スイートアンドビター
クルーズ客船『セレシアンヌ号』にある『Cafe Mad Hatter』。
昼下がりのアイドルタイムを迎えた店内には、穏やかなクラシックだけが静かに流れている。
司條明弥は店の出入口から一番遠いテーブル席で、分厚いハードカバーの書籍を開いていた。
窓から差し込む柔らかな陽光が滅紫色の髪を透かし、朱色の瞳は規則正しい文字列を追っていく。
彼の華奢な体付きと中性的な容貌は少女と間違われるのも無理が無いほどに整っており、ただ読書をしているだけの姿さえも、まるで一枚の絵画のように耽美的な空気を纏っていた。
「明弥くん。読書の邪魔をしてしまって悪いけど、少しいいかな?」
不意に掛けられた声に明弥は顔を上げた。
すぐ傍に立っていたのは、このカフェの店長である空川癒華だ。
切れ長の瞳を細め、いつものように穏やかで物腰の柔らかい笑みを浮かべている。
「……なにか用?」
本に栞を挟むこともなく、明弥はパタリと読みかけの本を閉じる。
明弥の突っ慳貪な物言いに対して癒華は気を悪くする様子も無く、手に持っていた皿をテーブルにそっと置いた。
「実は今、店で出しているケーキのレシピを改良していてね。よければ明弥くんに味見をしてもらえないかと思って」
「……僕に意見を求めるより、君の妹と相談したほうが有意義だと思うけど」
「勿論、既に妹とは口論になりながらも見解を擦り合わせ済みさ。でも折角だし、第三者の客観的な意見も聞いてみたくてねぇ。それに、頭を使っている時は甘いものが欲しくなるだろう?」
癒華は今し方、明弥が閉じた推理小説の表紙へ視線を遣ってから小首を傾けた。
彼が優雅な手付きで差し出した小皿には、絞り出したクリームの上に鎮座したひと粒のイチゴが目を引く、ダークブラウンの色合いで統一された美しいケーキが乗っていた。
滑らかなチョコレートクリームとふんわりとしたチョコレートスポンジで構成されたカットケーキは、パティスリーのショーケースに並んでいても遜色が無いほどに洗練されており、甘くほろ苦いカカオの華やかな香りが辺りに漂う。
「……まぁ、少しだけなら」
明弥は仕方ないといった様子でフォークを手に取り、ケーキの端を切り取って口に運んだ。
滑らかな舌触りの直後、ややビターなチョコレートの甘さが口いっぱいに広がる。
スポンジの軽さと中に入っている果実の僅かな酸味が絶妙なバランスを保っていた。
一度見聞きしたものを寸分狂わず記憶し続ける明弥の脳内でも、これほどまでに完成された味の記憶はそう無い。
この濃厚なチョコレートのコクとイチゴの甘酸っぱさが重なる上品な味わいは相当な情熱によって生み出されたものだろうと、明弥は目の前の欠けた三角形を見つめた。
「……これに文句を言う客は、余程いないと思う」
「ふふ、本当かい? それはよかった。明弥くんがそう言ってくれるなら、胸を張って茉莉ちゃんにも食べてもらえるよ」
癒華は安堵したように目を細め、真紅の瞳をうっとりと和ませた。
その言葉を聞いた瞬間、明弥のフォークの動きがピタリと止まる。
そして、点と点を繋ぎ合わせるように、パズルのピースが嵌まっていくように、ひとつの答えに帰結した。
癒華の執着とも呼べる深い愛情の矛先は常に一人の少女に向かっているが、その少女の好物が“チョコレート”なのである。
辟易するほど耳にしてきたこの情報がこのようなかたちで活用されるとは、思いも寄らないこともあるものだと明弥は溜め息をつく。
「……どいつもこいつも茉莉茉莉って、あの人のなにが君たちをそんなに惹き付けるんだか」
明弥の口から呆れたような、そしてほんの少しの嫉妬が混じったような台詞が溢れ落ちた。
しかし、癒華は明弥の言葉に怒ることもなく、ただ愛おしそうにくすりと笑った。
「まぁ、茉莉ちゃんはどこを取っても魅力的だからねぇ。そんな彼女に惹かれてしまうのは仕方の無い話だよ」
「……そう」
明弥はフォークの先でケーキを突ついた。
感情の起伏が乏しい彼にしては珍しく、その横顔に微かな寂寥の色が滲む。
明弥が唯一の友人と認め、特別な好意を寄せる親友は、双子の姉である茉莉に対する異常なまでの執心を隠さない。
それが時にどれほどもどかしいことか、察しの良い癒華にはお見通しだった。
「……このケーキ、いつでも食べられるようになるんだよね」
「そうだねぇ。近日中のリニューアルを検討しているけど、明弥くんがそんなに気に入ってくれるなんて光栄だよ」
「……別にそうじゃない。今度、甘いものが好きな友達にも勧めてあげようと思っただけ」
ぷいとそっぽを向く明弥の言葉に、癒華はすべてを理解したように優しく微笑んだ。
「そっか。その時は是非、柊生くんの感想を聞いておいてくれると嬉しいよ」
「……気が向いたらね」
明弥はそう言って退けていた本を再び手に取り、読みかけのページを迷わず開いた。
活字を追うその朱色の瞳の奥に、ケーキを頬張る親友の姿が浮かんでいることを癒華だけは静かに見守っていた。




