呪いに苦しむ聖女を救えるのは、役立たずと町から追われた俺だけなのでは?④
今は使われていない古い納屋の陰。
そこなら、誰も来ない筈だ。
燕は力尽きるように、湿った土の上に座り込んだ。
冷たい夜風が高熱を発する身体に心地良い。
見上げた空に浮かぶ異世界の月は、元の世界よりも大きく、そして青白く輝いているように見えた。
「……はは、俺には脇役がお似合いってことなのかな」
燕は自嘲気味に笑おうとして、ゴボリと血を吐いた。
視界が霞む。全身の感覚が指先から順に消えていく。
薄れゆく意識の中で、燕は想い人の笑顔を思い浮かべようとした。
だが、思い出せるのは元の世界で遠くから眺めていた横顔だけ。
「……ほんと、なにやってるんだろ」
しかし、自分が呪いを肩代わりしたことによって、この世界のマツリはこの先も笑っていてくれるのなら、この行動や人生にも少しは意味があったと燕は思いたかった。
それでも、後ろ髪を引かれる思いが無いと言えば嘘になる。本当は彼女の回復を皆で一緒に喜びたかった。
呪いに食い尽くされた燕の身体が、内側から崩れていく。
痛みをもう感じないことだけが救いか。
あるのは、底知れぬ寒さと深い眠気だけだった。
翌朝。館は騒然としていた。
死の淵にいたマツリが奇跡的な回復を見せたからだ。
呪いの痕跡は綺麗さっぱり消え去り、彼女は深淵の眠りから目を覚ました。
シュウは泣きながら姉に抱きつき、リカは信じられないといった顔で、けれど涙を流してその様子を見守っている。
「……私、どうして……?」
歓喜の輪の中心で、マツリは不思議そうに自分の手を見つめていた。
そんな喧騒から離れ、ルカは一人、館の裏手へと足を運んでいた。
マツリの回復は非常に喜ばしい。
しかし、彼は嫌な予感を覚えたのだ。
昨夜した燕との会話。
奇跡の瞬間に姿を見せない彼。
マツリの体内にあった筈の呪いの気配をそこから感じ取ったからだ。
ルカは微かに残る呪いの残滓を辿り、館の裏手にある古い納屋の陰へと辿り着いた。
「……燕、くん?」
そこに、彼はいた。
壁に背を預け、眠るように項垂れる海塚燕の姿。
ルカは駆け寄り、思わず手を伸ばすが、彼の指先が触れるよりも早く、燕の身体はさらさらと崩れ落ちた。
舞い上がる光の粒子を追って空を仰ぐと、そこには抜けるような青空が広がっている。
それはあの異邦人の瞳の色と同じ、どこまでも澄んだ空の色だった。
「……はっ、ぁ……ッ!?」
海塚燕は溺れかけた時のような猛烈な息苦しさと共に跳ね起きる。
全身に冷や汗が吹き出し、寝巻きが身体に張り付いて不快だった。
「……ここ、は……」
視界に入ってきたのは冷たい石造りの床でも薄暗い納屋の陰でもない、必要最低限の調度品が揃えられた部屋。
朝の光が差し込む窓の外には水平線がどこまでも続く大海原が広がっている。
「『セレシアンヌ号』の俺の部屋、か……」
燕は脱力したようにベッドに背中を預け、手のひらを天井に向けて広げてみる。
指先が光の粒になって消えることもなければ、腕に黒い呪いの痣が浮き出ていることもない。
ただの、ピアノ弾きの手だ。
隣のベッドでもぞりと毛布が動く。
顔を出したのは一匹の黒毛の狼だ。
『随分といい夢を見てたみたいだな。寝言がうるさかったぞ』
「いや、まぁ……異世界に召喚されたと思ったら石を投げられたり、怪しい洋館に逃げたり、死んだり……なんか不思議な夢だったよ」
『ふ〜ん、あっそ。楽しそうでなによりだ。こっちはおまえがうるさくてよく眠れなかったけどな』
「それはごめんって……」
燕はさっきまで見ていた夢を思い出そうとするが、次第に朧げになっていく。
「……ねえ、唯。自分が死ぬ夢を見るのって、悪いことじゃなかった気がするんだけど、どうだっけ」
『前になんかの番組で“死は再生の象徴”って、聞いた気がするけど……なんでおれが知ってると思ったんだ?』
死は再生の象徴。
古い自分が死に、新しい自分が生まれる。
或いは、事態が好転する前触れ。
「……そっか。じゃあ、近いうちになにかいいことでもあるのかな」
例えば、演奏を彼女が聴いてくれるとか。
偶然、弟とはぐれた彼女に出会うとか。
「唯、起きるよ。今日の演奏場所はどこにしよう」
些細な“奇跡”を期待するその表情は、目覚めた直後より少しだけ晴れやかに見えた。




