天使たちのティータイム
コンコンコン、と控えめながらも軽快なノックの音が静寂を破る。
選ばれた者だけが入室を許されるこの部屋は、最上級のスイートと同等に洗練されているが、ひとつとして窓が無い。
ソファに深く身を沈めて退屈そうに天井を仰いでいた鷹中柊生と、その横でアームレストを枕に微睡んでいた鷹中茉莉の返事を待たずに重厚な扉が開かれた。
「失礼いたします、柊生様、茉莉様。おやつの時間でございます♪」
ワゴンを押して入ってきたのは、柊生専属の付き人である歌舞城姫百合だ。
彼の後に続いて、茉莉の付き人である帝宮天果も影のように音も無く入室する。
「……はぁ? いらねーよ。さっき昼飯食ったばっかだろ」
柊生が邪険に手を振るが、姫百合はどこ吹く風だ。
彼は優雅な手付きでテーブルの上にティーセットを広げる。
「まあまあ、そう仰らずに。本日は特別な一品をご用意したのですから♪」
姫百合がワゴンの上に鎮座する銀のクロッシュを持ち上げた瞬間、スパイスの香りが部屋の空気を塗り替えた。
漂ってくるのは、いつもの繊細で上品なスイーツの香りではない。
こんがりと焼き上がったバターたっぷりのパイ生地。その中に閉じ込められた肉汁と香辛料が、熱気と共に力強い香りを放っている。
「……なあに? この匂い」
「ふふ♪ 気になりますか、茉莉様? これはミートパイですよ。なんでも、本日寄港した国ではお祭りが催されているようでして、屋台で飛ぶように売れている名物なのだとか♪」
「祭りの屋台? わざわざ船降りて買ってきたのかよ」
彼らが今いるクルーズ客船『セレシアンヌ号』で提供されるのは、一流シェフによる贅を尽くした料理ばかりだ。
屋台料理などという、言ってしまえば野趣溢れる庶民的なメニューがこの船のレストランに並ぶとは考えにくい。
柊生が胡乱な目を向けると、姫百合は悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「いいえ♪ わたくしたちが柊生様や茉莉様のお側を遠く離れる訳にはいきませんから」
「だったら、これはなんだよ」
「わたくしが作りました♪」
「……は?」
柊生は呆気にとられた。
この男が? このパイを?
姫百合の陶器のような指先や手入れの行き届いた爪を見る限り、包丁を握る姿など想像もつかない。
いや、それ以前の問題だ。
「シェフでもないお前が、どこでどうやって作るって言うんだよ。材料だってねーだろ」
「ええ、仰るとおりです。実際、厨房の責任者には“在庫の管理上、余分な材料は一グラムたりともありません”と、けんもほろろに追い返されてしまいました♪」
柊生の追及に対し、頬に手を充てた姫百合はにっこりと優雅に微笑む。
そして、とんでもないことを宣った。
「ですから、ディナー用の上等な挽き肉を少々くすねさせていただきました♪」
「……はあ!? お前……それ、泥棒じゃねーか!」
「おやおや、人聞きの悪い。ほんの数百グラムいただいた程度ですから、精々、本日のハンバーグの提供が数名分少なくなるだけです♪ 大した問題ではありません」
姫百合のあまりの暴論に柊生は頭を抱えた。
もしこのパイを口にすれば、自分たちも同罪になってしまうのではないか。
そんな柊生をよそに、姫百合は涼しい顔で続ける。
「それに、このパイは柊生様たちの血肉となるのですから、食材としても本望でしょう♪」
全く悪びれる様子が無い。
このように姫百合の常識や倫理観が欠落した一面は時折見られるため、今更どうこう思うことは無いのだが、それにしても堂々としすぎている。
「ていうか、よく厨房に入り込めたな。部外者は立入禁止の筈だろ」
ふと浮かんだ柊生の疑問に対し、今まで無言で控えていた天果が眼鏡の位置を直しながら口を開いた。
「……補足します。姫百合やわたくしがこの船内を徘徊しても、誰も不審には思いません」
「……どういうことだ?」
「誰もが我々を知っていますが、誰も我々を知らないからです」
天果の言葉は禅問答のようだった。
首を傾げる双子を見兼ねて、姫百合がくすくすと笑いながら言葉を継ぐ。
「シェフも警備員も、わたくしと目が合えば挨拶をしてくれます。ですが、彼らに“今のは誰か”と尋ねても、きっと答えは得られないでしょう。そこにあるのが当然かのように、誰もわたくしたちの存在を気に留めないのです♪」
それは、彼らが人ならざる者である故か。
背筋が薄ら寒くなるような話だが、姫百合はすぐにパッと明るい表情に戻った。
「結果的に誰に咎められることもなくオーブンをお借り出来ました、というだけの話ですよ♪ さあさあ、柊生様、茉莉様。熱々の焼きたてをお召し上がりください♪」
手際よくナイフを入れ、切り分けたパイを差し出す姫百合に柊生は毒気を抜かれたように肩を落とした。
もう、突っ込むのも疲れた。
隣では事情など意に介さない茉莉が目を輝かせて湯気の立つパイを見つめている。
「……毒とか入ってねーだろうな」
「まさか! わたくしが愛する柊生様にそのような真似をする筈がございません♪」
柊生は警戒しつつパイを口に運んだ。
サクッとした歯触りのあと、口の中に広がる濃厚な肉の旨みと、スパイシーな香り。
その荒々しくも活気のある味わいは、柊生が知ることのない“外の世界”の味がした。
「……ん〜っ、美味しい! 中のお肉がとろとろだね」
「フン……まあまあだな」
「それはなによりです♪ お祭りの熱気に浮かれた騒々しい人々の声に耳を傾けて作った甲斐がありました♪」
姫百合は嬉しそうに声を弾ませ、柊生のカップに紅茶を注ぎ足す。
ふと隣の茉莉を盗み見ると、仏頂面の天果に口元を拭われているところだった。
柊生は黙って二口目のパイを口に運んだ。
口の中に広がるスパイスの刺激が胸の奥をじんわりと温めるような気がした。
甲斐甲斐しく世話を焼く姫百合の態度は馴れ馴れしく、鬱陶しさすら感じる。
しかし、折角ある便利なものを活用しないというのは勿体ない話だろう。
心の中でそう言い訳をして、柊生は目の前で慈愛に満ちた眼差しを向ける付き人から目を逸らす。
窓の無い部屋に見知らぬ異国の風が吹いたような、そんな午後のひと時だった。




