epilogue-shio 笑顔でいられますように
epilogue-shio 笑顔でいられますように
「なれるかな? 現実はつらいぞ」
その八年前の言葉が私の心に挑戦心を燃えたぎらせてくれる。その言葉のおかげで私は母の過労死を乗り越えて、大学を卒業する事ができた。
仏壇の写真の中で微笑んでいる母は今にもアイスは一日一本にしておきなさいと叱りに飛び出してきそうだった。でも、現実にはそんな事はない。私は溜息を吐いた。
「何、もう弱音を吐きそうなの?」
いつもの軽い調子でちびかが私にさえずる。私はちびかの言葉に微笑みを返しながら、パジャマのズボンを脱ぐ。パジャマのズボンを脱ぐと下からまた、パジャマのズボンが現れた。四月とはいえ、例年よりも肌寒い。その為、蕁麻疹会議が臨時に多く開催されているのだ。少しでも開催を避けるべく、上も、下も、靴下まで二枚重ねだ。おかげで鏡に映った自分が太っているように見える。
「違うよ、ちびか。予感がする。これからも自分の戦いをしなきゃっていう予感がするんですね」
寄ってきたもう一匹のすずめであるすずめに掌を差し伸べる。すずめはおずおずと掌に乗っかってきた。まだ、寝ぼけている様子で足元がおぼついていないすずめをちびかが嘴で突き始める。主に羽根を突いている。すずめはちびかの攻撃を受けながらも私の肩に逃れてから私に激励を贈った。
「前向きにファイトですよ! ファイト!」
「うるさい、アホすずめ。それに乙女の着替えを邪魔するな。あっちへいけ、しっ、しっ」
ちびかがすずめを肩から突き落とす。驚きながらもすずめはとろとろと飛び回り、カーテンレールの上に着地した。私はそれを目で追い、カーテンレールの下の畳に赤、緑、黄色などのカラフルな千羽鶴が落ちているのに気付いた。
「千羽鶴が落っこちている。昨日、飛び回って千羽鶴を落としちゃった子、手を挙げたら好きな場所に散歩に出掛けてあげる」
「はい。あたし、あたし、ちびか。塩、悪いね、西肩植物園で頼むわ。有料だけど」
ちびかは目に映るように私の目の前を飛んだ。軽い口調なのは性格上の欠点でもあり、利点だと、八年も一緒に暮らしているのだから知っている。だが、理性は脆いもので、私の怒りには適わない。まだ、社会人としての理性コントロールが上手く行かないようだ。
「一生、そこに行かない」
と、私は私なのだからきっちり、ちびかを叱った。
白と黒のリボンで結わえられたツインテールに、ブラジャーを未だにしなくても十分な胸(実際、ブラジャー不着用)、ジュニアショーツという外見は八年前と変わらない。ただ、気持ち、腰の括れが強調された体型になった気がする。
押し入れを開いて、私がこれから社会人として着用する戦闘服を眺めた。ブラウスの白、スーツの黒い色とスカートの黒が清潔感を漂わせていて、緊張感が見ているだけで私の中に生まれる。どきどきしてきた。
深呼吸を押し入れの前でする。
ブラウスの袖にゆっくりと通した。
今日から私は教師としての第一歩を踏む。まずは校長先生に挨拶してからその後は教師生活が様々な形に展望していくだろう。
千羽鶴をそっと、拾った。歪な鶴達だけど、どんな鶴よりも天へと羽ばたいていける元気な鶴達だ。これからも元気に飛んでねと一羽の鶴を撫でた。
今でも時々は思い出す私の為に命を削ってくれた最高の恩師の事を。
先生の最期の言葉を聞いた後、随分不安に駆られた。今では全てが過ぎ去りし、詩の如く。そして、世界は変わりなく生命の温かさに満ちている。
私の顎は今や、台所にあるテーブルと同化してしまったのだ。顎からひんやりとしたテーブルの熱が伝わってくる。まったりと眠気が襲う午後三時には危ないシチュエーションだ、おまけにどうかしている。私はもう、かれこれ、三十分も炊飯器を眺めているのだから。
(炊飯器さん、先生の言葉に感化されて塩は雑魚なりにも不器用な努力を続けました。私は間違っていましたか。少なくとも、矮小な存在にはもう、限界のようです、はぁ)
三台の炊飯器達に問いかけるが、彼らは私と会話する能力を獲得していない。尤も後十年すれば、彼らも進化してハスキーボイスで私と会話するかもしれない。その頃、私はボケ塩に退化しているだろう。そこんところどうなのさ? という意図を込めて私は顎をテーブルにくっつけたまま、両手を伸ばして炊飯器を開けようとしたが、炊飯器の頭上で両手は力尽きた。
(駄目塩に退化した……ばんざい、能力は諦め。体力の無さとアイスの馬鹿食いが特徴です。たまにアイスを零して部屋を汚します。生息地、築二十年の古びたアパート)
私の目に死体のように物言わぬシャーペンが転がっていた。勉強していたんだと思ったがもう、遠い昔の気分だ。
「ねぇ、いい加減にしたら炊飯器を眺めていても勉強は進まないんですけど」
私の頬をあいなの玉子の殻付きシャーペンが突く。あいなさんはエリートらしく、眼鏡を先週から愛用している。眼鏡のないあいなは見つめているだけでぎゅっとしたくなるくらいの可愛さなのに、眼鏡をした途端に目がきつくなった。将来はきっと、結婚して教育ママンになることでしょう。
「あいなは頭が良くていいよね。復学して、小学校のテストで全教科満点なんでしょ。私なんか満点なんて取った事、ありません」言葉にして急に虚しくなってきた。溜息しか出てこなかった。自分を痛めつけたくなった。「どうせ、雑魚ですから」
「そうね、今の塩は雑魚以下よ。脳みそ……。脳みそ、蒸発してるんじゃない?」
私のテキストを開いて、×印ばかりあるページを探すとあいなはそれを私の頭に投げつけた。投げつけた理由なんて理解していた。そのページの間違えは全て、前にはできていた問題だ。一部は思い出せるのに、食べかけのチーズのように一部の記憶が欠けている。何処かに転がっているはずなのに頭がすっきりせずに解こうとする度に苛立つ。
「なんで」
私は理由を知っているのに唇をかみ締めて呟いた。
「なんでそんな酷いこと、言うの。頑張ったよ。けど、模試の判定では国立大学には」
そうだ、覚えた事が完璧に頭の中に入っていた時だって、そんな有様だった。私は自分が正しいと頷いた。情けなくも頷いたのだ。
突然、あいなは笑い出した。笑い出した後、黙って私を見つめる。幼い子特有の透き通った瞳に涙が溜まっていくのを見て、私は罪悪感を覚えた。あいなを泣かせてしまった事に対する罪悪感のみで溺れそうになった。
「最期までやらないで途中で、投げ出して先生になんて言う。塩、雑魚だから模試の判定が悪いので無駄だと悟り、辞めました。冗談言わないで。先生の前で教師になるって約束したんでしょ。国立に入るのが目的じゃない。手段を変えなさい。私立なら、って」
あいなの涙から逃げたかった。ここには隠れるべき広々とした空間で、のんびり食事が堪能できるトイレの個室が近くにない。うちのトイレは和式なのでのんびりとはいかない。それ以前にあいなにどうやってもこの場面からトイレへ逃げたことが明らかに映る。
「でも、私はお母さんが……」
自分で言って失敗した。母さんに何の責任がある。自分を育てる為に毎日、一日も休まず昼のスーパーでのパートと、夜の工事現場での仕事を交互にこなす砂糖家で一番の働き者だろうに。貧しいのは母さんのせいではない。
お母さんが冷蔵庫の近くに茫然と立っているのに気が付くと御免なさいと言ってから泣きたい気持ちになった。だが、どちらもできずにいた。御免なさいや、泣くというのはある種、自分の行為を許してもらい、お母さんに甘える事ではないか。これ以上、お母さんの負担を増やしたくない。それよりも純粋な怒りを穀潰しの塩に与えて欲しかった。
唇を閉じて、裁きを待った。
しばらくして、お母さんはゆっくりと歩み寄る。私の心臓は破裂しそうだった。
私の指先を持って眺めた。予想もしてなかった人肌に驚いた。
「ああ、こんなに酷いペンだこを作って。塩ちゃんの可愛い手が台無しだ」
人差し指にある丘のようなペンだこをお母さんが患っているかのように顔を顰める。顰める必要なんか何処にもない。それどころか、お母さんの掌の方が酷かった。肌が白く変色していて所々、皮が剥がれてしまっている。酷い箇所なんかは皮が剥がれた際に出血している。出血が止まっている箇所も膜は張らずにいつまでも傷口が開いている。それでも何でもないように笑うんだ。
行ってきます、今日も頑張っていくぞ、と。
そんなお母さんが涙を零して、私を心配するんだ。私が泣いて良いはずはない。ぐっと堪えた。
「良いのよ。お金の事はなんとかするから、公立を目指しながら、私立も受けなさい。塩せんせを見たくなっちゃっただけだよ」
「お母さん、ごめんね。私、私、絶対に教師にな、な、なる、から」
ぐっと堪えたのに……瞳に涙が溜まってきた。やっぱり、駄目な子だ。
「ほら、そんなに声がどもって、発声練習しないとね」
お母さんのかさかさの心地の良くない掌に撫でられて、声を挙げて泣いた。あいなももらい泣きをして二人で泣いた。
お母さんは私達を交互に見回して、
「泣き虫さんね。本当に姉妹みたいね。詩のような温かさを与えてくれる子が二人もいるみたい」
三人の傍らで私がまだ、見ることのできない二羽のすずめと見ることのできるすずめが歓喜に鳴いている気がした。
それから、私はあいなの特製べちょべちょケーキや、お母さんのホットアイスをほぼ、毎日食べながら勉強した。ケーキはいつも、生クリームが多すぎで皿に垂れていた。だけど、あいなの友情を噛み締められた。ホットアイスはいつも、甘すぎた。最期までそれを言えなかったけど、お母さんの愛情を飲み干した。
時間の行く手は誰にも通せんぼできない。だから、私は今、スーツ姿で私の名前の由来になったばっちゃんの趣味の名残であるラジカセを操作して歌謡曲を聴いている。今では歌を趣味にしていたばっちゃんが私に遺してくれたのはこれと、詩のような温かさを与えてくれる子というばっちゃんだけの呼び名詩温のみだった。このラジカセから流れてくる音楽はどんな曲でも昔の思い出をメロディーと共に引き連れてくる不思議なものだ。
大学センター試験が実地される北霜大学の最寄り駅である駒野駅に電車は緩やかに停車しようとしていた。ゆっくりと減速している車内で私は逸る気持ちを押さえきれずにまもなく、開くはずの扉の窓に触れていた。
雪が容赦なく、強風に煽られて横に流れている。持ってきたビニール傘は到底、役に立ちそうにない。今日、もっと役に立たなさそうなのが私の頭脳だ。会場に到着するまで英語の単語帳でスペルの複雑な単語を復習しようと思っていたのだが、単語帳だけではなく様々な参考書まで忘れている始末だった。周囲には昨夜、いっぱい人が集まるんだろうなと予想して眠れなかったとおり、真剣な眼差しで立ったまま、単語帳や教科書、参考書で最期の悪あがきをしている人が多くいた。なにしろ、人生が掛かっているのだ。だが、中には私と同じようにお間抜けさんがいた。酷い者は携帯ゲーム機を持って未だに座ったまま、液晶画面を食い入るように見つめている男子学生がいた。
私は何だか、それを見ると安堵した。だが、その安堵も束の間だった。
扉が開くと、私達は野に放たれた野獣のように我先にと会場を目指す。首にマフラーを巻いたり、分厚いコートを履き、ソックスを二枚重ねにした私が寒冷蕁麻疹会議に呼ばれる事はないだろうと緊張の中、ずっと、祈り続けていた。
エレベータで下にゆっくり下りていくと改めて駅内のスケールの大きさにびっくりさせられる。私のいた西肩市は山と海に囲まれた地形なので、駒野駅のような大規模なターミナル駅は近場にはなかった。いわゆる田舎というものでJRではなく、西急という私鉄が運営している。その為、設備も駅舎程度でその割には料金はJRのおよそ二倍なのだという無駄な知識を頭の中で展開させた。それというのも今、痒みを感じているからだ。もしかしたら、とんでもない能力に目覚めて痒みが吹っ飛ぶかもしれない。
結論からいうと、それはなく私は出口を探すべく、立ち止まっては痒い箇所を掻き、歩くを繰り返した。下見は四、五回くらい、あいなと西田少年と一緒にしたのに混乱していた。
「痒い、痒い。どうしてこんな雪が降り積もる日にセンター試験なんかやるんですか。塩虐めですか、もう」
ついには私は駅内の案内板を見ながら苛立たしげに毒づいた。
「気合いが足りないよ、塩お姉様、はぁと」
私が案内板から離れようとした時、前方から手を振って黄色いレインコートを着込み、フードを目深に被っている小さな女の子が話しかけてきた。私は首を傾げた。
小さな女の子の両肩には雪が降り積もっていて、アニメ絵の描かれたお年玉袋を握り締めていた。ランドセルを背負っている少女という事から導き出されるのはあいなしかなかった。
「塩ちゃん、すずめだって頑張って飛んでいるんだから人間の塩ちゃんだってきっちり会場まで歩きな。もう、翼に降りかかる雪が鬱陶しくって適わないわ」
と喋りながら、雪の降り積もったあいなの肩から首を震わせて、全身を覆っていた雪を吹き飛ばして姿を見せた。まだ、白い雪が身体中に付着していて、小さな鳩のようだ。
「どうしてここにいるの? ちびか」と私は落ち着いた口調でいい、あいなの握るお年玉を見つめた。「あいなもね」
そのお年玉は私のお母さんがあいなに与えたものだった。あいなはお母さんの顔を見るとこれはなぁに? ときょとんとした表情で質問した。あの顔が私には忘れられなかった。そういえば、あいなと遊ぶ際には全然、お金を使わなかった事を思い出した。
当時の私は受験生であり、学生世界の一員でしかなかった。だから、社会の仕組みをまだ、よく理解していなかった。貧しいけれども、日本では人並みに誰もがそれなりに暮らしていけるものだと考えていた。後に知った事だが、あいなと病弱なあいなの母親は生活保護で暮らしていたのだ。たった、八万五千円だ。それで何ができる?
それを知らずに私はただ、こんなくだらない事の為に初めて貰ったお年玉を消費する事はないと蕁麻疹達が身体を忙しく走り回るのを為すがままにしてただ、あいなに怒りを感じていた。自分の幸福の為に使って欲しかった。
「あいな、どうして私なんかの為に宝物の一万円札を使っちゃったの?」
私は中腰になってあいなにゆっくりとした口調で、だけど怒りを隠せずに強い語調で問い正した。
あいなは紙袋を私に手渡して嬉しそうに罵倒する。
「脳みそ、腐ってんの。あたしの初めての親友を応援するのに交通費とか必要なのよ」
ああ、この子も雑魚の塩だったんだ。孤独と闘っていたんだ。私の瞼に熱い水滴が込み上げてきた。それと一緒に見えないあいなの手と私の手が繋がれたように思えた。
私はあいなの行為に感激しながら、渡された紙袋をおもむろに覗いた。
絶句した。言葉が何も出てこなかった。ただ、ありがとうという言葉では足りない。
紙袋いっぱいに鶴が入っていた。その鶴達は紐で数珠つなぎにされていた。まるで虹のように色は多彩だった。
「あいなと先生で折ったんだ。先生は塩には教えるなって。今、塩は人生を左右する戦いをしているんだからって。見なくてもあいつが笑顔で明日を生きている姿が見えるって」
「さっちゃん、ね。もし、結婚して子どもを授かっていたらきっと、塩みたいな素直で駄目で、けど、肝心なとこでやってくれる子が欲しかったって言ってたよ」
「私、頑張らないといけないね。先生の最期の生徒としてではなく、私の明日の為に。笑えるよ。ほら、今だって笑っていますよ?」
自分の口からすんなりと言葉が陽気にお出掛けしていくのに、その言葉達の行き先はまるで見当が付かなかった。そんな私を心配そうに見つめながらあいながちり紙を私に手渡した。私はそれを頂戴すると、早速鼻をかんだ。不安という些細な感情が自分の中に無くなっているのにはっとした。ただ、やる気一色だけが頭に広がっていた。
「何で疑問系なの。笑えています、塩お姉ちゃん」「笑えているよ、塩」「うん、大丈夫」
私はあいな、ちびか、すずめの三人の言葉に頷いた。
「行ってきます、あいな」
「いってらっしゃい。ここの駅内にあるリッチっていうカフェテリアで待ってるよ。少し早いお祝いをしよう」
私は何度もあいなを覗き見たが、その度にあいなは手を振ってくれて頑張れ! と叫んでくれていた。
自然と痒みが原因で発生した火照りが自分の明日を作る為の情熱に変わっていた。
あの時の受験には失敗して一浪したんだと私は苦笑いした。絶対、大丈夫だと感じてあいなとカフェテリアのリッチで一緒にケーキをたらふく食べて前祝いをした記憶は今でも二人の間で笑いぐさになっている。
すっかり、準備の整った私の肩にすずめが乗っかってきた。ちびかは見たい映画が昼に放映するので留守番をすると昨日から言い張っていた。
泥の一欠片の付いていない真新しい安物の運動靴の紐を結んでいると羽音が聞こえた。
「いってらっしゃい、元泣き虫……。塩ちゃん」
「違うよ、ちびか。私は今でも雑魚塩ちゃんだよ。でも言葉には大した意味なんて無い。なんてね」とお茶目に舌を魅せてから、「いってきます」
と言って、扉を開いた。