epilogue-suzume 誰にでも訪れる静けさ
epilogue-suzume 誰にでも訪れる静けさ
殺風景な病室だった。ブラウン管テレビが寝ていても見やすい位置に置いてある。だが、さっちゃんがそのテレビを付ける事は結局無かった。さっちゃんはその理由を笑いながらあたしに話してくれた。
「だってよ、また、現実を受け入れられなくなるだろう? 社会の軸にちゃんと填っている部品を見ると俺もまた、その部品になれるんじゃないかって」
そう笑っていたさっちゃんも今では表情を浮かべる力さえ失っており、一日の大半を寝て過ごしている。今だって生きているのか、解らない程の深い眠りに就いている。
あたしは心配になって、さっちゃんの鼻筋に足を降ろした。鼻が息をする為に微かに動いた。生きていた事に私はほっとした。
ゆっくりとさっちゃんの目が開かれて、低い声で私に言う。
「ちびか、もうすぐ俺は死ぬよ……」
「馬鹿な事は言わないで。さっちゃんはまだ、生きるって。なんたって、高校時代はバスケの鬼と言われたくらいのスポーツマンだったんだから。タフでしょ」
あたしは嘴でバスケットボールをドリブルする真似をやってみせた。
「タフか。痩せたな、俺も」と呟いてから、さっちゃんはTシャツの袖を捲って腕を眺める。確かに骨の形が見えるくらい、痩せてしまっていた。ただ、病気になっただけで痩せてしまっていた。あたしは本当にさっちゃんを見ているのだろうか、太っていた体型、筋肉が隆々としていた体型だったさっちゃんはもう、いない。ここにいるのは肉を失い、死を逃れるべく絶えず呼吸を必死に繰り返しているさっちゃんだ。「なぁ、ちびか。人間は医療によって様々な病気を克服してきた。例えばな、労咳……肺結核って言った方が良いか。今じゃあ、薬物投与を適切に続けていれば治ってしまう病気なんだよ。癌も昔よりは死亡率が低くなっている。そのうち、不治の病ではなくなるだろう。そう考えるとやりきれないな」
と言ってさっちゃんは枕に顔を埋めた。しばらくして微かな呻き声が洩れてきた。それにはどんな理由があるのかは解らない。有名なジークムント・フロイトにだって、真に心理を解明するなんて不可能だ。ただ、あたしは魂の叫びを聞いていた。
雪が轟々と吹き荒れる中、それに負けないように野獣にも似た声でただ、鳴いていた。それは魂の灯火が聞こえる音だとふと、思った。厳粛な気持ちにあたしは沈んだ。
「その時は、私がさっちゃんの魂を天国まで届けてあげる。それで一緒に生きている人間達を眺めて平穏に暮らそう」
それがあたしにできる全てできっと、さっちゃんもあたしも幸せになれると考えていた。さっちゃんは枕に顔を伏したまま、力強く首を振った。もはや、白髪だけになった髪の毛が枕の上に撓っていた。
「お前はまだ、来るな。塩ならできるような気がする。見守ってやってくれ」
声が掠れていて内容の解らぬ一言だったが、あたしには理解できた。さっちゃんと過ごしてきた日々がまるでさっちゃん読解書の役割をしてくれている。
「一度も見たことがないよ、全てのすずめを目視する人間なんて。確かにさっちゃんの考えは解る」
何処からか、乱雑なピアノの音が聞こえる。俺の最期を飾る曲だとさっちゃんの声が聞こえたような気がした。だが、病人の口からは吸う、吐くを驚くべき、速さで繰り返す音しか聞こえない。まるでピアノの連弾のようだ。
しばらくして、その連弾は止まった。あたしの耳に何者かを嘲笑する息が聞こえた。
「俺の考えだって? 解るかよ。俺の全ては結局は俺のものだから、俺以外の人間にどうこう、できない」
「自殺したいくらい、死の恐怖を乗り越えてしまうくらいの人間でも人の感情を読み取るのは不可能だ。でも、すずめが瀕死ならば、故に自殺を未然に防ぎ、すずめの宿り主を笑顔にできる。全く、数学者らしい考えだよ。当たりでしょう、浅はかなさっちゃん」
あたしは饒舌だった。全て喋り終えた時、相手がもう、この世の者ではない事に気が付いた。
息が聞こえない。絶えず、耳に入ってきた生命の徒競走が聞こえない。
「唐突すぎるよ、味気ないじゃない。さよならくらい言えよ……」と悪態をついてみせた。お調子者のさっちゃんの事だから嘘だよと言ってくれるに違いない。だが、幾ら待とうと音沙汰がないだろうと瞬時に理解した。さっちゃんの両手はベッドからはみ出して力なく、垂れていた。もう、電池切れなんだ。「大好きだったよ」と抜け殻に声を掛けて、あたしは跳び去った。
しばらくして、看護婦がわざとらしい陽気な声と共に入ってくる。
「具合はどうですか、三木三郎さん?」
もう、それはさっちゃんじゃない抜け殻なんだとあたしは声を大にして叫びたかった。だが、無駄な努力だと知っていた。
無言で扉の隙間から病室を抜け出した。
外にはさっちゃんがもう、二度と目にする事のない光景が広がっていた。
学生が鯛焼きを食べて、ヘッドホンから流れてくる音楽を聴いていた。その前を自転車に乗った老女が颯爽と駆け抜けていく。まだ、長生きするに違いない。老女の走る先には小さな子犬を散歩させている男子小学生がいた。その男子小学生を躱して老女はブレーキを掛ける処か、加速していく。子犬はその自転車に向かってわん、と一声叫んだ。
色取り取りの自動車達は行列を作っている。一向に動く気配がない。この雪だから仕事を早く切り上げようと思っている人たちが案外多いのかもしれない。だとしたら、平和な事だ。幸福な事だ。
しばらく、あたしは人間世界を外野から観察していた。
人、独りいなくなっても世界は変わらず、回っていく。あたしは急に寂しくなった。
空を飛ぶあたしの目にランドセルを背負ったあいなの姿が目に映った。
そろそろ、あたしも人の群れに戻ろうと思う。空を見上げた。
「また、いつかね」
雪が目に入り、染みるのも気にしなかった。あたしはどうしても空より向こうの天国にいるであろうさっちゃんにしばしの別れを告げた。
いつか、あたしもこの変化を受け入れるのだろう。そして、時々思い出しては少しの痛みを覚えるだけだろうか?