化猫の回旋曲《後編》
「……よいしょっと」
どこかの部屋に運び込まれると、蓮絆の体は乱暴に放り投げられた。
高級ベッドのふかふかなマットレスが衝撃を吸収し、痛みは全く無いが状況は最悪だ。
「……もう、なにするの!」
蓮絆は身を起こし、スカートの裾を直しながら幸宗を睨みつけた。
しかし幸宗は悪びれる様子もなく扉に鍵をかけ、ゆったりとした足取りでベッドに近づいてくる。
「なにをするかって? 決まってんだろ。茉莉ちゃんと楽しく遊ぶんだよ」
幸宗が覆いかぶさるようにして、ベッドに手をつく。
逃げ場がない。至近距離にある幸宗の顔は整っているが、その瞳の奥には底知れない色が渦巻いている。
(あ、これ、結構ヤバいかも……?)
蓮絆の背筋に冷たいものが走った。
今の自分は生物学上、完全に“鷹中茉莉”という女性だ。
見た目だけではない。
彼女の全ての構造を完全に模倣している状態。
……もし、このまま幸宗に襲われたとしたら?
混乱した思考が、ありえない方向へと暴走を始める。
(もちろん生殖機能もしっかり再現されてるわけで……もしここで間違いが起きたら……俺、にんし……!?)
男として生きてきた蓮絆にとって、それは想像を絶する恐怖だった。
(いやいやいや! そんな悍ましい話があってたまるか……!!)
蓮絆はブンブンと激しくかぶりを振った。
あまりの気色悪さに鳥肌が全身に広がる。
思考実験だとしても、踏み込んでいい領域と悪い領域がある。
「……なんだァ? 急にブルブル震え出して。そんなに俺に抱かれるのが怖いか?」
幸宗がニヤニヤしながら蓮絆の頬に触れる。
その指先が冷たくて、蓮絆は思わず「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。
これは演技ではない。純粋な生理的嫌悪と恐怖だ。
「や、やめて……! 本当に、お願いだから……!」
蓮絆は涙目で訴えた。
このままでは尊厳とか倫理とか、色々なものが崩壊してしまう。
幸宗の手が、蓮絆の――茉莉の華奢な肩を掴み、そのまま押し倒そうと力を込める。
「嫌がっても無駄だぜ。今のテメェに拒否権なんて無ェんだからな」
幸宗の顔が近づいてくる。
蓮絆はギュッと目を閉じて、最悪の事態を覚悟した。
「……ぷっ」
頭上から、吹き出すような音が聞こえた。
力が抜け、幸宗が蓮絆から距離を取る気配がする。
恐る恐る目を開けると、そこには腹を抱えて笑う幸宗の姿があった。
「あっはははは! 茉莉ちゃんの顔でそんな間抜けなツラすんのマジでやめろ!」
「……は?」
蓮絆は呆気にとられた。
幸宗はベッドの端に腰掛け、涙を拭いながら笑い続けている。
「……えっと、バレてるって、こと?」
「当たり前だろ。そんな粗末な変装で俺を騙せると思ったか?」
幸宗は呆れたように肩を竦める。
「匂いも、歩き方のリズムも、ちょっとした視線の動かし方も全然違ェっての。大体、本物の茉莉ちゃんなら、俺に捕まった時点でもっと上手くあしらうか、本気で嫌がるかするもんだ」
「うーん……自信あったんだけどなー」
蓮絆は観念して、茉莉の姿のままベッドの上で胡坐をかいた。
素の仕草で頭を掻く蓮絆を見て、幸宗は鼻を鳴らした。
「確かに見た目は完璧だ。そこは認めてやるよ。正直、触った感触も本物そっくりで気味悪いくらいだったぜ」
「それ、褒め言葉として受け取っていいのかなー?」
「皮肉に決まってんだろ」
幸宗は蓮絆を見下ろし、スッと目を細めた。
先ほどまでのふざけた雰囲気は消え、鋭い眼光が蓮絆を射抜く。
「……テメェがどこの誰だか知らねェけど、その子に変装するのはやめとけ」
底冷えするような低い声だった。
そこにあるのは嫌悪か軽蔑か。
「今回、バレたのが俺でよかったなァ? これがもし柊生くんだったら、その可愛い顔ごと抉り取られてたかもしれねェぞ」
「……わぁ、それは怖いなー」
蓮絆は苦笑いをした。
冗談のように聞こえるが、弟の性格を考えればあながち見当外れな推測でもないだろう。
あの弟は双子の姉に対して深い愛情と執着を持っている。
もし姉の皮を被った不届き者がいると知れば、幸宗の比ではない制裁が待っているに違いない。
「忠告、痛み入るよ。肝に銘じておくね」
蓮絆はベッドから降りると、軽く叩いて服の埃を払った。
まだ心臓が少し早鐘を打っているが、どうやら五体満足で解放してもらえそうだ。
「じゃあ、俺はそろそろ行くとしようかな。お邪魔しましたー」
「ああ。さっさと消えろ。そのツラ、二度と俺に見せんじゃねェぞ」
吐き捨てるような言葉を背に、蓮絆は逃げるように幸宗の部屋を後にする。
廊下に出ると、ふぅと深く息を吐いた。
(……あー、怖かった)
廊下の角を曲がったところで、白髪の少女の姿は暗色の髪をなびかせる青年の姿へと変わる。
「はぁ……まさか、こんなことになるなんてなー……」
蓮絆は自身の腹部をさすった。
放り投げられた時の衝撃か、それとも嫌な想像のせいか、少しばかり胃がキリキリする。
「……とりあえず、温かいものでも飲んで落ち着こう」
そう言って蓮絆はどことなく覚束無い足取りで歩き出す。
天才少年の姿はクルーズ客船『セレシアンヌ号』の喧騒に再び紛れていくのだった。




