天使たちの夜咄
『エデン』と呼ばれるこの部屋に窓は無い。
昼夜の区別はナイトテーブルに置かれたデジタル時計の無機質な数字だけが教えてくれる。
表示は二時三〇分。丑三つ時と言ってもいい真夜中だ。
隣では鷹中柊生が規則正しい寝息を立てている。
普段は強気でぶっきらぼうな様子が目立つ彼だが、こうして無防備に眠る顔はどこかあどけない。
なんだか寝付けず、何度も寝返りを打っていた鷹中茉莉は、弟を起こさないよう細心の注意を払ってベッドを滑り降りた。
とはいえ、この室内で暇を潰せるものは限られている。
茉莉はカーペットの上を裸足で歩きながら、部屋を見渡した。
壁に掛けられたモニターで適当な映像を観れば、光や音で柊生を起こしてしまう恐れがある。
かと言って、いくら常夜灯が点いていても、この薄明かりを頼りに読書をするのは難しいだろう。
タブレット端末でネット検索や動画の視聴でもしようかと思いついたところで、ふと、入り口の扉が目に入った。
扉の外。シャンデリアの光が反射する廊下には、二人の付き人が茉莉や柊生を見張るように常在している。
此処、クルーズ船『セレシアンヌ号』に連れてこられた日からの付き合いだが、茉莉はあの付き人たちが休息する姿を一瞬たりとも見たことが無い。
今もきっと、呼べば次の瞬間には部屋の扉が開くことだろう。
……少しだけ様子を見てみようか。
そんな軽い気持ちで茉莉は足音を忍ばせて歩み寄ると、重厚な扉をそっと押し開けた。
眩い光が目に飛び込む。照明で照らされた船内の廊下はいつでも真昼のように明るい。
「あら、茉莉様。こんな時間にどうかされましたか?」
突然開いた扉に驚くことも無く、普段と変わらぬ鈴を転がすような声で訊ねてきたのは歌舞城姫百合。
目元を優しげに細め、柔らかな薄青色の髪をふわりと揺らす優雅な佇まいはまるで貴婦人のように華やかだが、身に纏う制服が彼が男性であることを辛うじて示している。
茉莉が姫百合への返事を言い淀んでいると、押し開けていた扉が突如重さを失った。
もう一人の付き人、帝宮天果が扉を引き、支えたためだ。
「……如何なさいましたか、茉莉様」
天果は昼間と変わらず赤い髪にしっかりとヘッドドレスを装着し、皺ひとつ無い制服に身を包んでいる。
鈍く光を跳ね返す大きな眼鏡の奥で、彼女の色違いの瞳が茉莉をじっと見据えた。
吊り上がった眉だけを見れば怒っているようにも見えるが、抑揚の無い声とその表情からは感情が上手く読み取れない。
茉莉は少し気圧されながら、遠慮がちに言葉を紡ぐ。
「その、ごめんなさい。ちょっと眠れなくて……退屈で」
「左様ですか。では温かいものを用意いたします」
「えっ? 待って帝宮さん! 私、そんなつもりで言ったんじゃ……!」
慌てて否定する茉莉をよそに天果は恭しく一礼した。
「少々お待ちください。三分で戻ります」
そう言い残すと同時に天果の姿は掻き消えるように消失した。
そこにはただ、彼女が纏っていた空気の微かな揺らぎだけが取り残されていた。
「まったく、天果さんは茉莉様のこととなると大袈裟なんですから♪」
「えっと、帝宮さんはどこに……?」
「どうやら医務室みたいですよ。茉莉様もご存知の通り、あそこのお医者様とわたくしたちは旧知の仲ですからね♪ こんな夜更けでもお湯を沸かす設備ぐらいは快く貸してもらえることでしょう♪」
茉莉は首を傾げた。
なぜ、わざわざ医務室まで……?
ここから医務室まではかなりの距離があり、往復だけでもそれなりの時間を要する。
茉莉の部屋にもキッチンはあるし、ルームサービスだって頼める筈なのに。
姫百合はまるですべてを見通しているかのように「ふふっ」と楽しそうに笑う。
「天果さんは、不器用な方ですから♪」
「……え?」
「お部屋のキッチンを使えば、その物音や匂いで柊生様を起こしてしまうかもしれない……そう案じたのでしょう。ルームサービスの利用もひとつの手ですが、茉莉様の睡眠時間の確保を考慮した結果、自らの足で走るのが最適解だと判断したのだと思いますよ♪」
姫百合の説明に茉莉はぽかんと口を開けた。
いつも怒っているような顔をしていて、どこか事務的で冷徹にさえ感じる天果が、そこまで気を遣ってくれていたとは。
「そっか……私、帝宮さんに嫌われてるのかなって思ってたのに……私たちと同じで、仕事だから仕方ないだけで」
「それは大きな誤解ですよ。茉莉様♪」
姫百合の大きな手が茉莉の小さな手をそっと取る。
「わたくしも天果さんも。茉莉様と柊生様が穏やかに過ごせることだけを願っているんです。たとえそれが、歪な形に見えたとしても」
「……歌舞城さん……」
姫百合の言葉に茉莉がなにか返そうとしたその時。
突風が吹き、空気が激しく震えた。
「お待たせいたしました」
瞬きをする間に目の前には息ひとつ乱さず、湯気を立てるマグカップを手に持った天果が立っていた。
まるで最初からそこにいたかのような自然さだが、僅かに乱れた髪がそうでないことを物語っている。
「おかえりなさい、天果さん。宣言通り三分以内のご帰還ですね♪」
「……雑談は不要です。茉莉様、これを」
天果は姫百合を無視し、濃厚なチョコレートの匂いが漂うカップを茉莉に差し出した。
中身はココアだった。表面に小さなマシュマロが二つ浮かんでいる。
「糖分と温かさは精神を安定させます。茉莉様のお口に合うと良いのですが」
「……ありがとう、帝宮さん。わざわざ遠くまでごめんね」
「移動時間は往復で二十秒にも満ちません。お気になさらず」
真顔でとんでもない冗談を言う天果に茉莉は思わず吹き出してしまった。
この広い船内をどうやって移動したのだろう。
「さあ、冷めないうちにお部屋で召し上がってください。飲み終えたカップはテーブルに置いたままで構いません」
「うん、わかった。それじゃあ……おやすみなさい」
茉莉は温かいカップを片手に、弟が眠る薄暗い部屋へと戻っていった。
重厚な扉がゆっくりと閉じていく。
「お休みなさいませ、茉莉様。良い夢を」
閉まる扉の隙間から聞こえた天果と姫百合の声は、いつになく優しく聞こえた。
ソファに腰掛けた茉莉はひと口、ココアを啜る。
天使たちの温かな夜はこうして静かに更けていくのだった。




