化猫の回旋曲《前編》
クルーズ客船『セレシアンヌ号』の優雅な午下がり。
煌びやかなシャンデリアが揺れる廊下の片隅で、一人の少女が溜め息をついていた。
透き通るような白磁の肌に、雪のような白髪。
儚げな雰囲気を纏ったその姿は、この船の最高級商品あるいは裏名物とされる『エデン』の天使――鷹中茉莉その人である。
しかし、その中身は全くの別人であった。
(あーあ……失敗したかなー、これ)
少女に化けた鷹中蓮絆は、誰にも聞こえない声量で独りごちた。
今日の蓮絆の目的は船内でも特に警備が厳重なVIPエリアへの偵察である。
自らの護衛という身分を説明すれば入ることに問題は無いだろうが、身分を隠してお忍びバカンス中の国王夫妻の事情を説明するところからとなると……想像するだけで辟易した。
そこで考えたのが、この船の“顔”とも言える妹の姿を借りることだった。
『化猫憑き』。
それが蓮絆の持つ超能力だ。
姿形だけでなく、声帯から骨格、内臓器官に至るまで、対象の情報を完全に模倣し変身することが出来る。
完璧な偽装のはずだった。
だが、蓮絆の想定していない誤算が一つだけあった。
茉莉の姿は美しいが、それ故に人目を惹き過ぎる。
すれ違う乗員や客たちが、恭しく道を譲ったり、不躾な視線を送ってきたりするのだ。
その度に蓮絆は茉莉らしく楚々とした会釈を返す。これがなかなかに骨が折れる。
「……よし。今のうちに移動しちゃおう」
周囲に人がいないことを確認し、蓮絆は目的の区画へ足を向けようとした。
その時だ。
「おっと。見つけたぜ、迷子の天使ちゃん」
背後から伸びてきた腕が、蓮絆の細い手首をガシリと掴んだ。
あまりに突然のことに心臓が大きく跳ねる。
だが、蓮絆は瞬時に“茉莉”の仮面を被り直し、怯えたように振り返った。
「……えっ? 幸宗、くん?」
そこにいたのは、この船の支配者一族の一人であり、奔放な振る舞いで知られる館那谷幸宗だった。
青鈍色の髪に特徴的なオッドアイ。
整った顔立ちには、いつものように人を食ったような笑みが張り付いている。
(うわ、一番厄介な人に見つかっちゃったなー……)
蓮絆は内心で舌打ちをしながらも、表面上はか弱い少女の演技を続けた。
幸宗は茉莉と弟を気に入っており、頻繁に『エデン』に出入りしている常連だ。
下手に誤魔化そうとすれば、ボロが出るかもしれない。
「どうしたの? 幸宗くん。私、ちょっと急いでて……」
「急いでる? どこにだ? テメェらの部屋はこっちじゃねェだろ、茉莉ちゃん」
幸宗は掴んだ手首を離そうとしない。
それどころか、じろじろと蓮絆の全身を値踏みするように眺め回している。
その獲物を狙う獣のような鋭い視線は、居心地の悪さに拍車を掛けて仕方ない。
「えっと……ちょっと、探し物をしてて。だから、離してほしいな」
「探し物ねェ。そいつは奇遇だ。俺も今、ちょうどお前を探してたんだよ」
「え?」
「……なァ、これから俺の部屋に来いよ。いいだろ?」
問答無用の誘い。
蓮絆は焦った。
幸宗の部屋に行けば、偵察どころではなくなる。
「ご、ごめんね。今日はちょっと気分が優れなくて……また今度じゃ駄目、かな?」
蓮絆は上目遣いで申し訳なさそうに眉を下げて見せた。
これまでの経験上、茉莉がこうして断れば大抵の相手は引き下がるはずだ。
幸宗だって強引ではあるが、茉莉に無理強いをするタイプではない……筈だった。
「気分が悪い? そりゃ大変だ」
幸宗の目が、怪しく光った。
「なら、尚更俺が介抱してやらねェとなァ!」
「えっ? きゃっ!?」
視界が反転した。
幸宗は躊躇いもなく、蓮絆の体を米俵のように肩に担ぎ上げたのだ。
華奢な茉莉の体格になっている今の蓮絆が幸宗の筋力に抵抗するのは不可能に近い。
「ちょっと! 幸宗くん!? 下ろして……っ!」
「暴れるなって。落ちても知らねェぞ?」
幸宗は平然とした様子で歩き出す。
すれ違う人々がギョッとして振り返るが、幸宗が「見るな」とばかりに一瞥すると全員が慌てて顔を伏せた。
さすがは総責任者の息子、纏うオーラが違う。
(マズい、このままじゃ連れ込まれる……!)
蓮絆は必死に抵抗を試みるが、幸宗の腕は強固でびくともしない。
行き交う人の群れはいつしか姿を消しており、どんどん喧騒が遠ざかっていく。




