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prologue-suzume あたしはちびか。キュートなすずめさん。

 prologue-suzume あたしはちびか。キュートなすずめさん。


 あたしは肩に止まり、さえずるのが大好きなすずめさん。人間に知られているすずめとは異なり、笑顔を糧にして生きるとてもクリーンなすずめ、名前はちびか。

あたしは嘴を羽根に寄せて、お腹が減ったと不平を漏らした。だが、目の前で寝ている男はその事実に気が付かないだろう。男はたいそう、うなされている。いびきと一緒に温かいビール臭い匂いの風が三木三郎(みき さぶろう)の口から排出される。臭くて仕方がなかった。あたしは咄嗟に顔を背けた。昔はこんなビール男ではなかった。学校で一番もてたと表現できるくらいハンサムな男だった。今じゃあ、ただの暑苦しい中年男だ。短い髪には白髪が何本か、生えている。白と黒のコントラストはわざと染め上げているように見えてしまい、男の苦悩は実際よりも薄れている。

 あたしは顔を忙しなく動かし、羽根をばたつかせた。

 男の人生が乱れ始めた時から、男に元々、備わっていた清潔さは失われた。そう断言できるのはあたしの目に物的証拠が映っているからだ。

 ちゃぶ台の上には昨日、食べたカップ麺の容器がまだ、残されていた。そして、その器には未だに、油の粒が泡立っている狐色のスープが入っていた。このスープの匂いだけならば、気持ち悪くはならなかっただろう。ちゃぶ台の脚に縋り付いている真っ白なTシャツは影のような濃さを全体に醸し出していた。その影の正体が何とも男臭い、鼻につんとくる匂いを放っている。枕には吸い殻が散乱していた。昨日、痛みに耐えかねて八つ当たりした灰皿からこぼれ落ちたのだ。その灰皿は箪笥にぶつかり、無数の欠片に砕けてそのままだった。よく見る男の頬に粉々に砕けた欠片の燦めきに似た雫の後が残っていた。

 男は尚も、悲しみを表現し続ける。

「ちくしょう。俺の明日はもう、ねぇってことかよ」

 その寝言を吐いた際に上歯と下歯が重なり合い、どちらかがどちらかの圧力に屈してしまうのも時間の問題のように見えた。あたしはその男の一部であるから、よく解るんだ。いや、正確にいうと伝わってくるんだ。

 身体中に死という宣告を巡らせた瞬間に耳元がやけに静かになって、痛みでもない激しい血の流れが手に取るように解ってしまう。これが止まれば、どうなるだろう? と容易に想像できてしまうのだ。

 あたしは消えないが、男が独りで立ち向かわなければならない敵の背の高さにあたしまでもが身震いした。言葉が届くならば、男に早く現実に帰ってきて! と叫びたかった。だが、今の彼に私の存在は知覚できない。残念だと思い、男の閉じられた瞼の膨らみを見つめた。瞼の膨らみは過去にあたしを見つめる事の出来た瞳がその内側にあるのを示していた。それが呼吸の度に上下している。

「やめてくれ。俺を連れて行かないでくれ!」

 男がふいに布団を握り締めて、手を真っ直ぐとチカチカと音を鳴らす蛍光へと伸ばす。伸ばされた腕には無数の針の後があり、その赤い点と赤い点との間には細い緑色の線路が通っていた。腕は骨の形が見えるくらいに痩せ細っていた。腕だけではない。男が着ているワイシャツはサイズが合わず、鎖骨を冷たい空気に晒している。その冷たい空気にあたしは身震いした。住んでいる世界が異なるのであたしのキュートな嘴は男のゲロで黄色く変色した襟元を掴めないだろう。

「どうしようもないな、ごめんね、さっちゃん」

 あたしは閉じられた瞼に向かって深々と頭を下げた。

 さっちゃんの眉毛に涙の粒が付着しているのを発見した。眉毛の端へと粒は移動していき、痩けた頬へと流れ落ちた。昔、あたしと出逢う切っ掛けになった黒子に粒が差し掛かった時、あたしは自分の可愛い瞳から涙が流れているのを感じた。その生暖かさがあたし自身を苛立たせた。あたしは伸びきった爪を埃まみれのカーペットに食い込ませた。我慢しようと頑張ったけど、涙は止まってくれなかった。首を振った。

「駄目だ、あたしの役割は泣き虫さっちゃんを慰める事なのに。さっちゃんのヒーローなんだよね」

 あたしは場違いにも微笑んでしまった。

 運動ができなくてさっちゃんの笑顔という栄養を取れないあたしはさっちゃんに向かって、

「最後まで努力をしない人間の涙には価値がない」

 って叫んだのを覚えているさっちゃん?

 さっちゃんは穏やかな表情を一瞬、浮かべて口を左右に動かす。偶然かもしれないけど、嬉しかった。

 そして、もう一度奇跡が起きて互いに語り合うのを望んでいた。脳裏に夕暮れ時のグラウンドを独りで走るさっちゃんが浮かんだ。小学五年生だったさっちゃんはサンタクロースの袋のように太った腹を時々、睨み付けて、

「僕はデブっちょだからみんなの言うとおり、当日走らない方が良いんだよ」

 と言っていたのに自分の中でその言葉を飲み込んで前を向いて走った。あたしはさっちゃんの頭上を飛んでただ、黙って見守っていた。夕暮れ時に相応しい赤い色に包まれて、さっちゃんを罵倒する声が聞こえる。デブ、お前が幾ら頑張ったってお前の走る音はぽよん、ぽよんなんだよ。クラスのガキ大将である中山が叫ぶと中山の周囲にいた男女混合のグループが日頃の鬱憤を晴らすようにまん丸い太陽に向かって大笑いした。それでも、さっちゃんは走り続けたんだ。さっちゃんは君がいたから僕は走れたと徒競走の最下位の列に並んでからそう言ってくれたけど、君自身がヒーローなんだよ、と言いたかった。だけど、時間は残酷だった。いつの間にかあたしの姿も、言葉も認識できなくなっていた。

 あたしは首を横に振った。起きなければならない奇跡は他にある。

 さっちゃんの頬へと着地すると足場を固めるように二、三度、跳びはねた。さっちゃんの頬に舌を伸ばしてこぼれ落ちる粒を掬い取ろうとした。だが、粒はあたしの舌を通り過ぎて顎へと到達して、さっちゃんの尖った喉仏へと落ちた。それでもあたしは舌を伸ばし続けた。さっちゃんに昔のような勇気を、自分と闘う勇気を取り戻して欲しかった。

「さぁ、朝だよ。今日こそ、あたしの大好きだったさっちゃんに戻ってね」

 さっちゃんは目を擦って起きると、すぐに脇にあった痛み止めをそのまま、飲み込んだ。弱々しい声と一緒に薬止めの入った袋を先週、さっちゃんが壊した二十インチの液晶テレビにぶつけた。

「効かねぇじゃ」咳が出てその言葉は中断を余儀なくされた。壁に掛かっている時計は午前六時を指していた。溜息を吐いて、「風呂入って出勤しないとなぁ。死ぬ前まで自分で稼いで喰っていかなきゃなんねぇのに。いっそう、死んでしまった方が楽だな」

 さっちゃんはそう言いながらワイシャツのボタンを一つ一つ、丁寧に外す。最後のボタンに手を掛けようとして、指先が止まった。伸びきった爪が微かに痙攣したように震えている。そこからさっちゃんの時間がまだ、止まっていないと解る。

 あたしはほっとしてどうしたんだろう? とさっちゃんの顔を覗き込んだ。俯き加減の顔には引き攣った笑顔が浮かんでいた。

「死んだら? どうなんだよ? 何処へ行くんだ……。そこにコンビニは在るのか? いや、そもそも身体は在るのか。嫌だ、死にたくない。まだ、何もしていない。結婚して」さっちゃんは自分の髪の毛を無理矢理、引き千切って、それを掌に載せたまま観察した。どんなに時間を掛けて見つめても白髪が黒髪よりも少なくはならない。「結婚して、して、して。くそっ、ちくしょう。何が余命四ヶ月だエセ医師め。俺はまだ、生きてるのに……。生きて今から風呂に入って、目玉焼きを焼いてマヨネーズ掛けて食べて。でも、吐くじゃないか。でも、食べてんだよ」

 そうぶつぶつと独り言を言いながら、ワイシャツを放り投げようとしたが、ちゃぶ台の脚付近にあるTシャツを拾い上げた。

「放り投げ出されてたまるか。まだ、何もしていないんだ。結婚して、子どもを作って、子どもの連れてきた彼氏をお前に娘はやれんと殴って。結局は許しちゃって、数年後に一緒に酒でも」朝の寒気が厳しい廊下を胸を張って歩き、バスルームの扉に手を掛ける。「飲んじゃって!」と突然、溌剌とした表情で言い放ったさっちゃんの奇声にびっくりして後退りした。そのせいでバスルームに入れず、しょぼくれる羽目になった。

「さっちゃん、元気になったからもう、大丈夫だね。大丈夫だよね?」

 と気を取り戻したあたしの耳にさっちゃんが子どものように何語とも解らぬ声を上げて泣いているのが聞こえた。あたしは軽く考えていた自分を虚しく感じた。同時にさっちゃんがどんな最期を歩もうとも見守る決意を固めた。

 シャワーから流れる水音が聞こえてきてもまだ、さっちゃんの泣き声は耳に入ってきた。それは淡々としていた。



                        

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