とある女神の綺想曲
クルーズ客船『セレシアンヌ号』のカジノフロア。
その最奥にあるVIPルームは分厚い絨毯が足音を吸い込み、心地よい静寂に包まれていた。
紫煙の代わりに二人分の甘い紅茶の香りが漂うその部屋で、館那谷幸宗は退屈そうに手に持った扇を弄び、革張りのソファに身を沈めていた。
その対面、ローテーブルを挟んで不機嫌そうに足を組んでいるのは、この船の“最高級商品”とされる双子の片割れである鷹中柊生だ。
「……用がないなら帰るぞ」
柊生は低い声で呟き、金色の瞳で幸宗を射抜く。
だが、幸宗はその視線を柳に風と受け流し、開いた扇で意図もなく宙を扇ぎながら不遜に笑った。
「そんなに不機嫌を丸出しにすんなよ、柊生くん。せっかく俺が呼び出してやったんだぜ? もうちょっと愛想よくできねェのかよ」
「お前の“呼び出し”はロクなことがねーんだよ。どうせまた、暇つぶしに付き合わせようって魂胆なんだろ」
「ご名答♪ 流石は俺の柊生くん、わかってんねェ」
幸宗は凭れていた上体を起こすと、テーブルの上に置かれたトランプの山を手に取り、慣れた手付きで左右の手にカードを分けた。
それを向かい合わせに湾曲させると、乾いた音を立ててカードが交互に重なっていく。
そしてアーチ状に持ち上げられたカードの束は、パラララと幸宗の手中にひとつの束として滑らかに収まった。
「けど、単なる暇つぶしじゃ詰まんねェから賭けをしようぜ」
「ハァ? 誰がそんなことするかよ。そもそも俺には賭ける金なんてねーし」
「金なんざ要らねェよ。大体、柊生くんが使える金の出所は俺の財布と同じだぜ? てことで、賭けるのは勝ったヤツの“言うことを一つ聞く権利”だ」
幸宗のオッドアイが悪戯っぽく細められる。
柊生はあからさまに嫌そうな顔をした。
『セレシアンヌ号』の責任者の息子であり、所有者の親族であるこの男の“要求”がまともだった試しがない。
「……尚更するわけねーだろ」
「なんだよ、柊生くんともあろうヤツがビビってんのか? 別に無理難題を吹っ掛けるつもりはねェよ。俺が勝ったら、テメェはその不愛想なツラを引っ込めて一番の笑顔を俺に見せてくれるだけでいい……♪」
「ハァ!? 気持ち悪いこと言ってんじゃねーよ」
「もし万が一、テメェが勝ったら……そうだな。俺がテメェの好きなモン、なんでも奢ってやるよ。高級パーラーの限定パフェでも、世界屈指のパティスリーのケーキでもな」
柊生の眉がぴくりと動いた。
思わず純白の生クリームで飾られたそれらを想像し、柊生は涎が出そうになる。
食い意地を張っているわけではないが、好物で釣られてしまっては抗えなかった。
しかし、それを素直に認めるのは彼の矜持が許さず、ただ幸宗のヤツに一泡吹かせてやりたいだけだと、ひたすら自分に言い聞かせた。
「……で、なにすんだよ」
「ハイ&ロー。至ってシンプルにいこうぜ。このカードの次に出る数字が、今の数字より大きいか小さいか当てるだけの一発勝負だ」
幸宗がめくった一枚目のカードは“8”。およそ真ん中の数字だ。確率は大体、五分五分。運だけの勝負。
「さァ、張った張った。ハイか? ローか?」
幸宗が挑発するように笑う。
柊生はしばらくカードを凝視し、小さく息を吐いた。
「……ローだ」
「フーン? 堅実にいくねェ。じゃ、俺はハイに賭けるとするか」
幸宗の傷ひとつない長い指が次のカードに伸びると、部屋の空気が一瞬、張り詰めたものになる。
柊生は無意識に息を飲んだ。
めくられたカードは――
「――“2”。よし、俺の勝ちだな」
柊生が勝ち誇ったように口角を上げた。
幸宗は「おっと」とわざとらしく目を丸くし、手元の扇をパチンと閉じる。
「いやァ、参ったぜ。今日の幸運の女神様は俺より柊生くんのほうがお好みだったらしいな」
「減らず口叩いてねーで、約束は守れよ」
「ハッ、俺に二言は無ェよ」
幸宗はソファから立ち上がると、伸びをして柊生に近づいた。
影が落ち、見下ろされる圧迫感に柊生はわずかに身構えるが、幸宗はその頭を乱暴にわしゃわしゃと撫で回した。
「うわ、なにすんだ!やめろ!」
「優しい幸宗サマが勝ちを譲ってやったんだ。これくらいさせろ」
「ふざけるな!だから、やめろって!」
抵抗する柊生の手を軽くいなしながら、幸宗は楽しげに喉を鳴らす。
この顛末が彼の計算なのか、ただの暇つぶしなのかは分からない。
ただ、約束された甘い報酬の予感に今だけはそれを受け入れるのも悪くないと、柊生は思うのだった。




