それは悪戯心とほんの少しの優越感
窓から差し込む午後の日差しが宙を舞う埃をキラキラと光らせる。
クルーズ客船『セレシアンヌ号』の船内にある図書館は、日中であっても静寂に包まれていた。
特に奥まった席は人気がなく、司條明弥にとっては自室よりも安らげる場所だった。
だが、今日は少し様子が違う。
明弥の向かいの席で、鷹中柊生が眉間に皺を寄せ、腕組みをして唸っているからだ。
「……うるさい」
明弥は読んでいる歴史書から視線を上げずに言った。
この船には柊生の姿を見るために大枚をはたく者が多くいるが、そんな“最高級商品”をこのように邪険に扱えるのは彼の兄姉や明弥ぐらいなものだろう。
「……柊生の唸り声が気になって、内容が頭に入らない」
「悪かったな。こっちだって深刻な問題に直面してんだよ」
柊生はテーブルの上に置かれた小箱を睨みつけている。
それは船内のパティスリーで購入したと思われる、豪奢なリボンのかかった箱だ。
明弥は一度だけ瞬きをして、静かに問いかけた。
「……それが、深刻な問題?」
「中身は限定のマカロンだ。五個入り。いいか明弥、五個だぞ」
「……それがどうしたの」
「俺と茉莉で分ける時、どうすんだよ。二個ずつ食ったら、一個余るだろ。その最後の一個をどっちが食うかで、平和なティータイムが血を見る争いになる可能性があるんだぞ」
柊生は大真面目だった。
明弥は彼が双子の姉である茉莉を溺愛していることを嫌というほど理解しており、同時に彼自身も甘いものには目がないことを知っている。
明弥は小さく息を吐き、栞を挟んでから読みかけの本を閉じた。
「……馬鹿みたい。そんなことを悩むなんて」
「お前にはわかんねーだろうな、この切実な問題が。迅さんなら、お前に全部くれるんだからな。あーあ、偶数個入りなら平和だったのになー」
明弥は不意に柊生の口から出た伴侶の名前に眉を微かに動かしたが、なにも聞かなかったことにした。
「……じゃあ、今ここで一つ食べちゃえばいいんじゃないの」
「は?」
「……五個あるから喧嘩になる。それなら、一つ減らして四個にすれば二人で二個ずつになって、争う理由はないでしょ」
「お前、天才だな……!」
柊生のしかめ面が一瞬にして喜色に染まる。
早速、彼がリボンを解くと、箱の中には宝石のような色とりどりのマカロンが並んでいた。
その中から、柊生は鮮やかなピスタチオグリーンのマカロンを摘まみ上げる。
「図書館で食うっていうのはちょっとアレだけど、四の五の言ってられねーしな。さっさと証拠隠滅だ。いただきます」
大きく口を開け、サクッという音と共にマカロンを頬張ると、柊生の表情が途端に幸福そうなものに緩む。
いつもの不機嫌そうな顔しか知らない者が今の柊生を見たら、きっとなんらかの病気を疑ってしまうだろうと、一連の様子を眺めていた明弥は思った。
「んんっ、うめーな! 外側サクサクで中しっとりだ。これなら茉莉も不味いとは言わねーだろ」
満足げに咀嚼する柊生を見届けて、明弥は再び本を開こうとした。
しかし、柊生の手がそれを制止するように伸びてくる。
彼の手にはもう一つ、フランボワーズのマカロンが摘まれていた。
「……なに」
「ほら、口開けろ」
「……いい。いらない」
「いいから。目の前で俺だけバリバリ食ってたら感じ悪いだろ。それに俺は今、お前とこのマカロンの美味さを共有してーんだよ」
「……意味がわからない」
拒否しようとしたが、柊生は強引に明弥の唇へマカロンを押し付けた。
こうなってはどうしようもなく、明弥は押し付けられたそれを仕方なく口に入れた。
サクリ、と軽い食感。口いっぱいに広がる甘さと酸味に、明弥の無表情が僅かに綻ぶ。
「どうだ? 美味いだろ」
「……まあまあ、かな」
「素直じゃねーな。顔に“美味い”って書いてあるぜ」
柊生は悪戯っぽく笑うと、残りの三個が入った箱を丁寧に閉じた。
明弥は口の中に残る甘さを舌先で転がしながら、再び本に視線を落とすと、目の前の愛すべき親友にとって重大な事実を告げた。
「……これで三個。奇数だよ、柊生」
「あ」
柊生の動きが固まった。
彼がフランボワーズのそれを手に取っていた時点で気付いていたにも関わらず、それを指摘しなかった理由は、明弥自身にもよくわからなかった。
ただ、柊生が茉莉と分け合うことよりも、自分と共有することを重視したのが嬉しかっただけである。
頭を抱える柊生を見ながら、明弥は本の陰で微かに口角を上げるのだった。




