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終末は旅客船で踊り続ける  作者: 成多摩せせり


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22/27

桜香る晩酌

 満月が海面を煌々と照らす夜。

 クルーズ客船『セレシアンヌ号』の舳先が波を切る音を聞きながら、一人の女性が自室の窓辺で月を愛でていた。


 手の中に収まるクリスタルグラスには、血のように濃い深紅の液体が揺れている。


 ユメミは上機嫌そうだった。

 月は美しく、酒は美味い。彼女にとってこれ以上の夜はないからだ。


「……よい香りだ。やはり年代物は違うのう」


 グラスを傾け、目を閉じ、芳醇な香りを鼻腔いっぱいに吸い込み、堪能する。


 その時、彼女のそばで小さな足音が止まった。


「……ユメミ」


 現れたのは、神集島(かしわじま)桜樹(おうじゅ)

 “ユメミ”という名を与えた吸血鬼を供人とする少女である。


 桜樹は、いつも綺麗に結い上げている桜色の髪を下ろし、脇には大きな枕を抱えている。


 半開きの眼でユメミを凝視するその顔は、いつも以上に不機嫌そうに歪んでいた。


「なんだ、桜樹か。まだ起きておったのか。子供は寝る時間であろう、夜更かしは肌に悪いぞ?」


「……うるさい。少し目が冴えちゃったのよ」


 桜樹はむすっとしたまま、ユメミの向かいの椅子に座った。

 そして、ユメミが手にしているグラスを見て、顔を引き攣らせる。


「ア、アナタ……まさかそれ……」


「む?」


「血……?誰かの血を飲んでるの……!?」


 桜樹の顔が青ざめる。


 彼女は『桜の棺(超能力)』によって、ユメミを遥か遠い土地より召喚した張本人だが、十代になったばかりの幼気な少女に他ならない。


 吸血鬼という存在の生態には、まだ耐性がないのだ。


 ユメミはきょとんとした後、ニヤリと口角を上げた。


「クックック……そうだ。これは若く美しい乙女の生き血。喉越しが良くてたまらぬぞ?」


「ひっ……!?」


「なんてな。嘘だ、嘘。ただの葡萄酒だ。貴様の伯母御、桜花(さくら)のコレクションから失敬してきた」


 ユメミがグラスを軽く掲げると、月明かりに透けて美しい紅玉のように輝く。


 桜樹はほっと胸を撫で下ろし、すぐに眉を吊り上げた。


「もう!桜樹を揶揄うなんて許さないのよ! それに桜花ちゃんのワインを勝手に飲むなんて……」


「よいではないか。減るものでなし……いや、減るか」


「当たり前なのよ……」


 呆れながらも、桜樹はユメミの傍にあるボトルに視線を向けた。

 退色したラベルは端がボロボロに欠け、文字はほとんど判読できない。


 ただ、それを嗜むユメミの姿はどこか艶っぽく、完成された大人の雰囲気を漂わせている。


 桜樹は、無意識に抱えていた枕を強く握りしめた。


 自分にはない、大人の余裕。

 それが悔しくて、羨ましい。


「……ねえ、ユメミ。それ、美味しいの?」


「美味しい、か……そんな言葉では、あまりに語彙が足りぬな。貴様の理解が及ぶには、あと百年は要るだろうが」


「ひゃ、百年なんて待てるわけないのよ! 桜樹にも少しだけ頂戴……!」


 桜樹が手を伸ばすと、ユメミはひらりと身を躱した。


「ならん。時に酒は身を滅ぼす毒となる。特に貴様のような未熟な器にはな」


「意地悪! ……アナタだけズルいのよ」


「狡いもなにも、百年ばかり待てば良いだけの話であろう」


「わかったのよ。だったらそれはユメミだけで飲んだらいいのよ!」


 桜樹はそう言い残すと、パタパタと部屋を出て行った。


 あまりに突然のことにユメミは首を傾げるが、「まぁよい」と気を取り直して再度、手中のグラスに意識を向ける。


 その矢先、小さな主が慌ただしく戻ってきた。

 手にはユメミのものと同じワイングラスと、一本の瓶。


 桜樹は再びユメミの向かいに腰をかけると、栓を開けた瓶の中身を得意げにグラスに注いだ。

 それはユメミのワインと同じくらい濃い、赤紫色の液体だった。


「……ほう。貴様もいける口か?」


「当然なのよ。……最高級の、ぶどうジュースなのよ」


 胸を張って宣言する桜樹に、ユメミは吹き出しそうになるのを堪えた。


 最高級だろうが何だろうが、ジュースはジュースだ。

 だが、必死に背伸びをして自分の隣に並ぼうとするその健気さが、悪い気はしない。


「成る程、それは結構。では、付き合ってもらおうかのう」


 ユメミがグラスを差し出すと、桜樹もおずおずとグラスを合わせた。


 チン、と澄んだ音が静寂な夜に響く。


「……んぐっ……渋いのよ、これ」


「くくく、貴様の舌にはまだ早かったか?」


「ち、違うのよ!これが大人の味ってやつなのよ。アナタにはわからないでしょうけど!」


 唇を紫色に染めながら、必死に強がる桜樹。

 ユメミは愉しそうに目を細め、グラスの中のワインを揺らした。


 悠久の時を生きるユメミにとって、人間の成長など瞬きするような一瞬の出来事だ。


 だが、この小さく不器用で愛らしい主人が、いつか本物のワインの味を知り、本当の意味で自分と肩を並べる日が来るのも、そう遠くはないのかもしれない。


「……そうだな。儂にはわからぬかもしれん。ご教授願いたいものだ」


「ふふん、いいのよ。桜樹が特別に教えてあげる。このジュースはね、ポリフェノールが豊富で……」


 得意げに語り出した桜樹の話を肴に、ユメミは再びグラスを傾けた。


 今夜の酒は、いつもより少しだけ甘く感じる。

 それはきっと、目の前の小さな淑女が加えた愛らしい背伸びのスパイスのおかげだろう。


 月は高く、夜はまだ長い。

 二人の晩酌は桜樹の瞼が落ちるまで、静かに続くのだった。

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