それは月が綺麗な夜
豪奢なシャンデリアが煌めくパーティー会場の喧騒は、分厚い扉の向こう側で遠い海鳴りのように響いている。
夜の帳が下りたクルーズ客船『セレシアンヌ号』は、逃げ場のない海上の監獄そのものだ。
司條明弥は纏わりつくような華やかな空気を振り払うように、人気の絶えた通路を歩いていた。
行く宛ては無い。
ただ、誰の視線にも触れない場所で呼吸を整えたかっただけだ。
勝手に会場を抜け出したことを迅はいつ気付いてしまうだろうか、などと考え事をしているうちに辿り着いていたのは礼拝堂だった。
重厚な扉を押し開けると、そこに人の気配は無く、死のような静寂が横たわっている。
祈る神など持たない明弥だが、この冷えた空気だけは好ましく感じられた。
月明かりを透かしたステンドグラスが、無機質な床に歪な極彩色の模様を落としている。
明弥はその幻想的な光景の中、祭壇の前の長椅子に項垂れる一つの影を見つけた。
闇に溶けそうなほどの白い髪。
見間違える筈もない。鷹中柊生だ。
「……柊生?」
明弥が声をかけるが、返事はない。
ただ、荒い呼吸音だけが神聖な空間に響いている。
普段の彼なら明弥の気配に気づけば、すぐさま無愛想に声を掛けてくれる筈なのだ。
明弥は音もなく近づき、その忙しく上下する背中に手を伸ばした。
「……どうしたの。具合でも悪いの?」
細い指先が、柊生の肩に触れた瞬間だった。
ビクリと身体を震わせた柊生が、強い力で明弥の手首を掴み取った。
振り払おうと反射的に手を引くが、乱暴に引き寄せられそれは叶わない。
明弥を見上げる柊生の顔は赤く上気し、金色の瞳は焦点が定まっていなかった。
「……茉莉……?」
掠れた声が明弥の鼓膜を震わせた。
この場にいない姉の名前を呼ぶと、柊生はまたすぐに力無くぐったりと項垂れてしまう。
明弥の手首を縋るように握りしめる柊生の手は、火傷しそうなほどの熱を伝えてきた。
「……どこに行ってたんだよ……探した……ずっと……」
「……僕は……」
「俺を、置いてくなよ……姉貴」
否定しようとした明弥の言葉を遮り、柊生の腕が腰に回される。
そのまま明弥の腹部に顔を埋め、子供のように擦り寄った。
彼が自分を友人として気にかける理由のひとつとして、姉である茉莉と雰囲気が似ているからだということを明弥はそこはかとなく勘付いている。
中性的な顔立ちと細身の体躯。
暗がりの中、熱に浮かされた柊生の目には最愛の姉の幻影が重なって見えているのだろう。
照れ隠しに憎まれ口をたたく、普段の強気な態度は見る影もない。
弱りきって、愛を乞う子供のような、それでいて獲物を捕らえて逃がさない獣のような姿。
だが、その無防備な弱さを晒している相手は、間違っても明弥ではない。
目の前の彼の網膜に映っているのは、彼にとって最愛の姉だ。
――滑稽だ。
明弥の胸の奥で、冷たい火種がチリと音を立てた。
彼が求めているのは自分ではない。
その事実は鋭利な刃物で抉られるように痛む筈なのに、なぜか明弥の思考は奇妙に冴え渡っていた。
もし今、ここで彼を突き放せば柊生は絶望するだろうか。
それとも正気に戻り、親友を睨みつけるだろうか。
どちらにせよ、この熱が自分に向けられたものではないと知らしめることは、あまりに味気ない。
「……僕はどこにも行かないよ」
明弥はただ淡々と、しかし優しく囁いた。
その声色は、今の柊生には慈愛に満ちた姉の言葉へと自動的に変換される。
柊生の腕に力が籠る。肋骨がきしむほどの抱擁。
加減を知らない子供のように、柊生は必死に明弥の細い体に抱きついた。
「……はぁ、っ……茉莉……好きだ……愛してる……」
「……うん。知ってる」
柊生の口から零れる愛の言葉は、明弥に向けられたものではない。
それでも、その熱情の矛先が自分に向いているという事実だけで明弥の身体は奇妙な高揚感に包まれていた。
「……僕も愛してるよ、柊生」
……君が望むなら僕は君の姉にだって、なんだってなってあげるのに。
明弥は柊生の熱に感化されるように、その身体を抱き締め返す。
それはまるで、蜘蛛の巣にかかった蝶を愛でるかのようだった。
月明かりの下、ステンドグラスが落とす極彩色の中で、二人の影はいつまでも一つに溶け合っていた。




