確かめたいという意志に固まるはずだ。理由のない自信があった。案の定、誰もが深く頷いてくれた。
山道を下っていくと海辺があるのだと道すがら、俺達はななの説明を受けた。ゴミ袋を取りに来た塾生のリーダーななの後を着いて、ひたすら歩く。ぼんやりとななの奴は何枚ものゴミ袋を引き摺っているけど、破れないのかな? と疑問に思っていた。
しばらく、疲労のあまり足が重いのを我慢して歩いていくと、青一色の景色が映えてきた。広大な海を見ていると、自分の普段、目で認識できる視野の範囲がこの時だけ、広がったように感じる。心が癒されていくのが自分でも解った。言葉にならない負の感情達が太陽の熱に焼かれて天へと登っていく。いつの間にか、父親との対立を忘れていた。いや、忘れたんではない、許せるようになっていた。
俺と、あの人との価値観は所詮、違うんだ、と。同じ人間ではない、と。全てをはいにする必要はない、と。
浮かれた足取りで海へと一直線すべく、地を蹴りつける。
「章君、痛いです。詩温ペースに合わせて下さい」
「仕方がないなぁ、詩温。抱っこするよ」
手を繋いでいた事を照れ隠しの微笑で隠し、詩温のお尻に手を添えて持ち上げた。思ったよりも軽いと驚いた事を顔に出さないように真面目くさった表情をして、走りだした。そんな心配をせずとも、
「速い! 速い! これは普段のペースの十倍ですね」
とはしゃいだ声を上げて、両足をばたつかせている。その証拠に俺の尻に蹴りが入っている。正直、尻に当たる感触が今、塩せんせがすぐ近くにいるんだと執拗なまでに感じさせてくれた。
「酷い。なんで、こんな浜辺に」
遠くからはあんなに綺麗に見えていた海には花火が浮かんでいたり、錆びた冷蔵庫が浮かんでいた。それだけではないありとあらゆる物が海に、浜辺に存在していた。
今時の十代が毎日、鏡の前で髪の毛をセットする為に使用するブラシ付きのドライヤーが岩場に引っ掛かっている。
俺は唖然として眺めていた。声が出ない。
俺が小遣いを貯めて一番、購入したいと思っているデスクトップパソコンが波達に弄ばれている。
塩せんせは俺の横でその行方を見守っていた。
兄貴が万年、着ている草臥れた背広よりも立派であろう背広が打ち上げられている。
夕張は勿体ないと溜息を吐いてそれへと駆け寄った。
辞書らしきページが水分を含んで膨らんだ本の上に小さな蟹が横歩きしていた。
生地は嫌悪を露わにして、眉根を潜めている。まるで人間の所業ではないと言うように。
高価そうな指輪が流木に引っ掛かっていた。
あいなはそれを目ざとく見つけると質屋で換金すれば良いのにと呟いていた。
自然の青、肌色を人間の創造物が汚していく光景に怒りを通り越して、憎しみさえ覚えた。それは遠くから見た青、肌色が美しいと感じてしまった自分に対してもだ。
「今日は仰山、手伝いに来てくれるなぁ。くそじじぃは嬉しいよ、三木坊の弟子」
杖を砂にとられても老人は浮かべた笑顔を変えることなく、塩せんせへと歩み寄ると握手を交わす。
「生徒と恋人の前で三木坊の弟子って呼ばないで下さいよ、茂田さん」
親しみの籠もった口調は俺の知らない塩せんせがあるという事実を教えてくれた。
「このくそじじぃに言ったって解りはしないよ。昔から女心を理解していない男なんだからさ。久しぶりだね、塩」
茂田さんの禿げた頭を太鼓のように気軽に叩いた老婆は塩に言った。
「久しぶりって一週間前の車椅子の講習会で会ったばかりじゃないですか。とうとう、物知り美砂さんも惚けましたね」
俺はその車椅子の講演会の内容を知らない。軽く老婆に嫉妬した。そんな嫉妬している自分が嫌で唇を噛み締めた。塩せんせは俺の所有物じゃない。
だが、塩せんせが瞬きを一つしただけでも視線はそちらへと映る。
「何、言ってんのさ、ほれ」美砂さんは豪快に笑う。唾が飛んでいるのが見えた。そして、その場でスクワットをしてみせる。「この通り、身体も動くんだ。頭も惚けちゃいないよ」
「このばばぁはこんな事、言ってんけど、この前、醤油を入れるとこを塩、入れたんだ。どうしようもないばばあだ。ここらに転がっている部品を取り付ければ、幾らか良くなるって考えていたけど、こりゃ、駄目だ」
と頭を捻り、煙草をポケットから取りだして咥えようとした。横から樹木の年輪のような皺のある手がその煙草を掻っ攫う。美砂さんはにやりと笑った。それは健康に悪いだろう、くそじじぃと優しい毒舌を含んでいるのかもしれない。
何だか、優しい雰囲気が伝わってきた。それを増幅させる塩の香りを含んだ風がびゅーびゅーと吹いていた。少し寒いと感じた時、それを和らげるように塩せんせが寄り添ってくれた。小さな指達がシャツの布を強く握っている感触を感じた。
「あの、塩せんせ」と思わず戸惑った。顔なんかきっと、郵便ポストと良い勝負な程に赤いだろう。そう俺が呟いたのと時間を置かずに「これが私の恋人の章君」
そうはっきりと言ってシャツを通して塩せんせの唇が確かに触れた。人肌だったのだから確かだ。俺はそう叫びたい衝動に襲われた。理性の手綱が俺の衝動を何とか、止めてくれた。
「ほぉ、とっぽい兄ちゃんだな。おい、お前、ちゃんと飯喰ってんのか?」
流石、女心を理解していない人らしい話の切り出し方だと感心した。いや、感謝さえ感じていた。
「はい。毎日、三食しっかり食べています」
乗り切った嬉しさを隠しきれずに、体育系の部活に入っている生徒の高い声を想像して真似てみた。
茂田さんは歩み寄ると俺の胸を叩いた。友好の印にしては豪快だ。性格なのだろう。
「本当だろうな。塩のこれだからよ、ホットアイスっていうのか。そんな御菓子みたいなのを食べてるんじゃねぇかってよ。お前が塩を支えなきゃならん。結婚したら男はな」
ホットアイスが会話に登場した事に塩せんせ以外の人達は大笑いした。瞼を閉じれば、塩せんせは男性が使うような筒の長い水筒からホットアイスを皿に注いでいるのが目に浮かぶ。その横には勿論、食パンがある。
「こら、くそ、じじぃ。そんなのは野暮ってもんだよ」と釘を刺す美砂さんもやはり、笑っている。「紹介がまだ、だったね。このくそじじぃ、茂田壱はばばぁの夫で、発生老人会の代表。このばばぁは茂田美砂」
茂田夫妻は阿吽の呼吸を揃えたお辞儀によって体現した。いつしか、この夫妻のように塩せんせと俺も阿吽の呼吸の域に達する事ができるのだろうか。塩せんせは俺の視線に気付くと自分の小指を俺の小指にそっと、絡めた。
「今日は発生老人会と砂塾合同の浜辺美化運動に参加して下さり有り難うございます、塩せんせと、生徒さんと、塩せんせの未来の旦那様の章君。では、宜しく御願いしますよ」
茂田夫妻はそういう言うと海岸に散らばるゴミを目指して年を感じさせない確かな足取りで歩いていった。そう見えたのは美砂さんが茂田さんに肩を貸してあげているからだった。とても自然に見えた。その向こう側にある海の波飛沫のように。
みんなの計らいで塩せんせと俺の二人で一袋、ゴミ袋をななから貰った。他のみんなはゴミ袋をみんなで共有していた。あからさまな援護射撃に互いに恥ずかしくなり、ずっと下を向いて黙々とゴミを拾う。
三十分もすれば、すっかり世界遺産に登録されてしまうような海辺に生まれ変わると考えていた。だが、単純作業に終わりは見えない。とうとう、俺は苛々し始めてチョコレートの銀紙をゴミ袋に捨ててから、腰を下ろした。自然と自分でも聞いてて不快な声が洩れた。
「章君、お疲れみたいですね。そういえば、ご飯も食べていないですし、どうです、一杯?」
傾けた赤い水筒から紙コップへと甘ったるいチョコレート色の液体が流れていく。離れていても解る甘い香りからチョコレートアイスを液体状にしたホットアイスだとすぐに解った。
「ありがとう。暖まるね。甘いや」
「当たり前ですよ、チョコレートアイスなんですから」
塩せんせは当然のように俺の隣にスカートの裾を気にしながら、腰を降ろしてくれた。心臓が嬉しいんだろう、章君と意地悪く乾杯をし始める。
塩せんせの髪は乱れていた。汗を含んで濡れている。そんなに一生懸命、拾っても拾いきれないのだから俺はここに不法投棄しに来る連中に怒りを覚えた。
「こんなにゴミが落ちているんだから不法投棄ですよ、これ。何で役所の人間が対策を練らないんですか」
「きっと、人間は自分勝手だから、人を傷つけることに慣れすぎてしまったから、対策が追いつかないんだよ。章君は知っている? 不法投棄される場所が年々、増加しているのを」
俺は木の棒で円を描いていた手を止めた。現在の日本ではエコが叫ばれているのに驚きを隠せなかった。
「でも、家電リサイクル法や、僕達の住む市でもポイ捨てだって罰金が十万円ですよ。そんなリスクを犯す馬鹿は」と言った途端、一つの場面を思い出した。あれは一年前の冬だった。コンビニで肉まんを買って食べ終わった後、包みを川に投げ捨てた。軽い気持ちだった。包みをゴミと認識していなかった。「俺もポイ捨てをやりますよ」
と重い口調で罪の告白をした。
「私もやっちゃう事あるよ。例え、風にレジ袋が飛ばされてしまっても状況を知らない第三者から見れば、これも一種の不法投棄になるんです。でも、厳しい事を言うようですがある程度は仕方がないのですよ。人間は生きる上でゴミを出しすぎる社会から後戻りできなくなってしまった」
紙コップを握りつぶすと塩せんせは迷うことなく、ゴミ袋に入れた。ゴミ袋の中には人間達に奴隷のように使われ捨てられた物達のなれの果てが存在していた。砂塗れになった米の入った容器、子供用のシャベル、缶等のそれらの涙がゴミ袋の底に溜まっていた。目を覆いたくなるほどの茶色い涙だ。
だが、その奴隷達の正体は輝かしい思い出の一部なんじゃないか、と俺はゴミ袋を見て考察した。例えば、子ども用のシャベルはここに遊びにきたちびっ子が忘れていった物でひょっとしたら宝物だったのかもしれない。
「ななの言っていた思い出が捨てられる場所って」
「多分、章君が考えている通りです」
塩せんせは眉間に皺を寄せて、海に近づきすぎないようにボランティアに参加している子ども達を見守っていた。その揺りかごの加護下にあるのを知らずに子ども達は捨てられていたバスケットボールでパスの練習をしていた。上は十五歳の少年から下は三歳の女児までもが満面の笑みを浮かべている。みんな、砂だらけの顔をしている。
あのバスケットボールは大切な思い出に戻れたのかもしれない。俺はその光景が嬉しかった。
塩せんせが急に走りだした。何事か、と後へ続くと砂に埋もれて魚が死んでいた。その魚の身体には白い斑点が無数にあり、目は白く濁っていた。身体全体を網が覆っていた。それはただの網ではなく、虫取り編みだ。柄には蠅が止まっていた。その蠅が俺には死に神に見えた。魚臭い悪臭を堪えるよりも、死に神の存在に畏怖の念を抱いた。
「章君、見てごらん。魚さんの死骸です」
恐る恐る言って、塩せんせは柄にいる蠅を腕で振り回して脅した。狙い通り、蠅は飛んでいく。虫取り編みはすぐに魚の死体から除けられた。
「酷い」
この虫取り網も誰かの思い出なのに、捨てられたせいで殺人犯にされてしまったのだ。風に揺れる黒く汚れた網の目が声を殺して泣いている。孤独と裏切りと自分の人生の絶望感に。
「酷い? でも、私達は違う意味で魚さんを殺して食べます。知ってますか? 章君。この魚さんにもきっと、家族が居て、食べられるのは動物にとって一番の恐怖なんです」
塩せんせの声が俺の耳にはっきりと聞こえた。その通りだ。
ゴミが目に入ったみたいでそれを取ろうと目を瞑り、擦った。擦っている途中、塩せんせを中心として集まるあいな、生地、夕張の顔が浮かんだ。そうか、僕らも何処かの海に思い出を不法投棄しているかもしれない。それはどうして捨てざるをえなかったのだろうか。脳の足りない奴という父親の声が頭を掠めた。
何処かで父親を信じたかったんだ。何処かで父親に信じてもらえる自分で在りたかった。
遠い昔、父親と駐車場でキャッチボールをした思い出。
あの頃は他人の成績なんて関係ない時代、幼少時代だった。俺は父親から買って貰った新品のグローブを何度も眺めながらしきりに父親に自慢した。
「ねぇ、父さん! 僕のグローブかっこいいでしょう。ねぇ、ねぇ」
背の高い父親の表情は見えなかった。見上げても無精髭の顎しか見えなかった。だが、確証のない確証が父親は苦笑していると告げていた。今になれば、その確証は親子の見えない絆なのだろう。なんて陳腐な。
何処かで父親を信じたかったんだ。何処かで父親に信じてもらえる自分で在りたかった。
だから、傷つく前にその思い出、その宝箱を秘密の海辺に不法投棄したんだ。
「俺達は傷つけ合って生きていくのかな、これからも」
「それはある意味で正解、半分不正解です。答えは貴方の心に既にありますよ、きっと」
教えて貰いたいという目でねだるように塩せんせを見つめた。だが、塩せんせは堅く口を閉ざしたまま、首を横に振った。
「解れば、きっと。私の見ている世界に辿り着きます、貴方なら」
それでも知りたくて、我慢できなかった。塩せんせの肩の上や、俺の肩の上を先程から行ったり、来たりしている二羽のすずめのうち、ちびかに視点を合わせる。
「ちょっと、人間同士のラブ話にあたしの助言を求めるの? それは反則よ、少年」
「いつも、意地悪なちびかお姉さんだけど、これについては僕も」と言い終える前にちびかのドロップキックがすずめの翼に入る。「て、痛い」
「誰が瀕死のあんたを助けたの、え!」
凄い見幕でちびかはすずめの頭を翼で叩きまくる。随分と怖い姉がいたものだ。聞けそうにないな。姉弟戦争開幕の為、諦めた。ゴミ拾いを再開しようと立ち上がる。ズボンに付いた砂を叩いた。
家から持ってきたタオルで顔を拭いた。そして、新しいタオルで塩せんせの顔を拭いてあげた。塩せんせはくつぐったいとしきりに言っていたが満更ではないようではしゃいでいた。そんな光景がこの後も続く、わくわくだと思っていた所にこちらへと近寄ってくる足音に気付いた。軽く、舌打ちした。邪魔以外の何者でもない。
様子が変だ。顔は青ざめていて、驚いた表情のまま、無理矢理固定されているようだった。ちぐはぐな歩みを止めて、肩で息をしていた。
「大変、エロ兄。あいなが溺れた。あいな、泳げるのに、泳げるのに」
乱れる呼吸と呼吸の間に押し込めるように言葉はななの口から発せられた。すぐに無言で塩せんせが飛び出していった。腕を咄嗟に捕まえた。
振り返った塩せんせの目は血走っていた。腕がぐいと引き寄せられる。力を込めていないとすぐに海へと走って行きそうだ。
「駄目だ、塩せんせ。女の子じゃあ危ない。俺、行きますよ」
「あんたこそ、危ない! 言ったでしょう? 自殺に見えるような事をしたら」
ちびかの俺を止める声が背後から聞こえたが、既に俺はななの手を掴んでななの走ってきた方角へと歩を進めていた。
走り出した時はただ、夢中だった。波の音よりも速いテンポで足を動かそうと努力した。その努力は対して伝わることなく、虚しく呼吸の苦しさ、喘ぎ声が現実を教え始めた。
自分が自分を陥れようとする。いつだってそうだ。お前はここまでだという自分がいる。他人に劣等感を感じていた正体がそれなんだ。こんな一大事の最中、俺はこれからも闘わなければならない敵の正体にやっと辿り着いた。
その敵はある意味、RPGにおける魔王よりも手強い。魔王は誰かが倒してくれる可能性がある。みんなが魔王に苦しめられているのだから。だが、この敵は俺だけを蝕む。
視界がずれていく。俺だけを苦しめる敵の攻撃だ。
だけど、俺は屈しない。屈する事など、できない。そういう思いだけを持って、ななの指さす方角へと走る。途中、ゴミ袋を抱えてサンタクロースの真似をして、子ども達の笑いを誘うのに一役、かっている夕張とそれを呆れ顔で見つめている生地の合間を通り抜けた。彼らは俺に何か、言っていたが言葉として判別できなかった。それに彼らを知らなければ、情景さえも判別できなかっただろう。暑苦しい赤い服を着た性別の解らない誰かと、黙々とゴミ拾いをしている性別の解らない誰かにしか見えなかった。
ぼやけた波に姿を消されそうになりながらも、懸命に抗おうとする人の姿が見える。きっと、あいなだろう。赤いワンピースと地味なカーディガンが俺に愚痴をこぼさせた。
「馬鹿野郎、服を着たまま……海に入る馬鹿が」何やら、あいなが右手に持っている。目を細めてみると、それは麦わら帽子だった。「馬鹿、そんな物の為にあんな苦しい思い」
思いと言った時、口中に塩水が入り込んできた。一瞬、何故だろう? と苦々しさに顔を歪めた。服が重くなり、身体の芯から震わせる冷たさを感じた。海だ、海を泳いでいるからだ。思考が徐々に追いつき始めて、冷静さを獲得していく。
何か、重い物をポケットに入れたっけと考える程、水を手で必死に掻いているのに両足を上下させているのになかなか、あいなとの距離は縮まらない。あいなの頭部を波が完全に隠してしまう度に酷く臆病になる。それとは反対に脳があいなを助けるというだけに活動目標を合わせたと報告する。服の重みという存在を忘れていく。
「馬鹿」
あいなと俺の視線が合った。馬鹿はこっちの台詞だと言いたかったが俺の口は別の言葉を叫んだ。
「そのセンスの悪い古びた帽子を投げ捨てろ。バカンスを楽しんでいるんじゃないんだ!」
「足、足」
あいなは弱々しい声で言った。聞き取りにくかったが辛うじて聞き取れた。これからも毎日欠かさず、耳掃除をしようと堅く心に決めた。
いつも腹黒で勝ち気な視線を浴びせまくりのあいなの瞳から涙が零れているのが解る距離に達する。迷わず、息を吸い込み潜った。海には先端の焦げた花火が浮いていたが、何の感傷も浮かんでこなかった。それよりも現実的な問題に直面したからだ。あいなの両足に蜘蛛の巣みたく、網が絡みついている。両足の動きを見事に制限していた。
ぞっとして、思考が停止ししそうになる。
自分の内にいる敵がそっと、肩を叩く。そして、俺にしか聞こえない言葉で罵る。
「なぁ、章。受験の時は失敗したけど、あの手は使えると思うんだ。手首を深く切れば、受験どころではなくて兄貴の同情だけではなく、両親の同情も買えたはずなのによぉ。お前はやはり、脳みそが足りないから。言ってやろうか、はっきりと。ジョークじゃあねぇ、本当に脳みその足りない人間は逃げるのにも苦労するよな。大丈夫、今回は失敗しないさ。助ける振りをすれば良いんだよ。実際は潜ったり、そいつの周囲をぐるぐると泳ぎ回っているだけで良いっていう寸法。どうだ? 気に入っただろう、なぁ」
その言葉を聞き入れなかった。今の自分は魔法を掛けられていたから。そう、その魔法はこんなやり取りから始まった。
「俺は誰にも期待されていないんですよ、せんせ。死んでも」
「努力した? 努力してみたの? 章君、最後まで努力しない人間の涙には価値がないんですよ」
そうだ、努力しなければ。後悔はその後でもできる。俺はその言葉を頭の中で何度も反芻して、あいなの両足に絡まった網を渾身の力で引き千切ろうとした。肩が外れそうなくらいに腕を曲げている。それでも、網は千切れない。網の緑色を目に焼き付けてもう、一度、引き千切ろうとする。今度は長く引っ張る。呼吸をしたい願望が現れ始めたのを拒否し続けた。あいなが両足をばたつかせているのも気が散らなくなった。
ついに網が切れた。吸い込まれるように海底へと消えていく網を見つめた。だが、自分がそれから遠ざかっていない事に気が付いた。
もう、考える分の酸素は残っていなかった。ただ、息苦しかった。苦しいけど、水を飲むのは我慢がならない。だけど自分は笑っている。塩せんせの妹を、大切な人の妹を救えたからか。こんなに嬉しいのは家族に誕生日を祝って貰った時以来だ。いつから、祝わなくなったのだろう。そんな取り留めのない事を考えながら、遠ざかる赤いワンピースにさよならと告げた。ほんの少しだけ、塩辛いと感じた……。
「起きなさい、起きろ。あんたね、完全にあたしの宿り木になった瞬間、死亡なんていうおおボケを噛ますなんて十年早いのよ」
喧しい声が聞こえた。だけど、酷く疲れていてまだ、身体を休めていた。呼吸をしている、ぽかぽかした太陽の陽を浴びている。だから、安心だ。
「兄様、今なら姉のセクシーが拝めます。早く、下界に帰ってきた方が良いですよ」
「今は起きちゃ駄目ですよ。寝ていてくれたら、ホットアイスの残り全部あげますから」
戸惑いの叫びをあげている塩せんせという状況。どうやら、あいなの言葉は正しいようだ。勿論、俺は男の本能に従って光の速さで起動した。
呆気に取られた。
浜辺に敷かれたレジャーシートに寝そべる俺が見た人物の表情は予想したのとは異なっていた。お揃いの青いジャージを着た塩せんせとあいなが肩を組んで俺の顔を覗き込んでいた。そして、さり気なくピースをした。その側には砂だらけの浮き輪とロープがあった。
「詩温、セクシーは?」
「はい、章君。それは章君が卒業してからのお楽しみです。結婚式の後に幾らでも見せてあげますよ」
「今は?」
「脳みそ腐ってんの? 姉は教師。兄様は生徒、日本語理解できますか?」
「こら、照れ隠ししないでお礼を言いなさい」
「ありがとう」
ありがとうと言ったあいなの顔は誰が見ても嘘のない笑顔に輝いていた。その背後であの麦わら帽子を被った五歳くらいの女の子がゴミ袋に入れたはずのシャベルで砂遊びをしている。その子の肩でその子の砂遊びを黄色い雛すずめが見守っていた。あいなの肩にも、生地の肩にも、夕張の肩にも、茂田夫妻の肩にも、そう誰の肩にもすずめがその宿主の動向を優しい眼差しで見守っていた。
目を擦ってからまた、見ようとしたが以前から見られた二匹のすずめ以外、視界に映らなかった。以前と変わりなし、それでも変われたと思えた。
「生きているって素晴らしいですね」
「はい。生きているって素晴らしいです。例え、休日明けに抜き打ち英語のテストがある事実を知ったとしても」
塩せんせはそう言うと悪戯っ子のように舌を出して、ピースサインを向けた。俺は笑った、笑いながら泣いていた。