白衣を着た天使
「大丈夫だよー。無理しないで、ゆっくり歩こうね」
クルーズ船『セレシアンヌ号』の煌びやかな廊下に場違いな励ましの声が響く。
鷹中蓮絆は肩にずっしりとかかる老人の体重を支えながら額に滲む汗を拭うが、あくまで陽気な笑みは崩さずに一歩ずつ歩を進めていた。
彼の肩に重くのしかかるのは、今し方、ラウンジで派手に転倒した高齢の乗客だ。
一部始終を目撃してしまっては目の前で蹲る老人を放っておくわけにもいかず、蓮絆は親切な青年を演じて医務室まで送り届ける役を買って出たのである。
派手に転倒した様子からして、恐らく骨にひびが入っているか、悪くすれば折れているだろうと予想していた。
「すみませーん! 急患なんですけどー!」
やっとの思いで医務室まで辿り着くが、待合室や受付に人の気配は無い。
仕方なく無人の受付の奥に僅かに見える診察室へ向けて声を張り上げた。
「他に患者さんはいませんので、受付横の扉から直接どうぞ」
中からの応答に蓮絆は内心で「不用心だなー」と毒突きつつも、表面上は怪我人を心配する好青年を装って医務室の扉を開く。
医務室の中は船内の喧騒が嘘のように静まり返り、薬品の匂いすらもしない奇妙なほど清浄な空間だった。
「どうされましたか?」
奥から現れたのは一人の女性医師だった。
白衣を纏い、束ねた淡い金髪をふわりと揺らす彼女の姿はこの無機質な空間に咲いた一輪の花のようにも見える。
蓮絆は以前目を通した医務室の案内の記憶を繰り寄せ、“巫殿かずら”と載っていた彼女の名前を思い出す。
「すみません、巫殿先生。この方が転んでしまって。結構痛そうにしてるので診てあげてほしいんです」
蓮絆が状況を説明すると、かずらは常に絶やすことのない柔和な笑みで頷き、老人をベッドへと促した。
「大変でしたね。すぐに楽になりますよ」
彼女の手際は流れるようだった。
棚や引き出しから必要な道具を集めると、手早く怪我の処置に取り掛かる。
老人の衣服の裾が捲り上げられると、酷い内出血によって痛々しく変色した膝が目に飛び込んだ。
かずらはなんの躊躇いも無しに白魚のような指で患部に触れる。
その接触は触診にしてはあまりに一瞬の出来事だったが、彼女の手が離れると腫れ上がっていた筈の膝が何事もなかったかのように綺麗な肌色を取り戻しているのを蓮絆は見逃さなかった。
老人の表情から苦痛の色が消え去り、驚きと安堵が広がる。
「もう大丈夫ですよ」
仕上げに湿布を貼り付け、捲り上げた衣服を元に戻すと、かずらはにこりと患者に微笑みかけた。
その後、何度も頭を下げて感謝を述べる老人を蓮絆は適当に受け流し、スタスタと自分の足で歩いて出て行く彼を見送った。
その足取りは、ついさっきまで痛みに蹲っていたとは思えないほど軽やかだった。
「……すごいですねー、先生。ゴッドハンドってやつですか?」
コンピュータに先程の患者のカルテを入力するかずらに、蓮絆は努めて明るく世間話の延長のように声を掛けた。
探るような視線を瞳の奥に隠して。
「大袈裟ですよ。少しばかり手際がいいだけです」
蓮絆のほうに向き直り、上品に笑うかずらの顔には一切の驕りも動揺もなく、凪いだ海のような静けさを湛えている。
「それにしても君に付き添ってもらえて、あの方は運が良かったですね。ご協力ありがとうございました」
「いえいえー。通りがかっただけとは言え、流石に目の前で困ってる人を放っては行けませんでしたから」
「ふふ、そうですか。噂に違わぬ優しい“お兄さん”ですね」
蓮絆の眉がぴくりと動く。
「……噂?」
彼女の物言いが引っ掛かった。
かずらの言う“お兄さん”が、単に若い男性を指すものではなく、含みのある言葉に聞こえたのだ。
勘違いであればそれでいい。
しかし、他に蓮絆のことを“お兄さん”と呼ぶ理由があるとすれば――
「君には可愛い弟さんと妹さんがいらっしゃるでしょう? 白い髪がとても美しい双子の。ええと、確か……」
そう。弟妹たちを知っており、関わりがあるからだろう。
「名前は鷹中柊生さんと鷹中茉莉さんでしたね。彼らからお兄さんのお噂はかねがね」
「そうだったんですね。それはそれは、弟妹がいつもお世話になってます」
心臓が早鐘を打つ。
蓮絆は強張る表情筋に鞭を打ち、いつもと変わらぬ笑顔を貼り付けてなんとか平静を装うが、内心では千載一遇の好機に打ち震えていた。
柊生と茉莉。
『セレシアンヌ号』にて最高級商品として扱われている血の繋がった弟妹。
そして、蓮絆がこの船に乗船している唯一にして最大の理由だ。
弟妹の情報を引き出せるなら、相手が何者であろうと利用する価値がある。
「……あの子たち、元気にしてますか? なかなか会えなくて心配してるんですよー」
「あら、それはお労しい。私もお二人にお会いすることは滅多にありませんが、それこそが心身ともに健やかに過ごされている証拠とも言えますね」
双子の姿を思い浮かべたのか、かずらは愛おしそうに目を細めた。
慈愛が滲むその表情に嘘は見当たらない。
だが、それが逆に不気味だった。
「それに、彼らには過保護な付き人が二人もいますからご安心を。私の昔馴染みの同僚ですが、その分とても信頼しています」
「ふーん? 医師と付き人が同僚って、どういう繋がりなんですか?」
蓮絆はわざとらしく小首を傾げてみせた。
弟妹を常に監視し、不埒な輩を決して寄せ付けない鉄壁の護衛。
その正体は未だ掴めていないが、絶大な力を持つ何者かであることは推測出来ていた。
医師と監視役。職種も立場も違う者を同僚と呼ぶ関係性については、皆目見当がつかない。
「この船の雇用形態は随分と特殊なんですねー」
「ええ。とても長く、古い付き合いです。我々はこの船の行く末を見守る役割を担っているのです」
かずらは意味深長に微笑んだ。
「……そっかー。世の中には不思議な縁があるものですね」
形は美しくも空虚なその微笑みに、ぞわりと全身が粟立つ。
蓮絆の本能が警鐘を鳴らしていた。
これ以上問い詰めても、人間の常識では理解できない答えが返ってくるだけだと。
これ以上の収穫は見込めないと自身に言い聞かせ、蓮絆は引き下がることを決めた。
今日のところは、この医師と弟妹の繋がりを知れただけでも一歩前進だ。
「お話、楽しかったよ巫殿先生。また怪我した時はお願いしますねー」
「はい。お大事にしてください。ああ、それと」
扉に手をかけた蓮絆に、かずらが追い打ちをかけるように声を投げた。
「君のその焦燥は私には治せません。くれぐれも、早まらないように」
その言葉は弟妹を救い出そうと焦る彼への忠告なのか、予言なのか。
蓮絆はなにも答えず、取り繕った笑顔を貼り付けたまま医務室を後にする。
背中にじっとりと張り付いたシャツが不快だった。
閉ざされた扉の向こうで人ならざる医師がどのような表情でこちらを見送っていたのか。
それを想像することさえ恐ろしかった。




