呪いに苦しむ聖女を救えるのは、役立たずと町から追われた俺だけなのでは?①
その日、海塚燕の世界は唐突な閃光によって塗り替えられた。
鍵盤を叩く指先の感触も、耳に馴染んだピアノの旋律も、全てがホワイトアウトする。
浮遊感と、内臓が裏返るような不快感。
次に彼が目を開けた時、そこに広がっていたのは見慣れつつある旅客船の景色ではなかった。
凍てつくように冷たい石造りの床。
そこに描かれた複雑な魔法陣の残光。
そして、圧倒的な威圧感を放つ豪奢な玉座の間だった。
「……失敗、か」
玉座に頬杖をつき、心底つまらなそうに吐き捨てられた言葉。
その声に、燕は弾かれたように顔を上げる。
視線の先にいたのは見覚えのある男。
だが、その瞳に宿る光は燕の知る彼よりも遥かに鋭く、人の命を塵芥としか思っていないような冷酷さを湛えていた。
「申し訳ございません、ジン陛下! 救世主召喚の術式が研究途中の未完成なものであった故に、座標がずれてしまったようで……」
「……ハァ? 救世主って……なに言ってるわけ?」
燕の口から乾いた笑い混じりの声が漏れる。
周囲を取り囲む武装した兵士たちが剣呑な空気を放つ中、玉座の王は淡々と燕に事実を告げた。
この国が未曾有の危機に瀕しており、現状を打破するため、異界より救世主を召喚する儀式を行っていたこと。
術式の不備により、本来喚ばれるべきではなかった燕が召喚されてしまったこと。
そして――。
「お前を元の世界へ帰すすべは、無い」
その言葉は、死刑宣告のようにも聞こえた。
「……冗談じゃない。そんなふざけた話があってたまるか……! 帰してよ、今すぐ!」
「すまないが不可能だ。召喚術がそもそも確立していない上に、魔力の枯渇、術式の崩壊……どれをとっても現実的では無い」
ジンは無慈悲に切り捨てる。
そこに燕への憐憫など欠片も存在しなかった。
「だが、こちらに非があることは認めよう。お前の城下での生活は俺が保証する。衣食住に困らない程度の金貨と身分証を与えてやろう」
「そんなのいらないから、帰せって言ってんの!」
「衛兵、連れて行け」
王の言葉は絶対だった。
抵抗も虚しく城外へと放り出される。
見知らぬ空の下、燕はただ一人、途方に暮れるしかなかった。
異世界での生活は燕が想像していたよりも遥かに過酷で、孤独だった。
国が用意した住居も食事に困らない金もあった。
しかし、燕に向けられる視線は冬の風よりも冷たかった。
「おい見ろよ、あいつだろ? 偽物の救世主ってのは」
「異界から来たっていう……なんの力もない役立たずなんだってな」
「俺たちの血税で食う飯は上手いか?」
「疫病神め」
根も葉もない噂は水が低きに流れるように、瞬く間に王都中に広まった。
王城での一件は箝口令が敷かれている筈だが、人の口に戸は立てられない。
街を歩けば避けられ、店に入れば露骨に嫌な顔をされ、時には石を投げられることさえあった。
生活を保証されたはずの家も、無言の圧力と嫌がらせに耐えかねて飛び出した。
行く当てなど、どこにもない。
(……帰りたい)
薄暗い路地の隅で膝を抱える。
元の世界でピアノを弾いていた自分の指は、ここではなんの役にも立たない。
「……こんなところでなにしてるの」
不意に頭上から声が降ってきた。
燕がのろのろと顔を上げると、いつの間にやら深々と外套を被った人物が傍に立っていた。
フードの下から覗く中性的な容貌に燕は息を呑む。
「……そっちこそ。こんな暗くて汚いとこ、女王様が来るような場所じゃないでしょ」
「……女王? ……まぁ細かいことはいいや」
熱の無い淡々とした口調や感情の読めない瞳は、元の世界で知る“女王”と見分けがつかない。
どうやらこの世界でも、彼は男性でありながら“王妃”の座についているようだった。
「……僕は君を探しに来た」
「わざわざ石でも投げに来たわけ?」
「……そんな無駄なことはしない。ただ、ジンが……この国が君にした仕打ちが少しだけ不憫だと思っただけ」
王妃はそう言うと、燕に一枚の羊皮紙を押し付けた。
そこには街外れの森の奥にある、屋敷への地図が描かれていた。
「……あの家に帰りたくないなら、そこに住んでる男を訪ねてみたらいい。“死神”なんて呼ばれてるけど、ジンより余程、君の助けになってくれると思うよ」
慈悲と言うにはあまりに突き放した物言いだったが、燕には他に縋る宛ても無い。
震える手で受け取った地図を頼りに、燕は鬱蒼と茂る森の奥深くへ踏み入る。
蔦に覆われた外壁と古びた鉄柵に囲まれる洋館は、まるで物語に出てくる幽霊屋敷を思わせた。




