微睡みに沈む
消毒液特有のツンとした匂いが鼻腔を突く。
重たい瞼を押し上げると、視界一面に広がっていたのは無機質な白い天井だった。
「……気が付きましたか?」
不意に降ってきた声のほうへぼんやりと首を巡らせると、視界に入ったのはベッドの脇に佇む白衣の男。
サラサラとした綺麗な黒い髪に、射抜くような切れ長の深紅の瞳。
それは見間違える筈もない、空川癒華の姿だ。
だが目の前の彼は、糊の利いた白衣を羽織り、首には聴診器をかけ、その表情は驚くほど硬質で、いつもの穏やかな微笑みは無かった。
「……癒華、くん?」
「気分はどうですか。頭痛や吐き気はありますか?」
私の呼びかけに対して返ってきたのは、低く落ち着いた医師としての問いかけだった。
「いえ、大丈夫……です」
「それならよかった。交差点での接触事故を覚えていますか? あなたが青信号を渡っていたところ、右折車が不注意で突っ込んできたとのことですが……」
彼は淡々と告げると、ペンライトを取り出して瞳孔を確認する。
近づいてくる端整な顔立ち。真剣な眼差しが至近距離で覗き込んだ。その距離はわずか数センチ。
普段の彼なら、「おや、顔が赤いけど熱でもあるのかな?」なんて揶揄うように笑う場面だろう。
「異常はなさそうですね。外傷は軽い打撲と捻挫で検査でも問題は見受けられませんが、頭を打っているので念のため一晩入院して様子を見ましょう」
今の彼は表情をひとつも変えない。
あくまで私を "患者" として観察し、職務を全うしている。
「は、はい。わかりました……癒華先生」
思わずそう呼んでしまうと、彼の手がぴたりと止まった。
それからほんのわずかに、氷が解けるように口元を緩めた。
「……“先生”か。君にそう呼ばれるのは、なんだかこそばゆいね」
どこか他人行儀だった声色にいつもの優しさが滲む。
私はシーツをぎゅっと握りしめ、必死に平静を装った。
「なにかあればそこのナースコールを押してください」
事務的に告げると彼は踵を返し、風を切るように病室を出て行った。
真剣な眼差しで私の反応を窺っていた彼の姿を思い返す。
その視線は冷徹に感じるほど理知的で、触れる白く細い指先には温もりなどまるで無い。
それがどうしようもなく格好良かった。
誰もいなくなった病室で、枕に顔を埋めて足をバタつかせたい衝動に駆られるが、鈍く痛む右足首のお陰で行動には至らずに済んだ。
あれから恙無く時間は流れ、窓の外のビル群が夜の帳に包まれてから随分と経った。
消灯時間を過ぎ、廊下の足音だけが響く静寂の中、眠れずに天井を見上げていた。
軽い怪我とはいえ、病院という非日常の空間に神経が昂っているのもあるが、なにより昼間の白衣姿の癒華が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
(もう。あんな姿、反則だよ……)
もう何度、瞼を閉じて彼の姿を思い返したかわからない。
今や現実と妄想の境界が曖昧になっている気すらする。
不意にコツ、コツ、と近づいてくる靴音が耳に入った。
それは規則正しく落ち着いたリズムで床を踏む、耳慣れた足音。
「……起きてるかい?」
静かにドアが開き、ペンライトの明かりを頼りに癒華が顔を覗かせる。
夜勤の巡回なのだろうか。
白衣の前ボタンを外し、少しだけラフな雰囲気になっていた。
「癒華くん……」
「眠れない?」
振り返った私に気付いた彼はベッドサイドに歩み寄ると、自然な動作で額に手を当てた。
ひんやりとした手のひらの感触が心地よい。
「熱はないね。痛み止め、追加しようか?」
「ううん、大丈夫……ただ、ちょっとドキドキしてて」
「事故に遭ったんだ、仕方ないよ。怖い思いをしたね」
……違う。ドキドキしているのは、あなたのせいだ。
そう言いたいけれど、今の彼にそんな不謹慎なことを言ってはいけない気がして、言葉を飲み込んだ。
「……今日は忙しかった?」
「そうだね。救急の搬送が重なってね……君の名前を聞いた時は、心臓が止まるかと思ったよ」
彼は静かにそう言うと、私の手をそっと握った。
その手は大きく、温かく、そして微かに震えているように感じられた。
「心配かけて、ごめんね?」
昼間の冷徹な仮面の下に隠されていた本来の彼の優しさ。
それが垣間見えた瞬間、“格好良い”という感情よりも“愛おしい”という熱が勝ってしまう。
暗闇で揺らめいていた紅い瞳が、穏やかに細められる。
「……無事で本当によかった。君がいない世界なんて、俺には耐えられそうにない」
その甘い囁きに、歓喜と罪悪感がない交ぜになった幸福感に包まれる。
目眩を覚えながら、私もだと口を開こうとしたが、その光景は唐突に幕を閉じた。
「……ん」
芳ばしいコーヒーの匂いが鼻腔をくすぐる。
鷹中茉莉が目を開けると、そこは通い慣れたカフェの店内だった。
自分がテーブルに突っ伏して眠ってしまっていたことに気付き、茉莉は慌てて脳を覚醒させる。
波の揺れ、そして窓の外に広がる大海原。
それらは彼女がクルーズ客船『セレシアンヌ号』に囚われている現実を突き付けた。
「おはよう、茉莉ちゃん。随分とうなされていたようだけど、大丈夫かい?」
目を覚ました茉莉に気付いた癒華は、湯気を立てるカップを持って彼女のそばに歩み寄った。
茉莉が振り向くと、癒華はいつもの柔らかな笑顔を見せる。
「ご、ごめんね、癒華くん。いつの間にか寝ちゃってたみたいで……!」
「気にしなくていいよ。それより少し顔色が悪いようだけど悪い夢でも見た?」
「夢……」
茉莉は首を傾げる癒華に、夢の中の彼の姿を重ねる。
白衣を翻し、的確な指示を出し、誰もが頼る立派な医師。
それは彼が選べたかもしれない未来。
彼が手放してしまった可能性。
彼女を救うために、彼が犠牲にしたもの。
茉莉の胸がチクリと痛んだ。
だが、彼女の目の前にいる癒華は、そんな後悔など微塵も感じさせない笑顔で紅茶を差し出す。
「……見てた気がするけど、忘れちゃった」
「そっか」
「でもね、夢の中の癒華くんが……すっごく格好よかったのは覚えてる」
頬を染めて言う茉莉に、癒華は虚を突かれたように目を見開いたが、すぐに元の穏やかな表情に戻る。
「……参ったな。夢の中の自分に嫉妬しそうだよ」
「ふふ、なにそれ」
冗談めかして言う彼に、茉莉はクスクスと笑った。
たとえ今いる場所が閉ざされた船の上でも、彼がいるだけでいい。
たとえ白衣を着ていなくても、彼はいつだって茉莉の心と体を癒やしてくれる一番の名医なのだ。
「……癒華くんの淹れてくれる紅茶は美味しいね」
甘い紅茶の香りと、変わらぬ彼の笑顔に包まれて、茉莉は夢の余韻をそっと心の奥底に仕舞い込んだ。
いつかまた、あの素敵な先生に会える時を楽しみにしながら。




