北天に溶ける竜の吐息《後編》
「ったく、後先考えず突っ走った結果がこれじゃあ、格好つかねェぜ? 柊生くん」
突如、頭上から降ってきた呆れたような声。
「うるせーよ。子供が一人で泣いてるのを心配して悪いか。言葉がわからないのが想定外だっただけだ……」
柊生が助けを求めるように見上げると、幸宗は「やれやれ」と芝居がかった動作で肩を竦めた。
そして、子供の前に片膝をつき、目線を合わせる。
「Hei, lille venn. Hva skjedde?」
幸宗の口から流暢に紡がれたのは、先ほど子供が話していたのと同じ、独特の響きを持つ言葉だった。
滑らかな発音に柊生は目を丸くした。
「……お前、喋れるのか?」
「まァな。伊達に世界を巡っちゃいねェよ。柊生くんより少しばかり教養もあるんでね」
幸宗はニヤリと不敵に笑うと再び子供に向き直り、優しく語りかけた。
普段の軽薄さは鳴りを潜め、その声色は驚くほど穏やかで包容力に満ちている。
「Gråter du fordi du mistet moren din?」
「Snufs… rød… tak…」
「Rød tak? Er det huset ditt? Eller butikken?」
子供がポツリポツリと単語を並べるたびに幸宗は頷き、なにかを問いかけ、手袋をした大きな手で子供の頭をポンポンと撫でてやる。
次第に子供の涙は止まり、少しずつ落ち着きを取り戻していったようだった。
その様子を横で見ながら、柊生は呆気にとられていた。
普段は自分勝手で我儘で強引なこの男が、異国の言葉を操り、泣きじゃくる子供と心を通わせている。
その横顔は悔しいが頼もしく、少しだけ――格好良く見えた。
しばらくして、幸宗が立ち上がった。
「よし。行くぞ、柊生くん」
「は? どこに?」
「コイツの親御さんがいる場所に決まってんだろ。赤い屋根のパン屋だってよ」
柊生は子供の手を引いて歩き出す幸宗の後ろに慌てて続く。
幸宗の案内で路地を二つほど曲がると確かに赤い屋根の店があり、その前で血相を変えて子供を探す女性の姿があった。
「Mamma!」
「Min kjære!」
親子が抱き合う感動の再会を見届けると、幸宗は母親と二、三言葉を交わし、軽く手を振ってその場を後にした。
再び二人きりになり、大通りへと戻る道すがら、柊生は隣を歩く幸宗をまじまじと見た。
「お前、あんな言葉まで話せたんだな。なんていうか……ちょっと見直した」
「ン? 惚れ直したってか?」
「み、な、お、し、た! でも、外国語をあんなにペラペラ喋れるのは実際すごかったぜ。俺にはあの子供が言ってたこと……一ミリもわかんなかったし」
柊生が素直に感心していると、突然、幸宗は吹き出して可笑しそうに肩を震わせた。
「全部わかってたわけねェだろ」
「は?」
「あんなマイナーな言語、俺だって挨拶くらいしか知らねェよ。さっきのは、単語の端々から適当に推測して喋ってただけだ」
「……え?」
柊生の宇宙人を見るかのような視線も気にせず、幸宗はなんでもないことのように続ける。
「ガキが泣きながら言うことなんて大体、ママがいない、腹減った、漏らしたってとこだろ。さっきの場合は“赤い”とか“パン”とか聞こえたから、近くのパン屋に当たりをつけただけだ」
「はぁ!? お前……あんなに自信満々にしてたくせに……」
「ハッタリも実力のうちだろ。通じたんだから結果オーライじゃねェか」
悪びれもせず片目を閉じる幸宗に、柊生は開いた口が塞がらなかった。
感動を返せと言いたいところだが、結果的に親子を再会させたのは事実だ。
その度胸と機転の良さには、やはり敵わないと思わされる。
「……ほんと、食えねーヤツ」
「最高の褒め言葉だな……♪」
幸宗は上機嫌で笑うと、再び柊生の肩を強引に抱き寄せた。
厚手のコート越しでもその体温と重みが伝わってくる。
「さて、人助けも済んだことだし、そろそろメインディッシュに向かうとするか」
「は? メインディッシュって、パイ食っただろ」
「食いモンの話じゃねェよ。柊生くんと見たいモンがあんだ」
その後、幸宗が手配したタクシーに揺られること数時間。
車窓からの景色は石造りの街並みから雪に覆われた針葉樹の森へと変わり、やがて視界が開けた場所へと到着した。
そこは人里から遠く離れた小高い丘の上だった。
街の灯りは遥か遠くに小さく瞬くのみで、周囲は深い闇と静寂に包まれている。
タクシーを降りると、先ほどよりも一層厳しい寒さが襲ってきた。
「ううぅ、寒いし……眠い……なんでこんななにも無いところに」
「寝てる場合じゃねェぞ。ほら、見ろよ柊生くん」
「見ろって、なにを……」
幸宗に促され、柊生が釣られて空を見上げた、その瞬間だった。
暗い夜空に、一筋の光が走った。
それは見る間に帯となり、カーテンのように揺らめきながら、漆黒の空を幻想的な淡い青と白の光で塗り替えていく。
音も無く夜空を舞う光の奔流。
「これ……オーロラ、か?」
「ああ。けど、この地方じゃただのオーロラとは呼ばないらしい」
幸宗の声が、静かに響く。
「冬の澄んだ夜にだけ現れる白く輝く光の帯。現地の言葉で“白竜の息吹”って呼ぶんだってさ」
その言葉に、柊生の心臓がドクリと跳ねた。
白竜。それは切っても切り離せない柊生自身の象徴だ。
「お前、これを見せるために……」
「別に見せたかったわけじゃねェよ。俺が勝手に柊生くんと見たかっただけだ……まァ、テメェがなんと思おうと勝手だけどな」
幸宗は空を見上げたまま淡々と言った。
ゆらゆらと形を変えながら夜空を泳ぐ光は、確かに巨大な竜が吐いた息のようにも見える。
「……綺麗だな」
素直な感想が口を突いて出ていた。
「……茉莉にも、見せてやりたかったな」
この美しい光景を前にしても、やはり一番に思い浮かぶのは片割れのことだ。
「ハァ……テメェは口を開けば茉莉ちゃんのことばっかりだな。ほらよ」
幸宗が呆れたように溜息をつきながら、コートのポケットからなにかを取り出した。
放り投げられたそれを柊生は慌てて受け止める。
小さな包みだった。
かじかむ手で出来るだけ丁寧に開けると、中にあったのは――
「これ……」
昼間、露店で見かけたオーロラ色のリボンの髪飾りだった。
雪の結晶の銀細工が本物のオーロラの光を受けてキラリと輝く。
「茉莉ちゃんとの思い出の共有はこれで我慢しとけ」
「……いつの間に」
「テメェがガキに泣かれてあたふたしてた間だな」
幸宗はそっぽを向くように空を見上げ、柊生と目を合わさない。
赤くなっている耳は寒さのせいか、それとも照れ隠しか。
この男はいつもそうだ。
強引で、勝手で、人を振り回すくせに、肝心なところで心を掴むのが上手い。
「ありがとな」
向こうから逸らしてくれているなら好都合と、柊生は白い息に溶かすように、消え入るような声で感謝の言葉を告げた。
「……聞こえねェよ」
「別になにも言ってねーし」
柊生は髪飾りを大事にポケットにしまうと、再び夜空を見上げた。
頭上では白竜の息吹が未だ優雅に舞っている。
「柊生くん」
「……なんだよ」
「次はどんなとこ行きたい?」
「別に……どこでもいい」
どこへ行っても、どうせこの男に振り回されるのだ。
それに、どこであろうと知らない景色や予想もしない出来事が待ち受けている点に変わりは無いだろう。
不意に強く握り直された手が、凍えるような寒さの中で唯一の拠り所のように感じられた。




