火花が焼いたその痕
『Cafe MAD HATTER』のドアベルが鳴ったのは、閉店作業が粗方終わった頃だった。
「いらっしゃい……と言いたいところだけど、もう閉店だよ」
カウンターの中で作業をしていた空川癒華は、顔も上げずに告げる。
しかしその客は、遠慮する気など微塵もないようで、ズカズカと店内へ踏み込んでくる足音に癒華は小さく溜息をついた。
「やれやれ……君には常識というものがないのかい? 幸宗」
「つれねェこと言うなよ、るかるか。重症患者がテメェの助けを求めて来たってのにさァ」
聞き慣れた軽薄な声に、癒華は手を止めて顔を上げる。
そこに立っていたのは予想通りの人物、館那谷幸宗だ。
いつもの飄々とした笑みを浮かべてはいるが、顔色は蝋人形のように白く、額には脂汗が滲んでいた。
そしてなにより、彼がだらりと下げた両腕は見るも無惨に赤黒く焼け爛れ、皮膚が引き攣っていた。
「……その腕、どうしたんだい?」
「あ〜、ちょっとな。……やんちゃな子猫ちゃんたちの躾でやらかして、手痛いお仕置きを食らっちまった」
幸宗はいつものようにヘラヘラしながら、カウンター席の椅子にどっかりと腰を下ろした。
その拍子に、服の布地が傷を掠めたのだろう。
一瞬、幸宗の顔が不快そうに歪むのを癒華は見逃さなかった。
「へぇ。君を窘めることが出来るのなんて、桜花さんぐらいなものだと思っていたけど」
「この傷はあのババアによるものじゃないだろう、ってか? ご名答♪ これは柊生くんと茉莉ちゃんの合作だ。……ま、そのあと痛みを上書きしてくれたのは母さんだけどなァ」
詳しい事情は分からずとも、幸宗がこのような大怪我をする程に体を張ることがあるとは予想外だった。
彼がそれほどまでに守りたかったものがなんなのか、癒華はそれとなく予想を立てる。
「……馬鹿だね、君は。自分が生身の人間だってことを忘れたのかい?」
「うるせェな。……いいから早く治せよ。洗脳で麻痺させてる筈なのに、ジクジク痛む感じが不快なんだよ」
幸宗はカウンターの上に無造作に両腕を放り出した。
その態度は尊大だが、震える指先が限界を訴えている。
「……はいはい。特別診療だよ」
癒華の手がそっと幸宗の患部に触れる。
彼の『堕天使の顕現』は、触れた相手の思考および生体情報を読み取り、治癒力を爆発的に活性化させることが出来る。
「……っ」
指先が触れた瞬間、幸宗の喉が微かに鳴った。
激痛が走ったのではない。
癒華の手から流れ込む温かな力が、焼き尽くされた神経を優しく撫でたからだ。
「痛むかい?」
「……いや、くすぐってェ」
「ならいいけど。……しかし随分と深く焼いたねぇ。俺がいなかったら、どうなっていたことやら」
癒華は深紅の瞳を伏せ、丁寧に幸宗の腕を撫でていく。
軽口をたたきながらも、その手つきは壊れ物を扱う職人のように繊細で真剣だった。
癒華の手が触れたところから、赤黒い熱傷がみるみるうちに新しい皮膚へと再生していく。
じんわりとした温もりが広がる感覚に幸宗は張り詰めていた息を吐き、崩れるようにカウンターに突っ伏した。
「やっぱ持つべきは優秀なヒーラーのダチだなァ」
「調子のいいことばかり言って。……茉莉ちゃんと柊生くんの喧嘩に仲裁に入るなんて無茶なことをしたねぇ」
「まァな」
「どうして君がそこまでしたんだか」
「フン。こうして俺に触れてる時点で、るかるかにはお見通しのくせに」
幸宗は顔を腕に埋めたまま、くぐもった声で言う。
実際のところ、彼の言うとおりだった。
指先を通じて、否応なしに幸宗の思考が癒華の脳髄へ流れ込んでくる。
――『セレシアンヌ号』に楯突いたと見なされれば、柊生や茉莉の立場はさらに危うくなる。
――あいつらが傷つくのを見るのは寝覚めが悪い。
そして、心の奥底にある、ほんの小さな本音。
――茉莉ちゃんになにかあったら、るかるかが悲しむだろうしな。
「…………」
この男は不遜で、身勝手で、遊び人のふりをしているくせに、妙に義理堅いところがある。
茉莉たちの境遇や自分たち兄妹が“人質”であることに対して、多少なり疚しい気持ちを抱えているのかもしれない。
それにしたって今回は存外、度が過ぎているが……と、癒華は思った。
「……はい、終わったよ。調子はどうだい」
全ての治療を終えると、幸宗の腕は傷ひとつない滑らかな肌に戻っていた。
癒華は額の汗を拭い、ふぅと息をつく。
流石にこれだけの重傷を治療するのは骨が折れる。
幸宗は腕を上げ、手を握っては開くのを繰り返し、感触を確かめると口角を上げた。
「いやァ、助かったぜ。両腕切断に怯えてたのが嘘みてェだ」
「これに懲りたら、もうこんな無茶をするのはやめることだねぇ。君の傷を治すために体力を消耗させられる俺の身にもなってほしいよ」
「俺だってあんな思いをすんのは二度とゴメンだぜ。ただ、人生なにがあるかわからねェからなァ……?」
悪びれることもなく、反省の色が見えない幸宗の態度に、癒華は呆れを通り越して笑うしかなかった。
幸宗はなにかを見つけたように癒華から視線を外すと、カウンターの奥にある棚を指差した。
「治療費代わりにそこの高そうな酒、一杯奢ってやるよ……♪」
「これかい? これは『Bar Duchess』……桜花さんが管理してるものだけど、息子の君がいいと言うなら」
「……うん、やめとくか。今日の今日、母さんに喧嘩を売るのは得策じゃねェ」
「賢明な判断だね。それなら、君にはご馳走をしてもらうとしようかな。俺たち一介の従業員には敷居が高くて、とても入れないような店でね」
癒華の提案に、幸宗は「仕方ねェなァ」と笑いながら立ち上がった。
二人は店を出て、廊下を歩き出す。
クルーズ船『セレシアンヌ号』は暮れなずむ空の下、穏やかな海を航行し続けるのだった。




