苦い経験も甘い蜜にきっと
クルーズ客船『セレシアンヌ号』の一角にある『Cafe MAD HATTER』は、本日も優雅な午後の光に満ちている。
しかし、『セレシアンヌ号』の所有者の一人娘、神集島桜樹の存在が、カフェをいつもと違う様子に変えていた。
普段は彼女の伯母が面倒を見ているが、今日はその伯母が忙しいため、空川兄妹が一日だけ預かることになったのだ。
昼食を摂ってから、しばらくテーブル席に教材を広げて課題に向かっていた桜樹だったが、そろそろ休憩を考える。
「ブラックコーヒーを出してほしいのよ」
カウンターに沿って並んだ椅子のひとつに座るなり、桜樹は高らかにオーダーした。
カウンターを挟んだ正面に立つ店長の癒華は少し驚いたような表情をして見せ、その隣では妹の莉華がきょとんとして瞬きをする。
「おや。ブラックコーヒーだなんて、随分と大人びた注文だねぇ」
「別に可笑しな注文をしてるつもりはないのよ。パパも桜花ちゃんも、コーヒーを飲む時はいつもブラックだもの。だから、桜樹も同じように飲むのよ。桜樹はもう子供じゃないもの。甘ったるいジュースは卒業するのよ」
桜樹は胸を張り、「桜花ちゃん」と呼び慕う伯母を意識するように足を組んだ。
しかし、足が床に届かず、ぷらぷらと揺れているのはご愛嬌だ。
「でもね、桜樹ちゃん。ブラックってチョー苦いんだよ? あたしはジュースのほうが絶対美味しいと思うなぁ〜」
「莉華はなにもわかってないのね。大人の女性たるもの、苦味を楽しんでこそなのよ。さぁ、早く出して頂戴」
莉華は心配そうに癒華を見た。癒華は「仕方ない」と肩を竦め、サイフォンでコーヒーを淹れ始めた。
やがて、香り高い湯気と共にカップが置かれる。
「当店のスペシャルブレンドだよ。どうぞ、召し上がれ」
「……いい香りなのよ。それじゃあ、早速いただくとするのよ」
桜樹は優雅な手つき(のつもり)でカップを持ち上げ、口に運ぶ。
ひと口飲んだ瞬間、彼女の動きが止まった。
眉間に深い皺が刻まれ、顔色が青ざめていく。瞳が揺れ、カップを持つ手が小刻みに震えている。
(に、苦い……ッ!! なにこれ、毒!? 泥水!?)
心の中では絶叫しているが、プライドの高い彼女は決してそれを認めない。
震える声で「……芳醇な香りなのよ」と呟くのが精一杯だ。
「桜樹ちゃんのお口に合ったかな?」
「え、ええ……とっても……オトナの味なのよ……」
涙目になりながら強がる桜樹を見て、莉華はオロオロしている。
このまま無理を続けたら、飲み干す頃には彼女が気絶してしまうかもしれない。そう思った時、癒華がスッとミルクピッチャーとシュガーポットを差し出した。
「桜樹ちゃん。実はこのコーヒー、ミルクと砂糖をたっぷりと入れて飲むのがオススメなんだ」
「……え?」
「このブレンドはミルクと砂糖を入れると風味が引き立つように調整してあってねぇ。そうやって飲むのを気に入ってる常連さんも沢山いるよ」
それは明らかな助け船だった。莉華は「そうだっけ?」と首を傾げるが、桜樹にとってはまさしく渡りに船だ。
「そ、そう……通の嗜みってやつなのかしら? アナタがそこまで言うなら、桜樹も試してあげなくもないのよ」
桜樹はここぞとばかりにミルクをドボドボと注ぎ、角砂糖を三つ放り込んだ。コーヒーは白く濁り、甘いカフェオレへと変貌を遂げる。
改めて一口飲むと、桜樹の顔に安堵の色が広がった。
「……これなのよ! 桜樹にはこのバランスこそが至高なのよ!」
「あははっ! 桜樹ちゃん、おひげができてるよ~っ」
莉華が笑いながらナプキンで桜樹の口元を拭う。
ミルクの髭をつけたまま「至高」と語る少女に、癒華も声を上げて笑った。
「ひ……人の顔を見て笑うなんて、失礼なのよ!」
「そうだね、ごめんごめん。でも、無理して慣れないものを飲んで曇らせた顔よりも、そうやって美味しそうに笑う桜樹ちゃんのほうが、ずっと素敵だと思うよ」
癒華の言葉に、桜樹は顔を赤らめる。
結局、彼女は甘いカフェオレを飲み干すと、「やっぱりオレンジジュースにするのよ……」と消え入りそうな声でおかわりを注文した。
背伸びをした少女が本当の大人になるには、もう少し時間が必要だろう。空川兄妹は、その小さな成長をそっと見守るのも悪くないと思ったのだった。




